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デザインをめぐり、ささやかな駄文をとどむ

かれこれデザインを生業にして38年もの歳月が経つ。
極めて素晴らしい師に恵まれ、極めて素晴らしい依頼主に恵まれ、幸いにして今、現在に至る。

途中実務を離れたこともあるが、しかしデザインという考え方、デザインという思想の上に、自身の歩みはあった。いや、自身の人生とか歩みとか、そういったもの全てがデザインだと考えていた。

巨樹が、その生きてきた歳月を年輪として刻むように、また、その年輪の姿が、他のどの木とも異なるように、人の生きてきた歩み、その足跡は全てその人のデザイン(現れた姿)だと考えてきた。

経営に関わっていた頃は、組織のデザインとか、そんな事を考えていた。

無形の思いとか考えとか、アイデアだとか、そういう見えないものを見えるようにする、有形に、かたちにするという事、そこにデザインという営為の本質があると考えている。

さて、そういう考え方の次元から、日常的なデザイン実務という現実に戻る。

IllustratorやInDesign、Photoshopなどのデザインアプリケーションを扱うことができれば、デザインと称して目に見える形になったフライヤーもパンフレットも名刺も、Webも、形にすることができるようにはなった。

DTPという言葉が1985年に登場して以降、コンピュータでデザインし、出版物が作れるというこの潮流があっという間に世界を席巻し、日本にも波及し、38年が経つ。
DTPという言葉の誕生と自分がデザインという生業を始めたのと同じ年数を積み重ねてきた。

自分のデザイン人生の35年は、Macintoshと共に歩んだ日々で、初期の3年、写植で版下をつくり、製版指定で印刷物を作り上げる工程を経験した。はたまた字数計算をして、活字ベタ組み本文のレイアウトを行った。自分にとってはこの3年の経験はとてつもなく貴重で、この体験をベースに、コンピュータのディスプレイ上でデザインを組み上げる際の原寸感覚のズレと違和感との格闘、あるいは思考を具現化する速度との乖離がかなりあった。

この辺の話は、また別の機会にするとして、日常的なデザイン実務の話に戻る。

このようにしてデザインはデザインアプリケーションを扱えるか、扱えないか、という次元の話になってしまったようだ。デザイン学校を経て、デザインの考え方を学ぶでもなく、ちゃんとしたデザイン企業に務めて、デザインの考え方の素養を身に着けて実務を行った経験があるわけでもない人が、パソコンを扱うのが、まあまあ得意でデザインアプリケーションを扱えるからといって自社の商品のパッケージのデザインを見よう見真似で作る。

相応に形になったものが出来上がり、その勤務先の社長、あるいは意志決定者が「ああ、これでいいんじゃない!」と同意が得られれば自社の商品のパッケージデザインの完成である。

もちろん、経験なくとも、そういうやり方でセンスのいい若者もいたりするので、デザインという仕事は教育も実務経験もなくとも、新卒新人がアプリケーションさえ扱えれば、できるようにはなってしまった。
そして、それらを用いるかどうかは経営者が決めればいいことであって、外部の第三者である私が口を挟むような話でもない。
その当該企業にとっては、社員がインハウスでデザインができれば、外部にデザイン支出しなくて済むので、それはそれでメリットが大いにある話である。

さて、話は次に、ビジネスにおけるビジネスマナーといった教養の話である。

社内にデザイン教育を受けた社員もなく、デザイン企業でデザイン実務を経験した社員もいないメーカー企業でアプリケーションが扱えるという社員を使ってセールス資料やPOPなどを作り始めた。
このことそのものはインハウスで資料を作る、どの会社でも見られる光景である。

その企業が自社商品のパッケージデザインを、これまで依頼していた外部デザイナーに、いつものように依頼を行なう。ほどなくしてデザイナーからは初校デザインが提出される。
その初校デザインに対しての修正要望が伝えられ、その要望に従って再校のデザインが提出された。
その再校に対して「社内で持ってるイメージと少し合わず」との事で 6案分商品名フォントが異なるフォントバリエーションと過去のパッケージから流用した画像を組み合わせたデザイン案が外部デザイナーのもとにメールで届けられ、その中のある案で確定した、と伝えられる。

