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過去の傷と共に、どう生きていけばいいのか。 -『責任の生成 中動態と当事者研究』から考える-

だれが言ったか忘れたが、「大人も傷ついた子ども」と言葉をどこかで聞いた気がする。

家族についての問題にふれていると、ほんとうにそうだなぁ、と思う。子どもへの虐待、パートナーへのDV、周囲の人間へのハラスメント。そこまでいかなくとも関係性がこじれてしまったり、相手を何気なく傷つけてしまったりする加害の根っこに、本人の「傷つき」がある。

思い返せば、僕もかつて恋人を試し行動でかなしませてしまったことがあった。なんでこんなことをしてしまうんだろう、と思ってカウンセリングを受けたり、内省したりするなかで、幼少期に愛着関係をうまくつくれなかったこと、つまり過去の傷つきが原因にありそうだな、と気づいたのだ。

過去に受けた傷と、どう向き合っていけばいいのか。

『責任の生成 - 中動態と当事者研究』に、そのヒントが書かれていた。


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『責任の生成 - 中動態と当事者研究』は、『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』で知られる國分功一郎さんと、脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医として活躍し、現在は障害と社会の関係について研究する熊谷晋一郎さんの約10年にわたる共同研究をまとめた本。

「責任」や「中動態」、「意志」といった概念をめぐって、濃密な、ほんとうに濃密な議論の内容が書かれていて、その内容はとてもここでは網羅できないのだけど、とくに印象に残ったのが「過去の傷と向き合うこと」の重要さについての話だった。
(これから書くのは、僕が印象に残った部分を本に書かれている順番は関係なく、僕なりの解釈もまじえて再構成したものであって、要約ではないので、あしからず!)

閾値を超えた予測誤差=トラウマ


誰もがなにかしら、思い出したくない記憶を持っている。それがあまりにショックが大きいと、思い出せもしないこともある。それらは「トラウマ」と呼ばれる。

発達障害の当事者研究にともにとりくむ熊谷さんと綾屋紗月さんは、そうした「トラウマ」は「「閾値を超えた予測誤差」のことをさして言われている、と考えているという。

僕たちは「ああなりたい」とか「ああなるだろうな」という予測を持って生きているが、その予測が裏切られることが「予測誤差」。その予測誤差が許容量を超えると、「トラウマ」になるのだと。

「予測誤差」の経験があっても、それを分かち合える他者に話せたりすると、通常の記憶の枠内におさめられるのだけど、そうした他者がいなかったりそうした経験を説明するための言語がなかったりすると、予測誤差はトラウマ記憶になる。


傷ついた記憶に蓋をする


そうした記憶は、つらいものだからふだんは蓋をしているのだけど、その人の覚醒度が落ちたり、なにもすることがなくなったりすると、蓋が開きやすくなる。

そこで記憶の蓋を開けないために、たとえば覚醒剤や鎮静剤に浸ったり、アルコールなどに依存したり、仕事に過剰に打ち込んだり、つまり「気晴らし」をして、覚醒度を0か100にしているのではないか、と熊谷さんは語る。

誰もが大なり小なり傷ついた記憶を持っている。そんなわれわれ人間にとって、何もすることがなくて退屈なときが危険なのではないか。そんなときに限って、 トラウマ的記憶の蓋が開いてしまう。

だから私たちは、その記憶を切断する、つまり 蓋をもう一回閉めるために予測誤差の知覚を得ようとして、いわゆる「気晴らし」をするのではないだろうか、と。

『責任の生成 - 中動態と当事者研究』132頁

そう考えると、たとえば依存症も「痛む過去を切断しようとする身振り」だととらえられる。過去の記憶がよみがえることで訪れるのが地獄だとしたら、過去を切断して、現在と未来しかない生を生きるために、何かに依存するのだ。

