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奈良・法華寺と海龍王寺の御開帳、ユキヤナギ

 大安寺のあと、なお時間があったので、バスを乗り継いで法華寺と海龍王寺を訪ねることにした。大安寺と同じく、御開帳の真っ最中。
 光明皇后によって開かれた古刹・法華寺。全国の国分寺を束ねる「総国分寺」の東大寺に対し、「総国分尼寺」とされる尼寺である。桃山時代建立の本堂内では、尼僧の唱える経文がこだましていた。

もとは、藤原不比等の邸宅。不比等の没後に娘である光明皇后の宮殿となり、のち法華寺に改められた
慶長6年(1601)、淀殿の寄進により建立された本堂(重文)。南門、鐘楼も同時期の建築

 このたび特別開扉されている本尊《十一面観音立像》(平安時代  国宝)には、光明皇后のお顔を写したとの伝があるが、彫りの深い顔立ちで、むしろ遠くインドを思わせる。長く垂らした右腕、蓮のつぼみや葉を連ねた特異な光背も相まって、濃厚な存在感を醸し出す。
 そのためか、写真では大きく感じられるのだけれど、像高1メートルほどの小さなお像。わたしはいつも「あれ、小さいな?」と思ってしまい、馴れない。
 妖艶な魅力のある作だ。

 本堂では他に、《維摩居士坐像》(奈良時代  国宝)や3つの大きな仏頭(いずれも重文)を拝見。

正面右が鐘楼(重文)。その手前の白い植物はユキヤナギ
カラフロ(浴室。重要有形民俗文化財)。古代の蒸し風呂の名残をとどめる


 海龍王寺は、法華寺から歩いて5分。それも「門から門まで」の所要時間であって、敷地としては隣接している。
 法華寺のある区画の北東の隅っこだけ海龍王寺……そんなイメージだが、藤原不比等が現在の法華寺一帯に邸宅を構えるよりも以前から、海龍王寺の場所には、その前身となる寺院があったのだという。海龍王寺のほうが古いのだ。

海龍王寺の山門。西日が差し込んでいた
ひび割れた築地塀は、大和路の風情たっぷり
山門をくぐって、細道をまっすぐ。両脇には築地塀が
内門。ユキヤナギがお出迎え。いよいよ境内へ

 海龍王寺は、わが最愛の大和古寺のひとつ。
 ひとつに決められないから「~のひとつ」としている。この近辺でいえば不退寺も興福院も秋篠寺もすばらしいし、メジャーどころの東大寺、法隆寺、室生寺だってもちろん最高の最高なのだが、あえてオススメをといわれたら、海龍王寺の名前を挙げる気がしている。アクセスがよく、建築も仏像も古いものがそろっていて、入門篇に持ってこいでもある。
 なにより、海龍王寺のこぢんまりとした境内では、大和古寺らしい情緒が存分に味わえるのだ。

西金堂(奈良時代  重文=左)と本堂(江戸時代  奈良市指定文化財)
本堂

 本堂で、特別開扉中の本尊《十一面観音立像》(鎌倉時代  重文)を拝観。
 美麗!  ほんとうに美麗なお像だ。
 鎌倉時代の作でありながら、いま出来たかのような、この美しさ。昭和28年まで秘仏だったため、良好なコンディションが保たれたのだという。
 金色の身体にとりどりのアクセサリーで着飾ってはいるが、その顔つきはたいへん知性的。こちらを見透かすように、視線を投げかけている。
 お堂の中央を歩くたびに、アクセサリーが揺れるのにはひやひやしたけれど、それだけ近くで観られたのであった。

 いっぽう、西金堂の内部には、いつでも観られる珍しい寺宝が収まっている。高さ4メートルのミニチュア《五重小塔》(奈良時代  国宝)である。

西金堂
《五重小塔》。かなり忠実に、木組みが再現されているという。元興寺にも同種の作例がある(やはり国宝)
文化財としての指定区分は「工芸品」ではなく「建築」となっている。中に人が入れないミニチュアでも、建築
経蔵(鎌倉時代  重文)。高床式になっている

 この時期、海龍王寺の境内をさりげなく彩るのが、ユキヤナギの白く小さな花。こちらも堪能した。

桜も一部だが開花
ゼンマイが頭をのぞかせていた

 ——春は、すぐそこ。

 帰りは、法華寺の脇から平城宮跡に抜け、そのまま突っ切って大和西大寺駅まで歩いた。

平城宮跡。奥に近鉄の電車が走っている。近鉄に乗ってこの平原がみえてくると「帰ってきたなぁ」と胸が熱くなる
右は若草山
復元された平城宮の第1次大極殿。「大極殿」の勅額は、海龍王寺に残る勅額をもとにしてつくられたとか

 これからの季節、「花大和」はいっそうの彩りをみせる。わたしの大和路巡礼は、いつまで経ってもぐるぐるぐるぐる、終わりそうにない。



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