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清らかで孤独ないばら道|【書評】枡野浩一「毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集」

 率直にいって、枡野浩一という歌人について、わたしが漠然ともっていたイメージ(もとい偏見)は、「きっとなかなかトガッたひとなんだろうなあ」といういい加減なものでした。

 特定の結社に所属することもなく、反既成歌壇という旗幟を鮮明にし、「マスノ短歌教」なる言葉の上だけにしか存在しない宗教の「教祖」を自認する、孤高のローンウルフ、ないしアウトサイダー(要するに、なんだかちょっと「ヤバそう」なひと)。

 その勝手なイメージは、枡野短歌の代表歌としてもしばしば目にするつぎのような歌によっても、強化されるばかりではありました。

こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう(「てのりくじら」)
殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である(同)
絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい(「ドレミふぁんくしょんドロップ」)

 それが、このたび刊行された「毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集」を読み、その一首一首に目をとめて、うーんなるほど、これはとんだ勘ちがいヤロウはむしろじぶんのほうだったのだ、と、猛省、というか、感嘆したしだいでございます。いや、ますの。

枡野浩一「毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集」(左右社)

 感嘆、といえば、「簡単な言葉だけでつくられているのに、読むと思わず感嘆してしまうような短歌」すなわち「かんたん短歌」を標榜して、枡野浩一は、その孤独ないばら道をひたすら進みつづけました。

 枡野浩一自身の歌にもあるように(「でも僕は口語で行くよ 単調な語尾の砂漠に立ちすくんでも」)、枡野浩一は「口語」すなわち「現代の書き言葉」を使うことをモットーにしています(さらに、枡野短歌は「詩的飛躍」が排され、ほとんど「普通の文章」のような出でたちをして、三十一音ぴったりになるように作られている(ことが多い))。

 「口語」でない言葉づかいを「文語(調)」といいますが、この「口語か文語か」という(短歌の界隈では手垢にまみれた古典的な)テーマについて、枡野短歌のいわば「指南本」である「かんたん短歌の作り方」にはこのように書かれています。

 ……つかい慣れた口語(日常語)でさえ自分の気持ちを的確に表現するのは難しいのに、勉強しなければつかえない大昔の言葉で、いい短歌をつくることなんか不可能だからです。
 教祖以外の歌人の皆さんが文語で短歌をつくるのは、教祖に言わせれば単なる現実逃避。日常語で勝負できるほど内容のある短歌をつくれないから、雰囲気だけ和歌っぽくして、何かを表現したような気分になっているだけです。

(p107)

 なかなかに語気はつよいですが(それだけに当時の枡野浩一の信念もうかがえるわけですが)、注意したいのは、枡野浩一にとって、短歌とは「自分の気持ちを的確に表現する」ものだとここに表明されていることです。

枡野浩一「かんたん短歌の作り方」(ちくま文庫)

 もちろん、「思い」を過不足なく三十一字に収めることができたら、それで一首の短歌ができあがる、ちゃんちゃん、という単純なシロモノでは短歌はありません(なめたら、アカンで)。その「思い」を三十一字に整えていく過程で、かならず「定型」というものの抵抗を受けることになります(わたしが以前に「現代短歌評論賞」をいただいた文章で、わたしはそれを定型の「物質性」ないし「他者性」と(いかにも評論チックなキザな言葉で)表現しました)。

 だから、枡野浩一の短歌を、すべて「枡野浩一の思いの的確な具現」であるとみなすことはできません。でも、「枡野浩一全短歌集」を読むと、感じるんです。わたしは、はっきりと感じるんですよ、枡野さんって、じつは、ものすごく「ピュア」で「繊細」なひとなんじゃなかろうか、と。

朝焼けがとてもきれいで生きていてよかったような気がする色だ(「夢について」)
本人が読む場所に書く陰口はその本人に甘えた言葉(「歌」)
名前すら忘れた人をくりかえし思いだしては傷ついている(「虹」)

 この短歌集をめくっていると、こうした、異様に清潔で透明な歌(もとい「透明すぎてかえって色鮮やかな」歌)に、しばしば出くわすことになります。こうした歌がついつい書かれてしまうということ、そこにわたしは、枡野浩一という歌人そのひとの透徹した倫理性を思わずにはいられません。

 今回の短歌集の刊行にあたって、産経新聞のインタビューで枡野浩一は、「25年間の作品を読み直して、あきれるぐらい進歩していないのを実感しました」と語っています。でも、どうでしょうかね?

 たしかに「進歩」はしていないかもしれないですが(だってそりゃあ、1997年のデビュー時においてすでに技術的には「完成」していたわけですからね)、けど、この歌人が世界へ向きあう「態度」ないし「まなざし」はやっぱり変化している(せざるをえなかった)のではないか、というのが、わたしの印象です。

誕生日おめでとう きょうも好きでした あしたもきっと好きだと思う(「歌」)
あやまちを重ねて命あることの奇跡のきょうを生きますように(「虹」)

 「歌」は2012年、「虹」は2022年に編まれていますが、本文章の冒頭にも引用した、「てのりくじら」の冒頭歌(「こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう」)の「きょう」から、なんと隔たった「きょう」がここに歌われていることでしょうか。

 「ふざけたきょう」は過去の闇へと遠く消えさって、「きょうも好き」「奇跡のきょう」といった、素朴な祝福と感謝とが、いま、ここに、晴れ晴れと照らしだされている……。

 今月の「短歌研究」でも、「枡野浩一論」という特集が組まれています(権威と歴史ある短歌総合誌で枡野浩一の特集が組まれたというそのことじたいに、ひとつの意味がありそうです)。そのなかにある穂村弘の寄稿から、引用します。

 枡野浩一には、どこか宗教的な雰囲気がある。人々に嫌がられる駄目出しを続けても世界をより良くしたいという思い、どこにも居場所のない異端の他者への優しさ、そして意外な無私性。彼が活動の初期に自らマスノ短歌教の教祖を名乗ったことは興味深い。

(p101)
「短歌研究」2022年11月号(短歌研究社)


 たしかに、枡野浩一は、孤高のプロテスタントとして活動をはじめ、それゆえに歌壇というカトリックからは見放され、拒絶されてきたのかもしれません。でも、この短歌集を読めばわたしたちは気づかされます。枡野浩一は「プロテスタント」ではあったかもしれない、けれど、彼こそはほんものの「ピューリタン(清教徒)」であったのだ、と。

 歌壇というマジョリティから逸脱していた枡野浩一という歌人が、それでも25年ものあいだ人びとから広く支持を得つづけてきたのも、ひとえに、彼の歌に向き合う姿勢、そして歌そのものの徹底した清らかさによるのでしょう。わたしは、そのように思います。いや、ますの。


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