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古典と創造 鯉江良二と井上有一:3 /うつわ菜の花

承前

 鯉江さんの瀬戸黒茶碗(リンク先写真・中央右から2番目の黒い碗)は、桃山の瀬戸黒茶碗(たとえば、このようなもの)を規範としている。
 ほかのうつわも、源流は古い作例に求められる。織部、李朝、琉球、備前、唐津……
 わたしのなかの「字引き」には、そういった古い作例の項目がすでにあった。だからわたしは、それらの姿を鯉江さんの作品の背後に認識できたことになる。漢字を見てその意味が思い浮かぶのと同じように。

 問題はここからだ。
 視覚でとらえた大まかな情報が、字引きのある項目と一致したとき、どうするか。
 「ああ、これは瀬戸黒ね」(「ああ、これは『花』という字ね」)と言い残して字引きをぱたんと閉じ、隣の作品に興味を移すか。
 はたまた、立ち止まって、字引きの記述と目の前の作品とを比べてみるか。
 どちらをとるかは、鑑賞する側に委ねられている。

 鯉江さんの投げたボールをどう打ち返すか。
 やはり、基盤や前提となっている古い作例を踏まえられることが第一歩だろう。これはバッターボックスに立つことに等しい。
 そのうえで、桃山の瀬戸黒に似ているから「ああ、あれね、わかった」と思考停止せず、「似ていても同じではない」点のほうにこそ目を向けたいものだ。
 差異を感じる理由をつぶさに突き詰めていけば、そこに作家の創意や現代性を見出せると思われるからである。
 現代作家の作に接するにあたっては、そういったスタンスを心がけている。

 桃山という既存の「枠」にはめてしまえば、この茶碗は桃山の真似ごと、コピーということになってしまう。もちろん世の中にはそういった作もあるのだが、鯉江さんの瀬戸黒の茶碗には、それを許さない差異、上澄みを感じるのである。

 八木一夫が、先輩の石黒宗麿をこう評している。文中の「二番師」とは、古作の写し物をつくる、いわゆる「贋作師」のこと。

 石黒宗麿氏が二番師ではなかったということは、その古典への肉迫の底から、あの人の地声を、たしかに聞くことができる、それが先ずの証しだと私はおもう

『オブジェ焼き』

 八木の表現を借りれば、鯉江さんのうつわもまた「地声」を放っている。
 古典を感じさせながらそれとは異なっており、その「枠」を超えた自由な存在となることに成功していると思うのだ。

 鯉江さんの茶碗や壺から聞こえるその「地声」は、井上有一が書く漢字の、本来備えもつ意味をつき崩し、豊かに広がりながらこちらに迫ってくるさまとよく調和し、共鳴しているように感じられた。
 こういった「地声のある」ものこそが、抽象的で難解なものよりもよほど、観る者を試すだろう。
 なにしろ、古典という巧妙なトラップに惑わされずに、「~に似ている」「~ふう」「~っぽい」から一歩進んで、本質をつかもうとしなければならない。
 それはとてつもなくむずかしいことであると同時に、とても愉しい。
 がっぷり四つの勝負。うまく打ち返せたか甚だ心許ないけれど、その愉しさだけは間違いがない。


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