なるほど、発注者であり、意志決定者でもあるメーカー企業として「社内で持ってるイメージと少し合わず」という事は、よく理解できる。往々にしてあることだろう。力不足ですまない。

しかし、依頼をかけた相手のデザインがイメージとは合わないといえ、そのデザイナーに対して自社で組み立てたデザインを送りつけて、これで行きたいと思います、という感覚が、ちょっと理解を超えていた。

そういう時代なのか?
いやいや、時代の新旧にかかわらず、単純に失礼だろ。

それなら、
依頼した文章が「社内で持ってるイメージと少し合わず」自分たちで書きました。
依頼した曲が「社内で持ってるイメージと少し合わず」自分たちで作曲しました。
依頼した撮影が「社内で持ってるイメージと少し合わず」自分たちで撮影しました。
と、するのだろうか?

「社内で持ってるイメージと少し合わない」デザイン、文章、曲、撮影。
センスや好き嫌いも発生しうる、コンテンツクリエイションにあって、合わないものが出てくることもありうる。そこに依頼した相手との会話や対話も承認もなく、自分たちでも作れるから作ってみて、こっちの方がイメージに合うんで、そちらにしたいと思いますって。。。。
(再校まで来て、入稿まで時間もない、という事があったとしてもメールじゃなくて電話とかで何かちゃんと誠意をもって説明しては欲しいよな)

自分たちの思い通りにしたい、という一種の傲慢さがにじみ出ていてうんざりする。自分たちの思い通りにしたものが、市場で評価されたり、好印象を持たれたりするわけでもないのに。思い通りにすることにこだわる自己満足の追求。

プロの作り手に対する配慮もリスペクトもないと感じてしまう。
(配慮とリスペクトがあったから直接電話でなく、メールで間接的に伝えた?)依頼したのはそちらではないのか?もちろん、先方が満足のいくものを提供できなかった、外部デザイナー側にも非はあるとしても、問題はその良し悪しではない。デザインを依頼する、受ける、相互に意見の交流を持ちつつ、デザインを組み立てる。仕事と呼ばれるものの応答をする上でのマナーはデザインに限らず存在する。
問題はそのマナーだ。自分たちで依頼をして、初校という機会があり、十分に伝えられる時間も機会もありながら、再校を見て、初校で言及してもいないイメージと過去のデザインデータを流用して、自分たちで作ったものを送りつけて、これに決定しました、という感覚が…(絶句)

年寄りをリスペクトしろ、という事を言っているわけではない、誇りとプライドを持って仕事をしてきただけに悔しいというのが正直な気持ちかな。

悔しいのが嫌なら、プライドや誇りを捨てる、という生き方もあるのかもしれないけれども、じゃあ、プライドや誇りを捨てることにした自分を愛せるか?というと微妙。

38年も、その生業に携わってきて生まれる自負やプライドや誇りって、仕方ないじゃない、自分の歴史なのだから。

もちろん依頼主に満足のいくものを提供できなかった側に、次からの依頼は無いだろうな、と逆ギレして噛み付いているわけでもない。そういうことを踏まえた上でもなお、マナーとして、どうなの、そのやり方?と思う。

おたくの店のチャーハンまずかったから、厨房貸して。俺がチャーハン作るんでって、レストランのシェフにこの味で!ってやるんですかね?
勝手に人のフライパンと厨房でチャーハン作るなって怒られるでしょ。
勝手に人が作った過去のデータ引っ張り出して組み合わせて、これで着地しましたってなんなの?

一連のやり取りをメールで終えて、電話で、肉声で、この間の経過に関するフォローもない。メールで決めました。着地できました。で、どうもこの仕事については完了のようだ。

人は感情を持つ生き物だという事も知らないらしい。
ま、そんなことで激おこ、ぷんぷんだわ。

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