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ちあきなおみ~歌姫伝説~14 郷鍈治の途・前篇 

 さて前回まで、ちあきなおみが歩いた途を私なりに彷徨い、「喝采」でレコード大賞を受賞
するまでの足跡、その後の歌手としての葛藤と逡巡まで辿り着くことができた。
 この当時、メディアはテレビ全盛時代にあり、一九七二(昭和四七)年、ちあきなおみが「喝采」で出場した「第23回紅白歌合戦」の視聴率は、八〇・六%(ビデオリサーチ調べ)である。
 大晦日はレコード大賞から紅白歌合戦をつづきで見る、というのが一般家庭の常道であったこの時代、ちあきなおみは歌謡界の申し子として、日本国民のだれもが一度は見聞きし、その事実は、否でも応でもその名前と存在を人々の幻想の中で独歩させてゆくこととなるわけである。そして、スターという看板を背負ったちあきなおみは、芸能界の商業主義的な桎梏のスポットライトの中から遁れ得なくなってゆくのだ。

 ここでいよいよ、伝説は産声を上げ、動きはじめるのである。
 そこで、今、令和の時代にも生々しく息を吐きつづける、ちあきなおみ伝説のプロデューサーとも言える「郷鍈治」とは、いったいどのような男なのかという命題に向かわざるを得なくなってくるのである。
 就いては、ちあきなおみただひとりの伴侶であり、この伝説の土壌となる男の途に足を踏み入れなければならない。

 郷鍈治(本名・瀬川鍈治 旧姓・宍戸)は、大阪市北区で父・左義右と母・文子のあいだに、四男一女の末弟として生まれた。生年月日は一九三七(昭和十二)年五月二九日である。ちなみにこれは、ちあきなおみ(三恵子)誕生の十年前にあたる。付け加えれば、四歳年上の兄は、三男である宍戸錠である。
「当時の国策でもあった"産めよ、殖やせよ"の時代、宍戸の戸に錠を下ろすとして兄貴が生まれ、名前を『錠』としたのに、その下にオマケのように俺が生まれた」とは、本人が口にしたところである。
 余談であるが、当時日本は軍国主義にあり、政府は人口増強策をスローガンに掲げ、具体的には子供を五人以上産むようにという国民への呼び掛けだった。したがって末弟ともなると、留夫、末吉などといった名前が多かったという。
 金へんに英国の英と書いて鍈治とする名前の由来は、父・左義右が工作機器を製造する鋼屋だったことと、英語力に長けていたことからの命名であったという。同じく金へんの錠で下ろした戸を、今度こそ治めるという意味で鍈治としたのは実にお洒落な命名である。

 父・左義右と母・文子の出逢いは、一九二三(大正十二)年、関東大震災の日だった。
 英国出資のアーサー・バルファーという商社に勤めていた左義右と、同社と同じビルに入る会社でキーパンチャーをしていた文子は、命もろとも東京の町を逃げまわった。やがて左義右の勤める商社は大阪へ居を移し、ふたりは結ばれたのである。
 鍈治が誕生した頃の宍戸家は、左義右が日本の侵略戦争(満州事変)の最中、商品投機や株式投機などで財を成し、かなり裕福な生活を送っていたが、左義右が鋼鉄会社を興すことになり、一家は東京へ移り住むこととなった。その後会社も軌道に乗り、家には住み込みで働く女中を雇い、車庫にはダットサン(日産自動車が生産・販売していた小型商用車=古賀註)が駐車されていた。

 物心がついてからの鍈治は、四歳年上の兄、錠にいつもくっついて遊んでいた。学校嫌いだった錠は、庭にある大きな木にターザンの如く登り、登校を促す父兄や学校関係者に反抗するやんちゃぶりを見せていた。錠の教師も、左義右が学校にプールを寄付するなどの社会貢献活動を行っていた関係上、柔和な対応だったという。そういった錠の行動を鍈治がどのように見ていたのかはわからないが、幼い鍈治にとってはその姿が強く頼もしい存在として映ったのではなかったかと思われる。
 この頃、鍈治はよく錠に映画を観につれていってもらった。映画好きの文子の影響もあり、錠は小学生にしてすでに映画通であった。
「兄貴は映画がメシより好きだった。なにを観たのか覚えてないけど、戦争ものが多かった。映画館に入ると、兄貴はいつも煎餅とかキャラメルを買ってくれた。映画よりそっちのほうが楽しみだった」
 兄と弟の好対照ぶりが見て取れるが、鍈治にとって錠と過ごす時間は心強く、至福の時だった。末っ子の鍈治は、上二人の兄や姉にも大変可愛がられてのびのびと育った。
「ほんの一瞬だけ裕福な家庭だった」
 鍈治がこう回想するのは戦争が激化し、一九四五(昭和二十)年、東京大空襲がはじまったからである。一家は東京を焼け出され、一時的に山形県の湯野浜温泉に逗留した。その後、遠縁の親戚が住む宮城県刈田郡白石町斎川へと疎開する。
ほとんど山の中だから、空襲の心配はなかったがすることがない。村の子供たちとなかよしになったけどよく喧嘩もした。いつも仲裁に入るのは錠兄貴で、喧嘩も強いし、みんなが知らない遊びやゲームを教えたりして村の子供たちの尊敬を集めていた。兄貴は学校の学芸会でもいつも主役で上手かった。客席から拍手が起こると、自分が拍手されているように嬉しかった」
 戦争中の混乱期にあった少年時代、鍈治は常に錠の背中越しに己が世界を構築していた。

 そして八月十五日、終戦を迎える。八歳の鍈治は正午からの玉音放送終了後、家族や周りの状況から、この出来事が衝撃的で悲しいことであると信じて疑わなかったが、八月三十日、厚木飛行場に降り立ったアメリカ連合国最高司令官・ダグラス・マッカーサー元帥の、コーンパイプを咥えレイバンのサングラスをかけた姿をその目に焼き付けていたりする。
 余談ではあるが、後の郷鍈治がディアドロップ型のサングラスを好んで着用したのは、このときの鮮烈な印象が影響しているものと窺える。

 そして翌年の一九四六(昭和二一)年、日本が敗戦に打ちひしがれる中、宍戸家の裕福な一瞬は終わりを告げる。
 時の幣原喜重郎内閣は、二月十七日、戦後インフレ処置の経済緊急対策として、金融緊急処置令を公布・施行する。金融機関の預貯金を一切封鎖し、それまでの日銀券の流通を停止し新円を発行、さらに新円の引き出しも制限するという、通貨切り替えによる金融資産差し押さえ政策である。自分の預貯金であるにも関わらず持っている紙幣は使用できない、しかも新円は一世帯に一カ月三〇〇円、家族一人当たり一〇〇円しか引き出せないという、驚くべき金融政策である。
 翌年の一九四七(昭和二二)年、経済的危惧を覚えた左義右はここで一発勝負をかける。
 戦争により燃料の地位を確立した亜炭を、戦後燃料不足に喘ぐ東京へと北海道から貨車で運びひともうけしようと、起死回生を狙ったのだ。
 だがこの年、時の総理大臣吉田茂年頭の辞での、「労働組合不逞の輩」発言を引き金に、共産党と左翼勢力により実施を計画されたゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)の煽りを受け、貨車は運行できず、左義右の目論見は失敗に終わる。
 宍戸家は一転して奈落の底に突き落とされる。
               つづく

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