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”批評の神様”「小林秀雄の人生『論』」は直観を信じる人生哲学だ。

”批評の神様”の異名を持つ昭和を代表する批評家、小林秀雄 (1902年誕生。1983年没)。
今では当たり前となった(美術や音楽、文学など)何かの作品を”批評”するという行為を、日本語による近代的スタイルとして確立した人物である。文学に多少なりとも興味がある人であれば、その名を知らぬものはいない。
だが、それほど有名でありながらも、小林自身の評論を通読した人は少ない。なぜなら、小林の批評は非常に難解だとしても知られているからだ。理解するために必要な教養レベルも非常に高い。下手に手をつけても「何を言っているのかさっぱり分からない」というオチが待ち受けている。
そんな超難解な小林秀雄の人生論を文芸評論家である浜崎洋介氏が新書で発表された。
その名もズバリ「小林秀雄の『人生』論」。

浜崎氏は複雑な哲学的思考をわかりやすく噛み砕くのに非常に優れている。氏の解説であれば、難解な小林秀雄の思考もきっと私のような庶民にも近づきやすいものであろうと期待して、今作を手に取ってみた。
はてさて、その結末やいかに。

新書ならではのわかり易さと面白さ

というわけで、浜崎洋介氏による小林秀雄論。
「さぁ、聞かれてますよ。面白かったのか。面白くなかったのか。どっちなんだい? 」 (お笑い芸人の”なかやまきんに君”風)と問われれば・・・
文句なしに面白かった
それが率直な感想である。
そもそも今作のような、小林秀雄という人物の人生を俯瞰して評論した「小林秀雄人生論」という試み自体が面白い。
なぜか?


小林秀雄の思想を論じた本や批評は数多くあるが、小林秀雄の作品の難解さ故に、その思想に分け入ると枝葉末節とも言える詳細に囚われやすい。いわゆる「木を見て森を見ず」状態になってしまいがちなのである。
本書ではそのような詳細に立ち入ることを極力控えている。その代わり、明治末期から昭和中期という激動の時代に生きた小林秀雄の人生を、日本という国家が歩んだ道程を交えて概観する。それによって小林秀雄という人物が生きた意味・・・それが現代の我々にとってどのような意味を持つのかを、丁寧に分かりやすく示してくれている。だからこそ本書のタイトルは「小林秀雄の人生『論』」、すわなち「小林秀雄の人生を論じた書」となっているである。

本書に接した結果、まずもって感じられることは、小林秀雄にとって”批評”とは単なる作品の解説には留まらなかったということだ。小林にとって批評とは「その作品になぜ自分は心を動かされたのか。」を考えること。それを通じて、自分を作り上げた日本という環境 (風土、歴史、伝統など) の源を探り、私たち日本人の本質に沿った”日本人にとって幸福な生き方とは何であるかを問う行為”であったのだ。
いわば、小林秀雄の批評を通して「人というものはどのように生きていくべきなのか?」という誰もが一度は頭をもたげる問いについて、さまざまな示唆を得ることができるのである。本書によれば、これこそが小林秀雄の批評の最大の魅力であると言えるだろう。

小林秀雄を理解するためのキーワード

本書ではその小林秀雄の批評の意味を知る上で様々な解説や解釈が行われているが、特に重要なのは小林の「直観」という言葉だろう。極言すれば小林の批評はすべて「自分の直観を信じることの重要性を述べたものだ」とさえ言える。
ここで重要になるのは「直観」という言葉の定義である。

現代では”ちょっかん”と言えば「直感」、英語で言うところの「インスピレーション」のことだと解釈されることが多い。このインスピレーションという言葉は、元々キリスト教的に「神からお告げを受ける。(神の)息を吹き込まれる。」という意味である。これには神という絶対的な存在と人間が繋がっているという世界観が前提となっている。この点が小林の言う「直観」と似て非なるところだ。
小林の用いるところの「直観」はその意味とは少し異なる。

