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中国陶磁で “整う”

 サウナが静かなブームとなっている。
 愛好者によると、蒸し暑い密閉空間と冷たい水風呂との往復を黙々と繰り返した果てに、“整う” と呼ばれる境地があるのだという。みずから進んで苦行に身を投じ、容易には到りえない域に達する。サウナはさながら仏法の修行、愛好者は修行僧だ。
 サウナには明るくないが、サウナに対して “整う” という表現が当てられるようになったのは、そう古いことではないと認識している。
 ここ数年来のサウナ・ブームのなかで、誰ともなく “整う” という言い方が出現し、同好の士が個々にいだいていた感覚にみごとに合致、瞬く間に広まった……といったところだろう。こうして輪の外にいる人間まで伝わってくるというのは、よほどのことだ。辞書の「ととの‐う【整う】」の項目に、新たな用例が加わる日も近いか。
 
 わたしにとっては、美に触れることじたいが “整える” 行為に等しい。
 俗塵を掃(はら)い、悩みや不安を忘れて「観る」。そうして得られる心持ちは、たぶんサウナでいう “整った” 状態に似ているのかなと思う。これはかなり近いニュアンスなのではと勝手に思っている。
 “整える” は、楽器やラジオの「チューニング」にもなぞらえることができよう。酷使するうちに狂ってきた音程を合わせる。目盛りをミリ単位で回し、ノイズが入らないようにする。
 寺田寅彦の随筆にも、次のような一節があった。

 えらい思想家も宗教家もいらない。ほしいものはただ人間の心の調律師であると思う時もある。その調律師に似たものがあるとすればそれはいい詩人、いい音楽者、いい画家のようなものではないだろうか 

寺田寅彦「調律師」

 ――いい絵を観て没頭する、その絵について語り合うといった豊かな行為によって、ニュートラルを獲得する。
 そういったこととなるが、もっと細かく、どんな行為や作品が最もよき「調律師」のはたらきを担ってくれているかといえば……奈良を歩くこと、東大寺法華堂の古仏たち、川村記念美術館「ロスコ・ルーム」の《シーグラム壁画》、日本民藝館、大阪市立東洋陶磁美術館の常設展示などが思い浮かぶ。
 いずれも現地に足を運ぶことが大前提となるけれど、このうち、わりかし代替がきくのが東洋陶磁、とくに中国陶磁を観ることだろう。

 古代から近代まで、中国はやきものの先進国でありつづけた。最高のクオリティの陶磁器を制作できたのは、いつの時代も中国の人であった。
 なかでも官窯やそれに準ずる作は規矩正しく、洗練の度を極める。確かな腕をもった職人が、それでも自己主張を謹み、愚直に発注内容をクリアして生み出した、高度な達成……こういった作を観ていると、どこまでも清く澄んだ佇まいに、身が引き締まる思いがするのだ。
 大阪市立東洋陶磁美術館には、中国陶磁の各時代の名品が所蔵されている。世界に冠たるコレクションで、大阪市のみなさんはこの館のことをもっと声高に誇っていいと思う。
 国内ではほかにも、東京国立博物館や出光美術館、静嘉堂文庫美術館、根津美術館、松岡美術館、岡田美術館などによいものがたくさんある。このうち、常設で拝見できて都心からのアクセスも気軽となれば、東博の東洋館と松岡美術館くらいのものだろう。
 先日は、松岡美術館に行って “整えて” きた。
 中国陶磁にまとめて接するのは久々だったためか、感じるところは多く、じっとながめているうちに自然と「中国陶磁で “整う”」という言葉が浮かんできたのだった。
 ときおり、中国陶磁がむしょうに観たくなる日がある。サウナと違って美術鑑賞に「苦」の要素は少なかろうとも、その中毒性と調律の効能のほどは、意外によく似ているのかもしれない。


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