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『円形劇場から』一箇所に定住せず「私」が彷徨い続けた理由とは?人生の意味を問う美しい物語

発表年/1970年
辻邦生さんは機会あるごとにご自分の作品について書いたり語られたりしているので、作品をご紹介しようとおもうとついそういったものに頼ってしまいそうになるのですが、ここはできる限り自分の感想としてお伝えしようとおもいます。

レビューを書くために再読して思い出しました、短編小説の中では、僕はこの『円形劇場から』という作品が一番好きだったのです。

例によって「私」のモノローグで物語は進んでいきます。「私」は家を離れ、大学で聴講生となるために都会に出てきます。都会は「私」の目にはすごく美しく輝いて見えましたが、その実、そんな都会の煌めきの中に溶け込んでゆくことができません。公園のベンチで何もせず日がな一日ぼんやりしている浮浪者を見てはそんなふうになりたくないと恐れ、何かを求めて焦るのですが、焦れば焦るほど疎外されているように思えてならなくなる。「私」は「都会への入り口」を探して大学へ行きながらさまざまの職を転々とします。しかし、「私」が求める「煌びやかな光り輝く都会」なるものはどこにもありません。
大学を中退し、最後に勤めた小さな印刷会社で「私」は肺を病んだ娘と出会い、娘のために懸命に働きますが、娘は亡くなってしまいます。「私」は「大都会に表から入り、裏口から出た」ことに気がついて、働くことをやめ、溢れてきた思いを詩にまとめます。それが認められたことで、「私」は詩作を続けながら何かを求めて各地を放浪することになるのです。

彷徨い続け、探し求めていたものに出会ったとおもい、ある港町に落ち着いても、ふとした出来事がきっかけで「私」はまたそこでの生活が求めていたものではないことに気がつきます。「私」はまた町を離れ、彷徨い続けます。そうしてある日、目にした一枚の貼り紙によって、その地の古い遺跡の円形劇場で芝居をしている女優と出会うことになります。

この小説を初めて読んだのは、僕自身が就職したてでそろそろ疲れを覚え始めた頃でした。広告会社ということもあり、印刷工に就いた「私」に自分を重ね合わせていたのかもしれません。小説では文選工や植字工といった、僕が働くようになる少し前の印刷会社が描かれていますが、見習いとして働く「私」の気持ちは僕にも理解できたのです。

円形劇場は、「私」の人生の、そして、「私」を含むこの世界すべてを包み込む器の象徴です。「私」は円形劇場を舞台として芝居をする女優と出会い、彼女の思いを聞かされたことで、自分がなぜ、何を求めて長い間彷徨い続けてきたのかはっきりと気づきます。女優は亡くなってしまうのですが、その後の「私」のモノローグが大変美しいので、お読みください。

しかし私にとっては、彼女がいないことは、全ての物の中に彼女が偏在しているということに他ならなかった。明日の朝も明るい風が吹きぬける牧草地の入口を、彼女が、若いときのままの姿で、のぼってゆくのに出会うことだろう。私は一冊の狼の本をかかえて、渓流にそって歩いてゆく。牧草地を一面に見渡せる場所で、それを開き、写真や記録や記事を読んでゆく。風が吹き、やわらかな午前の日が射し、時がゆっくり移ってゆく。そのとき狼の本は突然詩の本となり、そこに早い落葉が散りかかってくるだろう・・・(略)

短編集『北の岬』新潮文庫/円形劇場から より

こうして物語はエンディングを迎えます。読み終えたあとで、人生とは何なのか、生きてゆくとはどういうことなのか、しばし本を閉じて静かに考えてみたくなる、そんな物語です。

ところで、辻邦生さんは小説を書くにあたってさまざまの実験的な試みを行っています。この作品も段落を入れることなく、延々と語り続けられていきます。それは、次々と浮かび上がるイメージを重ねてゆくことによって全体像を浮かび上がらせようとする、彼なりの方法なのです。なので、できる限り途中で休むことなく読み続けていっていただきたい、そんな小説です。


【今回のことば】

私が一冊の植物の本も狼の本も読むことをせず、哲学や心理学や社会学の迷路をさまよったのはーーそしてさらに、何かもっと大切なものを求めて、町から町へと落ち着きなく移り住んでいったのは、日々の暮しへの愛着ではなく、むしろそうした書類に字を書くことや、朝の雑踏にまぎれることや、庭に花を植えることや、薔薇垣の匂いに囲まれて食事をすることなどを、単なる偶然の事柄、どうでもいい無意味な事柄として、何か別のものへの踏み台として、ほとんど注意も払わずに、やりすごしていたためではなかったろうか。私が不安といい、恐怖と呼んだものは、こうした何か別のものへのたえざる関心であった。

短編集『北の岬』新潮文庫/円形劇場から より

「円形劇場から」収録作品
・新潮文庫「北の岬」1974年
・中公文庫「辻邦生全短篇2」1986年


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