気をつけるべきは「観」の時を用いているところだ。
これは人生観、宗教観、芸術観といった言葉のように”全体を広く見渡すように見ること”を示している。目の前にある物体・・・たとえばスマホやパソコン、あるいは手にしているマグカップなどのような特定の何かをジロジロと見つめるのではなく、”自我”という意識を超えて神の視座から見下ろすような目で森羅万象を眺める。
そのような達観した精神状態で全体を睥睨(へいげい)しながら、それでも自分の存在そのものが奪い去られるような強烈な存在感を味わう、それこそが小林の言う「直観」である。

なかなか分かりにくいが、本書では著者である浜崎氏が非常にうまい表現で言い換えている。それはズバリ「惚れること」である。その説明がとてもわかり易いので、少し長くなるが本書P74から引用したい。

「たとえば、人が人と出会い、付き合っていく場合も同じことです。相手のすべてを分析し、その正確を知り尽くしてから相手と付き合いだすなどということはあり得ない。まず、眼の前の相手に『惚れる』ことから、私たちは彼/彼女との関係を取り結ぼうとし、また、その関係を取り結ぶがゆえに、彼/彼女について知っていくことになるのです。つまり、私たちは『直観』という名の飛躍に頼ることなく、他者を知ることはないのです。」「たとえば、人が人と出会い、付き合っていく場合も同じことです。相手のすべてを分析し、その正確を知り尽くしてから相手と付き合い出すなどということはあり得ない。まず、眼の前の相手に『惚れる』ことから、私たちは彼/彼女との関係を取り結ぼうとし、また、その関係を取り結ぶがゆえに、彼/彼女について知っていくことになるのです。つまり、私たちは『直観』という名の飛躍に頼ることなく、他者を知ることはないのです。」

誰か異性を好きになったことがある人なら、この感覚は誰にも分かるのではないだろうか。
例えば同級生の誰かを好きになる時に、クラスいる異性全員の性格や外観、親族関係などすべてを調べあげ、自分との相性を徹底的に分析した結果、特定の誰かを好きになるという選択を行うなどということはあり得ない。
いきなり”好き”とはいかなくとも、”何か気になる”というような直観がもたらされることで、はじめてその異性を意識し、好きになる。たとえそれが片思いに終わったとしても、である。
もちろん後付けで「好きになった理由」を考えたり、それを相手に伝えることもあるだろう。だが、所詮それは後付でしかない。最初は誰もが”何か分からないけれど”相手に好意を持つ。それが自然であり、当たり前のことである。

直観とは「惚れる」こと。

上に挙げたような「誰かに惚れる」ということが直観であるならば、多くの人がこの『直観』を信じるということの重要性を自然に受け取ることができるのではないだろうか。
だがしかし、ここで問題になるのは、これが恋愛ごとのような個人的な経験だけではなく、現実の社会で生きている人間として振り返ってみると現代人は「自分の直観を信じる」という力が弱くなっているということだ。これは会社員のようないわゆる”社会人”に限った話ではない。
現代の社会では、社会人はもちろん子供たちでさえ、常に自分の行動や判断に対して説明を求められる。そしてその説明は単に自分の個人的主観を述べることではなく、何かしらの客観的根拠・・・特にビジネスにおいては数字的な根拠に基づいたものでなければならない。そうでなければ説明したことにはならないのだ。

たしかに、特殊な場合を除けば一般的に仕事とは他者と協働してその成果を出す必要がある。しかもそれは一回こっきりのまぐれ当たりではなく、継続して行っていかなければならない。その意味において、いわゆるビジネスの世界において客観的根拠に基づき他者と何かしらの合意を得て協働しようとする行為は正しい。
だが、そこには一つ大きな落とし穴があることが忘れられがちだ。

もっと直観を信じろ

実はこのことは、奇しくも英語で「合意」を意味する「consensus (コンセンサス)」という言葉の語源にも見てとることができる。
consensusの語源はラテン語の「consentire」だが
・conは「together」のように「一緒に、共に」という意味
・sentireは「sense」のように「感じる」という言葉の意味
である。すなわち「共に感じること」こそが「consensus (合意)」であり、人と人の精神的な繋がりを含意するものなのである。

