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安定思考の理系院生がスーパードライ生ジョッキ缶を生み出し、転身してソーシャル・イントラプレナーになるまで(その①)

こんにちは。古原徹です。
・スーパードライ生ジョッキ缶の生みの親
・大手企業の中でチャレンジするソーシャル・イントラプレナー
としてweb記事や書籍で取り上げていただくことが増えてきました。
30代最後の年を迎えたこのタイミングで、これまでの活動を振り返りつつ、今後の発信もしていこうと思います。
下書き無しでダラダラ書きますので、読みづらいかもしれませんが、いつか書籍化される際にはちゃんと校正してもらいます!笑 

その②はこちら




誕生〜高校卒業まで

1984年に島根県松江市で誕生。高校卒業の18年間、松江市で育ちました。
中国地方に縁がない人だと、島根と鳥取どっちだっけ‥となる方が多いと思います。
左が島根、右が鳥取 なので、これを機に覚えてくださいね。

小学校は、松江市立 法吉(ほっき)小学校
中学生は、国立 島根大学教育学部附属中学校
高校は、島根県立 松江北高校
ここまで、姉、兄と全く同じルートを辿りました。
そこそこ満遍なく勉強はできたのですが、どちらかというと文系科目の方が得意でした。
「理系の方が就職いいぞ!」という、民間で働いたことのない大人たちのアドバイス(うちの親も公務員系の家系です)にのっかり、
理系の大学への進学を決意。何故か東北大学を選びました。
僕は意思決定するとき「人と違うことをしたい」という想いがモチベーションになることが多いのですが、
このときもその意識が働いていた気がします。
なぜ人と違うことをしたいのか。「独自の立ち位置の人材になったほうが、楽しく生きられる」からかなと最近になって思います。
そして、同じ仕事をする人と仕事の能力で比べられるのではなく、違う仕事をしている人と仕事の意義で比べられたい。と思っています。
前者は明確に優劣がつきますが、後者は優劣つけるというより仲間になれるので、楽しい。
なぜ楽しいかというと、人と何か成し遂げるのが好きだから、です。
なぜ人と何かをするのが好きかというと、「ありがとう」って言われることに幸せを感じるからかな、と。

東北大学の機械系から、アサヒビールに入社するというのもなかなかレアキャラ(教務課には初めてかもと言われました)ですが、
大手自動車メーカーのような、自分と同じような人間が何千人といる環境に魅力を感じなかったのかもしれません。
※今となっては、大手自動車メーカーにもいろいろな人がいるなぁ、というのはわかりますが、新卒で想像できるキャリアではないですね。

当時はそこまで言語化はしてなくて「ビール会社楽しそう!」くらいの感覚でしたが。


大学入学〜卒業まで

2003年に高校を卒業し、2009年に大学院修士課程を修了しました。
文系脳の人間が理系の一線級の大学に無理やり入ってしまったものだから、学問にはとても苦労しました、
実験とか実習はまだしも、大学数学とか大学物理とか、
勉強するモチベーションもわかないし、全然理解できないし、で留年すれすれで6年間過ごしました。
これ落としたら留年確定!みたいなテストの前には、
教授のところに直接質問しに行ったりしていました(普段は講義もあんまり出ていないのに)。
教授も人間だから、ちょっとでも顔覚えて貰おう、みたいなやましい気持ちもあったと思います。ソフトスキル。笑
いわゆる「ガクチカ」は、サークル活動です。大学院修了までの6年間で、友達とサークルを立ち上げて、卒業時には100人を超える規模まで育てました。
今となっては最高の自己研鑽(企画、コミュニケーション、マネジメントetc)だったと思っています。
サークル名は伏せますが、今も活動してるみたいです。
学校、学年、学部、性別、ごちゃまぜのサークルだったので、
いまの仕事でも超重要なスキルを磨けました。

  • 人の力を集める力

  • メンバーをモチベートする動機付け

  • 「組織の方針を自分で決める」経験

特に最後の「組織の方針を自分で決める」経験は、特に大手企業に入ってしまうと、下手すると40代後半とかまで無いこともあります。
新しいことをやろうとしたとき、
担当者→係長→課長→部長
くらいまでいってようやく決定権(決定タイミング)が。
一階層上がる毎にアイデアの角がとれて、
当初のアイデアとは異なる無難なアイデアになっていたりします。

