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『ありがとう!ママはもう大丈夫だよ~泣いて、泣いて、笑って笑った873日~』全文公開⑤ きょうだいの待つ自宅へ

我が子・優司の命を救う唯一の手段は「肝臓移植」のみでした。生体肝移植手術のその後です(『ありがとう!ママはもう大丈夫だよ~泣いて、泣いて、笑って笑った873日~』全文公開④ 生体肝移植手術前夜、忘れられない夜より)。

手術は10時間にも及びましたが、幸いにも無事に成功し、優司は一命をとりとめます。

私は全身がものすごい術後の痛みで、数日は立ち上がることもできませんでした。でも、点滴を引きずりながら向かったICUには、スースーと寝息を立てて眠っている優司がいました。その途端、私の目から涙があふれてきて、止まることはありませんでした。

こんな小さな息子の体の中に、私の肝臓が入っていてちゃんと動いているなんて……信じられないような奇跡です。今でも私のお腹には、その手術の時の傷跡が縦にまっすぐ入っています。「整形手術で消すこともできるよ」と外科の先生に言われましたが、とんでもない! 優司の体にも消えない傷跡が残っていますし、私にとってこの傷跡は『よく逃げなかった!』と自分を讃える勲章だと思っているので、消すことなんて決してしたくないのです。

その後、春から夏に季節は変わり、その間にもいろいろなことがありました。優司の肝臓は手術のおかげで良くなったのですが、またもや原因不明の肺の機能悪化により自発呼吸が十分にできなくなってしまい、人工呼吸器を付けなければならなくなってしまいました。気管につながるように喉に穴を開け、そこにカニューレという管を通す手術を受けるのですが、人工呼吸器を付けると声帯が震えないので声を出すことができなくなってしまいます。

初めてそのことを聞いた時、めまいのようなショックを受けました。可愛い声で「ママ!」と呼んでくれる日をお母さんなら誰もが楽しみにしていることでしょう。

「なんで私だけこんなにつらいの! 普通のお母さんができることが何もできない!」と、誰のせいでもないのに人目も気にせず怒りにまかせて泣いていました。

でも、ICUの先生や看護師さんは、そんな私を見守り、励ましてくれました。「呼吸器は肺が良くなれば、いずれ外せます。いま、優司君は息をするのも苦しいはずです。お母さん、つらいでしょうけれどがんばりましょう」

私も苦しいですが、優司はもっと苦しいはずです。そんなことを聞いてしまったらもうどうしたって受けなければならない手術でした。私はその時、心に決めました。「絶対に良くなって、いつか普通のこどもに戻してあげるからね。優ちゃんにはママがついてるからね」

優司は首もちゃんと座って、生後5カ月になりました。

そして、季節は秋になり、そして冬になり、とうとう退院の日がやってきました。初めて成育に来た日から10カ月が過ぎ、優司の1歳の誕生日が5日後に迫る12月21 日―。お世話になった大勢の病院の方々に見送られ、私たちは家に戻ることができました。

優司の肺はステロイド薬を飲むことで悪化するのは防げてはいますが、完治したわけではありません。肝臓移植後、一生飲み続けなければならないたくさんの薬もあります。呼吸器を付けたまま、そんな不安定な状態で退院することは異例の事態であり、“前例がない”という理由で当初は大反対されていたのです。

病院でやってもらっていたすべての処置が自分でできることと、そのための強い覚悟がない限り、退院をして在宅看護することはできません。もちろん私にも、最初からできるという自信があったわけではありません。夫が一緒に退院に向けて努力してくれたこと、プライマリー(ひとりの看護師が患者の入院から退院までを一貫して担当する看護方式)という担当看護師さんがとても親身になって退院させようとしてくれたこと、優司を診てくださった医師に恵まれたことなどなど……さまざまな良いことが重なりました。

自宅で何かトラブルが起きたら怖いという気持ちを、少しずつですが家に帰りたい気持ちが上回っていき、「優ちゃん、いつおうちに帰ってくるの? ボク、優ちゃんに文字の書き方教えてあげるよ、お母さん」と退院を楽しみにしてくれている祥司の一言で、私の気持ちは固まりました。

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