つまり、誰かと何かのことを成すにあたり「(その相手と)合意した」「お互い理解し合った」と言っても、詰まるところそれは”相手と合意したと自分が信じた”だけに過ぎないのだ。それは自己の精神の中で完結したことでしかなく、”100%完全で、客観的で、未来永劫変わらない確証”などというものは存在し得ない。したがって、究極的には人は自らの直観 (たとえば仕事を共にする人に惚れること) に従って行動するしかできないのである。
だからこそ、人がその人生を生きる上で最も重要なことは「直観を信じること」・・・換言すれば、自らの直観を信じられるほどに自らの内面を見つめ、自らを生み出した環境とはいかなる物だったのかを問い直すことで、自分という存在を深く掘り下げることなのである。

実はそれこそが小林秀雄が自身の批評活動を通して行ったことであった。
すなわち、自分が直観した (=惚れた) 作品を丹念に解きほぐすことで、その作品に惚れた自分を見つめ直し、それを批評という形で世に示す。
さらにその批評に対する世間の反応を通じて、さらに自分自身と世に生きる人々の本質をも問う。その循環こそが小林秀雄の人生だったと言えるだろう。

翻って現代はどうだろうか。
バブル崩壊以降のデフレ社会において、それまで日本で培われて来た共同体内における信頼の価値は失われ、数値で価値を測定できる”貨幣”を稼ぐことに異常なほど価値を置かれるようになった。その上、その貨幣の多寡により人の価値もまた測られる時代になった。
それは確かに経済的合理性の追求という面においては、大きな利点であることは間違いない。だがその一方で「直観」という計測不可能なものへの価値を異常なまでに低く押し下げるという価値の逆転現象とも言うべき自体を引き起こしている。本来、私たちの魂を揺さぶる「直観」こそが、私たちが生を充実したものにするために最も重要なのにも関わらずに、である。
果たしてそれは本当に私たちの人生を豊かなものにするのだろうか。私には今の時代にこそ、小林秀雄が示す「直観」への信頼の価値をもう一度問い直すことが必要なのではないかと思われてならない。

まとめ

以上、私なりに”直観”という言葉に絞って「小林秀雄の人生論」についての考えを述べてみた。
これ以外にも本書は内容は非常に深く、多岐にわたり小林秀雄の人生論を俯瞰したものである。ここで全ての感想を述べることはとてもできないが、自らの人生の意義について思い悩んだことのある人であれば、多くの示唆を得ることのできる好著だと思う。
敢えて欠点を挙げるとすれば、浜崎氏本人が解釈する「小林秀雄という人物論」という色合いが強すぎることだろうか。浜崎氏によれば、今作は非常にタイトなスケジュールで書き上げざるを得ず、小林の原典を探り直す時間もなかったそうだ。そのため小林本人の書いた批評の引用も少なめになっており、その引用部分も浜崎氏の論旨に沿った引用と解釈が散見される。したがって、「小林秀雄が表現したこと」なのか、「浜崎氏が表現したいこと」なのかが判別しづらい。
個人的な感想としては、それに関しても「それによって下手な解説本のような”ぶつ切り感”がなく、一つの作品としての面白さや勢いが生まれている」と好意的に受け止めている。しかし、原典を知っている読者には目新しいものがないかもしれないし、「これは小林秀雄ではなく、浜崎自身の意見だろう」と思う箇所も少なくないかもしれない。

だが、他でもない小林秀雄自身が、優れた作品とはさまざまな解釈を読者に許容する”多義性”を持っているのだと述べており、その意味では仮に浜崎氏が入り混じっていたとしても、小林秀雄の人生という”一つの作品”から抽出した多義的な意味のひとつとして捉えられるべきかと思う。
その点を了解した上で読めば、本書は小林秀雄の思想という奥深い森に分け入っていくために、非常に有用な入門書であることは間違いないだろう。
小林秀雄が近代日本の思想界に残した功績を鑑みれば、”西洋哲学”や”近代思想”ではない”私たち日本人の思想”に鳴り響く低音 (音楽で言えばベースのような目立たないが影から支えるような存在) を感じ取るために必読の書であると私は思う。

という訳で今回ご紹介したのはこちら
浜崎洋介「小林秀雄の『人生』論」
でした。

長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m


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