伝統的な大手企業で見られる「できる社員ほど早く転職する」傾向は、
給与水準や昇給可能性などの待遇だけでなく、
「組織の仕事を自分で決められるか」ということが大事だなと最近感じます。
ソーシャル・イントラプレナーとして活動するようになってから、色々な企業の若手〜ミドルの話を聞きますが、
自己決定権の無さに悩んでいたり諦めていたりするケースが多いです。
ただ正直、自己決定できるほど深く考えられてないな、という。
これは、単純に試行回数不足というか、決めて失敗する経験が足りないからかなと。
このあたりの所感については後日別の記事にしたいと思います。

アサヒビール入社〜アサヒ飲料出向時代

アサヒビールに入社するきっかけとなったのは、
アサヒの競合ビール会社のS社が東北大で就活セミナーをしてくれたことです。
当時その世界観がウケてヒットしていた某飲料のパッケージを開発した、と言っていて、
そんな仕事もあるんだなと。
コンビニで手に取れる、みたいなわかり易さに魅力を感じたのと、「人と違うことがしたい」という想いに火が付き、
食品メーカーのパッケージ開発がしたい、という志望動機で就活をするようになりました。
ただ、当時そんな職種を募集していたのは、
味の素さん、サントリーさんくらいで、他のメーカーは募集要項に記載すらありませんでした。
しかし「どこにでもこの仕事はあるだろう」と予測し、
勝手にエントリーシートの志望動機に「パッケージ開発がやりたいです!」と書き綴り送付していました。
アサヒビールにいたっては、「エンジニアリング職」(工場の設備投資とかインフラ整備とかを主管する部署)で応募して、
エンジニアリングには興味ないけれどパッケージやりたいです、とか言っていました。
ラッキーなことに大手食品メーカーや、元々考えていた機械電子系のメーカー、大手インフラ系の会社などからも内定はもらいましたが、
最終的には「うちでパッケージ開発をやってほしい」と言ってくれたアサヒビールに入社を決めました。
実は親からは結構反対されました。内定もらっていた他の会社の方が規模感も大きく給与水準も高く将来性も良かったのですが、
「会社にのっかって食わせてもらう」という気持ちはあまりなかったので、
「息子が楽しく働けるところに行くのが親の幸せでしょ!」と説得したのを覚えています。
※いまでは、アサヒビールにして良かったね、と心から言ってくれています。

アサヒ飲料出向時代〜初のグッドデザイン賞受賞

2009年にアサヒビールに入社し、即アサヒ飲料社に出向となりました。
当時としては新人で出向というのは異例で、みんなに驚かれたのを覚えています。
ただ、僕の中では既定路線でした。
もっとも開発環境にスピード感がある清涼飲料のPETボトル開発をしたかったので、希望通りの配属をしてもらいました。

入社後、数年間は「修行」。

思い描いたような派手な仕事はほぼ無く、工場の操業度向上、PETボトルのコストダウンなど、「裏方」の仕事がほとんど。
大企業の意思決定のフローと縦割りの構造、部署間のパワーバランスなどいろいろ学びながら、「思ってたのとはちょっと違うなー」と思っていました。

正直いうと「人生を仕事にフルコミット」はしていませんでした。
※業務時間中はちゃんと働いてましたよ
そんな中でも、自分の仕事が工場での量産品につながったり、
数億円のコストダウンの一部に関わったりできたのは楽しかったですね。
PETボトル開発を通じて、特許調査、仕様設計、製品設計、金型設計、金型製造、試作成形、品質評価、量産展開、量産後フォロー、と、
全ての工程に関われたのは大きな経験です。

いまは自分で図面書いたりはしませんが、「自分でできる」ことは、人に依頼する上で大きな強みです。
製造協力先(OEM先)と良い関係性を築けているのもこれが大きいかな。

地味な仕事をつづけながら楽しい仕事ができるチャンスをうかがっていて、
世に出せたのがグッドデザイン賞も受賞した「六条麦茶 江戸切子デザインボトル」です。

地味な仕事をコツコツこなしながらちょっとずつ存在感を出して「研究所に古原って面白い開発者がいるっぽい」みたいな地位を獲得。

マーケティング部の担当者とマンツーマンで企画から練り上げました。
当時の研究所は「マーケ部に言われたことはきっきりやる」的な空気があって、
研究所からガンガン商品提案していく雰囲気はほとんどなかったと記憶しています。

「下手なこと言ってできなかったら責められる」みたいな超リスク回避な考え方が根付いていたのもあるかな。

「六条麦茶」というカゴメさんから取得したブランドのリニューアルをしたいという相談を受け、
当時、器のなかでも江戸切子にハマっていた僕は、「麦茶と言えば江戸切子でしょ!」という感じで即座にマーケに提案。
※後でちゃんと調べたら麦茶が庶民に普及したのは江戸時代というエビデンスもありました。