求められる反中動態的な生き方


けれど、「痛む過去を切断しよう」としているのは依存症の人だけじゃない。現代のポストフォーディズム社会は、「意志をもって前向きに、過去のことはすぐ忘れて、とにかく振り返らずに前だけを向いて生きていく」ような、反中動態的な生き方、つまり「反中動態的な生き方」がますます求められているという。
(ここでいう「中動態」は、「意志」によって過去を切断しする「能動態」の言葉が、中動態が消滅していくなかで勃興していったことをふまえて使われている。つまり「反中動態的な生き方」とは、「意志」に価値を置く生き方だ)

たとえば国分さんは、OECDが提唱する「キーコンピテンシー」(生きるうえで必要な能力)から、「昔のこだわりを捨て、痛みもコントロールでき、悲しくなったり寂しくなったりしても自分一人でなんとかできる。

悲しくなったり寂しくなったりしてもひとりでなんとかできる。都合の悪い過去は全部切断することができる。その一方で常に前向きで未来志向的な物語化を行う人物を作ろうとしている」ことが読み取れると語る。

そんな生き方のなにがいけないのか? と思うかもしれない。じっさいに熊谷さんも言っているように、「キーコンピテンシー」が注目されたことで救われた人もいる。

けれど、だれもが「意思をもって前向きに、過去のことはすぐ忘れて、とにかく振り返らずに前だけを向いて生きていく」ことができるわけじゃない。過去に傷つきがある人、トラウマがある人、発達障害などによって過去の記憶のまとめあげが難しい人などは、「反中動態的な生き方」を求める社会から取り残されてしまう

人生をコントロールできないと認めたそのうえで、過去と向き合う


では、僕たちは過去の傷と、どう向き合っていけばいいのか。お酒や薬物に浸ることなく、仕事に過剰に没頭するでもなく、つまり過去を切断することなく「傷とともに生きる」ためにはどうしたらいいのか。

そのヒントが、アルコール依存症からの回復プログラムである「AAの12ステップにあるという

「AAの12ステップ」は、こちらのサイトを参照してほしいのだけど、熊谷さんが重要だと指摘するのは、アルコール依存症からの回復のためのステップ1に「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」とあること。

アルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなったことを認めること=「意志を持って能動的に自分の人生をコントロールしていくこと」から降りることが、回復の入り口になることを、AAの12ステップは示している。

つまり傷つきからの回復は、「反中動態的な生き方」がすすめるような、意志をつかって過去を切り捨て、痛みもコントロールし、未来に向けて生きていくことではなくて、むしろそうした生き方ができないこと、自分の人生をコントロールできないことを認めること(つまり中動態の世界に足を踏み入れること)からはじまる

そしてステップ4に「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った」とあるように、自分の人生をコントロールできないと認めたそのうえで、自分の過去と丁寧に向き合うことが、傷とともに生きていくために重要なようだ。

そして「自分の過去と丁寧に向き合う」ことをひとりで行うのではなく、生きづらさの当事者たちが自分たち自身のことを観察・分析する「当事者研究」のように、誰かと行うのもいいだ。他者との出会いを通して傷やトラウマを物語化したり、意味づけすることができるようになることもあるし、熊谷さんが指摘しているようにみんなと語り合う中で、自分が変わるのではなくて聞く側や環境側の価値観や知識、つまり集合知がアップデートされて、生きやすい環境がつくられることもありそうだ。


誰もが「傷を愛せるか」が問われてる


『責任の生成 - 中動態と当事者研究』をもとに、過去に受けた傷と、どう向き合っていけばいいのかを考えてきた。

自分だけで人生をコントロールしようとする生き方から降りること。そして、他者とともに傷と向き合うこと。これが大事なような気がしてる。(ただし、傷と向き合うのはエネルギーがいることなので、その余力がないときにむりに向き合う必要もない)

宮地 尚子さんが「傷を愛せるか」というタイトルの本を書いていたけれど、現代を生きる誰もが何かしらの傷を抱えているとしたら、誰もが「傷を愛せるか」が問われてるのだ、ともいえる。

愛とはコントロールではない。否定でも無視でもない。そこに傷があることをみとめて、みつめて、いつくしむこと。とおまわりかもしれないが、子どもへの虐待、パートナーへのDV、周囲の人間へのハラスメントなどの加害を減らすことは、そうした「傷を愛せるか」の先にあるような気がしてる。


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