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ホームレス、トーマス・ヴァンスの軌跡 a story of Thomas (3)

第三話

1989年、年の瀬の薪ストーブ

  雪。
  マンハッタン、ロウアーイースト8丁目、アベニューBとCの間に立つ廃墟をすっぽりと冬が覆っている。トーマスとアーリンの部屋の窓にガラスは無く、相変わらずビニールとむしろでふさがれている。暖房設備の無い廃墟で、どのようにこの寒さをしのいでいるのだろう。
  入り口の赤いドアの前に立つ。下からいつものように「トーマス」と呼んでみる。彼らがいれば開けてくれるはずだ。先程から降り出した雪が激しさを増してきた。しばらくして、「ガチャッ」と鍵の外れる音がして、重たいドアが開いた。
  1989年が終わろうとしていた。久しぶりに訪ねる彼らの部屋だった。秋に身重のアーリンを見かけてから、何となく足が遠のいていたのだ。

  中に案内された瞬間、その暖かさに驚いた。見ると部屋の真ん中にどっしりと薪ストーブが設置され、廃材が勢いよく燃えている。トーマスが作ったという。ストーブの上の鉄板には調理用の鍋やフライパンが置かれていた。コンロを兼ねたストーブという訳だ。「スクランブルエッグを作ることも、お湯を沸かすこともできるんだ」と、自慢げなトーマス。(写真)
  この住処を得て半年。彼らはしっかりと、対処している様に見えた。

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  降りしきる雪が消音材になって、街の喧騒を吸収していく。薪が燃える音が、耳に心地よかった。アーリンはその日、虫歯が痛み、横になっていた。
  「どの歯が痛いの?」。尋ねると、彼女は口を開けて奥歯を指さした。まだ40前だというのに、既に幾本かの歯が無くなっている。
  「赤ちゃんが産まれるまで麻酔を使えないから、歯を抜くことはできないの」。時々「うーっ」とうめき、枕元のぬいぐるみに話し掛けては、痛みを紛らわそうとしている。

  気になっていた質問を投げかけてみた。「二人は、結婚しないのかい?」。生まれてくる赤ちゃんのために、真っ当な生き方をして欲しいというのが、私の個人的な願いだった。

  「結婚? ナニ  ソレ? 日本語を話してるの?」とかわされた。私はとても笑う気になれず黙り込んだ。

  「紅茶でも飲まないかい?」。トーマスが切り出した。一瞬躊躇したがご馳走になろうと思った。水は下の消火栓からのもののはずだし、この部屋に流しがない以上、カップも清潔かどうか分からない。あの夏の日のように遠慮することもできた。しかし、トーマスとアーリンと私を繋ぐものは、この一杯の紅茶しか無いように感じてしまったのだ。
  紅茶が差し出される。トーマスは親切にハチミツを入れてくれた。恐る恐る含んだひと口目。甘いはずの紅茶は少しも甘くなく、洗剤の味がほのかにした。舌で味わわず、「ゴクリ」とふた口目を飲み込んだ。

  トーマスはニューオーリンズから、アーリンはパナマからニューヨークに流れて来た。麻薬に手を出して転落、ホームレスになった。トーマスには専門技術を活かせる定職が無く、アーリンはまた一本、大切な奥歯を失おうとしている。そして、二人に結婚の意志もない。

  それでも、ニューヨークに桜の花が咲く来年の4月、8丁目 東329番地に、新しい生命が産声を上げることだろう。
                              (つづく)

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