どうせやるなら本物の職人に頼もうということで、史上最年少で江戸切子の伝統工芸士になり、企業とのコラボも多数されていた「堀口徹さん」に監修を依頼。

あれよあれよという間に開発がスタートしました。
当時の上司に深く相談しないまま「江戸切子で行きましょう」といい、3Dプリンターで試作品つくって提案したので、あとで結構怒られました。
できなかったらどうするんだ、と。
今思えば、僕を守ってくれようとしていたと思うのですが、
リニューアルの機を逸したらこんなチャンスはこないだろうなと思ったのと、
自分でちょくちょく試作して「イケる」感覚があったので提案したのですが、ちょっと無鉄砲だったかも。

マーケ部担当者と二人三脚で開発を進め発売まで進めました。
企画から商品化されて世に出ていくまで、会社がどんなふうに動いていくのか、初めて実感できたし、発売日はとても嬉しかったな。

堀口さんとはプライベートでゴルフ行くくらい仲良くなり、
「仕事ってプライベートで遊ぶのと同じかそれ以上におもろいな」と思ったのがこの仕事が初めてかもしれません。

当時としては珍しい「4種類のデザインのPETボトルを同時に製造する」というチャレンジは、生産部門(本社・工場)にポジティブに理解され、推進していくことが必要でした。
安定性、効率性を追求することを求められる部門からすると、余計な外乱は避けるのが正義。
ただ、もともとアサヒに入るような社員は面白いことが好きな人が多いので、ストーリーがしっかりしているこの件については意外とウケが良かったです。

ちなみにグッドデザイン賞の応募については「出すからには絶対取れよ」と軽い?プレッシャーをかけられながらも、頑張って作文しました。
当時、アサヒ飲料社ではグッドデザイン賞の受賞実績が1件もなく、
「アサヒ飲料初」というのが大きなモチベーションになっていました。

グッドデザイン賞応募用の写真撮影(物撮り)のコーディネートをしたり、新たな経験もたくさんできました。
受賞の連絡がきたときは嬉しかったですね。美味しいビールが飲めました。

グッドデザイン賞をはじめとした社外のコンテストで受賞したり、社内評価も高かった「六条麦茶江戸切子デザインボトル」ですが、
残念なことに肝心な売り上げUPにはつながりませんでした。
広告宣伝費がゼロだったとか、競合が大型のTVCMをうってきたり、と言い訳しようと思えばいくらでもありますが、
「容器の見た目にいくらこだわっても、大きな商品価値にはつながらない」という現実を突きつけられた結果でした。

もう少し大きな目線でいうと
自分が一生懸命取り組んでいることには「特別な価値がある」と思い込みがちだけれど、顧客にとってはどうでもいいことかもしれない、という客観的な目線を残しておくことが大事。ということを学びました。

生ジョッキ缶の記事で触れますが、決して「マーケットインが全て」というつもりはないです。
イノベーションは消費者調査からは生まれない!

こんな経験を経て、第一人者として心地よい立場を確立した容器技術者、としてこれからも仕事をしていくことに違和感を感じ始めました。
その後、三ツ矢サイダー矢羽根ボトルなど今も使われているPETボトルの開発を行い、アサヒビールへの復職につながります。

https://www.asahiinryo.co.jp/company/newsrelease/2020/pick_0120_3.html

ちなみに「三ツ矢サイダー矢羽根ボトル」のデザインは、
デザイン会社とのコンペになりまして、
結果、私がデザイン・設計したボトルが採用になりました。
炭酸飲料用のPETボトルデザインというのは設計が難しくて、
炭酸ガスによって大きな内圧がかかるので、エッジの効いたカクカクとした形状は全部膨らんで丸くなります。
※最近も、市販の炭酸飲料ボトルがコンセプトとは全然違う形状に変形しているのをみました。
発売前のコンセプト画像を見て、「これできるのすごいな」と思っていたのですが。
「デザイナー・企画屋さんに技術を理解してもらうより、自分がそっちサイドに近づいたほうが良い仕事できるな」
と考えるようになったきっかけでもあります。

アサヒビール復職〜スーパードライ生ジョッキ缶発売

アサヒユウアス株式会社設立〜現在

アサヒビールへの復職以降のストーリーはその②に続く。
※長くなっちゃったので


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