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北斗に生きる。-第5話-

オレは大正十四年一月三日、サハリン(旧樺太)の農家の三男として、丸太小屋で生まれた。父は三十一歳、母は三十三歳と記憶している。

父は樺太に渡る前は、標茶町阿歴内(しべちゃちょう あれきない)の大地主が所有していた山林の炭焼き夫として入山して働いていた。
山林といっても名ばかりであった。木材として使用できる大木は杣夫(そまふ ※北海道では山子“やまご ”という。山に入って木を伐ることを業とする人のこと)が切り出し、その残りの小木や大木の残り木を炭窯に入れ、木炭を作る。木炭は炭俵に入れて出荷する。一俵いくらの賃金をもらい生活していた焼子であった。

焼子は山に入り、窯を作る場所を選定する。
近くの水の便利の良い所に家を作る。家といっても名ばかりでの骨組の丸太を組合わせ、屋根形を造る。外壁はムシロを何枚も重ねる。入口は菰(こも)を下げて出入りするのである。開け戸を閉めない人を「呂菰育ち」といったものだ。

屋根は今のようにトタンなどはない。
川原からヨシを刈って運び、雨をしのぐ程度の家であった。すべて金をかけない方式であった。その場所に何年も定住して炭を生産する職業ではない。原料の木がなくなれば家も窯も捨て、他の土地に移らなければならない。家も、窯も、木を切り出してすべて人力である。木炭に出来上がるまでは二ヶ月もかかった。

最初の木炭はアラ木炭といって金にはならない。その間の食糧、衣類はすべて親方からの前借である。以後、尺別(しゃくべつ)に移るまでに、母みさと結婚する。長男、次男が生まれ、尺別にはやはり焼子としての移住であった。
当時、樺太は移入希望者を募っていた。自分の土地がもてる希望がある。頑張り次第で楽な生活も夢ではない。北海道よりはるか北の島である。寒さも北海道とは比べようもなく厳しい大地である。

大正十二年頃は、稚内から大泊港まで八時間くらいの船旅であった。大泊から留多加(るうたか)まで汽車で三時間である。それから豊栄(※ 豊原市は樺太で最初(で最後)の市として誕生。同時に、豊原市は豊原支庁の所管を離れ、同支庁は豊栄支庁と改称。1942(昭和17)年11月には大幅な行政区画の再編が行われ、それまでの1市8支庁1出張所が1市4支庁に統合される。この際に、豊栄支庁は大泊支庁および同支庁の留多加出張所と統合されて、豊原支庁という呼称が復活。)まで五里(※一里は3.927km。五里は約20km)のデコボコ道である。車もバスも何もない。ただただ歩くのみである。そのため、五十過ぎの老人を連れて行く人は余りいなかったらしい。

父は二十八歳であった。アバラ小屋を建て、草原の荒野を、一鍬、一鍬と掘り起こして畠を作っていった。食物というと去年作った馬鈴薯と麦くらいである。おかずを買いに行くのにも一里はある。金はないので暇があると川魚を取った。ヤマメ、イワナ、ウグイはよく釣れた。
秋になると鱒が列を作って上がってきたが、川巾が四十米くらいあるのでなかなかとることが出来なかった。

大正十四年オレが生まれた。
その後、母は粗末な食事と過労で体調をくずして、オレが二歳十ヶ月の頃に他界した。病名は分からない。病院までは五里の道を馬車で連れて行かなければならない。薬だけを頼りにしての若死にであった。情けない思いである。
母の齢は三十四歳でした。現在は女性の三十四歳といえば、ばりばり働いている齢である。
物心ついてから毎年、盆には顔も知らない母の墓に石を積み直し、草をむしり、墓参りをしたものだった。墓地は家の土地の石がゴロゴロした畠にならない所であった。今でも思い浮かべる。どんなに変わっていようとも、訪れて探しあてることが出来るような気がする。

昭和三年、三歳の時、父も手をあましたのか、イトコの人が札幌の父の大姉の息子に嫁ぐことになり、その時、連れ子のようなかたちで叔母の家に行ったのである。記憶には残っていない。四、五歳の頃になると、ポツリポツリと想い出すことがある。

冬の日である。皆で写真を撮りに行くことになり出かけた。写真の時は、一張羅を着て撮るものだがない。ふだん着のまま出かけた。
札幌の雪は多い。除雪などはせずに馬橇(うまそり)が行きかう。馬は首にリンをぶら下げてチリンチリンとならしている。

一台の馬橇がたくさんの荷を引いてきた。その荷が(中身は分からないがムシロで包んだ箱の様なもの)みんなから少し遅れて歩いている所に横すべりをした。オレは二米もある雪の壁の中におし込められた。
瞬間、泣くことも出来ず、息が止まった。馬橇が行ってしまってから「ワッ」と泣き出した。
雪の中から引っぱり出されると、子供一人入った型そのままに穴になっていた。幸い新雪だったので血も出ていないし、歩くことも出来た。
しかし、腰のあたりが痛く、泣き泣きビッコを引きながら歩いた。

写真屋さんに行き、写真を撮ってもらい、ソバ屋で天ぷらうどんを食べた。生まれて初めて食べたので大変美味しかった。
いざ写真が出来てきたのを見て大人達は大笑いした。オレの顔が右目からななめ下に、黒いよごれが写っているではないか。あの雪中から引っぱり出され、泣きながら首からかけたよごれた毛糸の手っかえしで涙をふいたからだ。そのまま乾いていたので黒く写ったのだ。
問題の写真は樺太の実家に送られ、少年になってから写真を見てすぐ思い出した。オレの手元にはないが思い出だけは焼きついている。

(つづく)

〈南樺太の地図〉

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