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北斗に生きる。-第9話-

明けて正月から、寒稽古の時である。
丁度、運悪く体調が悪い。毎朝、病室まで検温にゆく。寒稽古に参加することが出来ない。
二日目、「寒稽古がいやで検温に行っているのだろう。お前みたいなやつは死んでしまえ」
といわれる。翌朝、軍医少尉殿に寒稽古に出て銃剣術の仕合に出たい旨を話し、全治にしてくれと頼んだ。軍医殿は何かを感じたらしく、体調が悪かったら病室に来いと、全治にしてくれた。

翌朝は、まだうす暗い寺の境内に集合する。
いきなり「村山、出てこい」と班長が挑戦してきた。
この時を待っていたのだと、よろこんで飛び出す。班長は海軍初段だといってた、今迄タルんでいると何本もバッタをもらったお返しにたとえ負けても、一回でも思い切りやるしかない。
少し離れてみる。隙だらけだ。
今だ、必殺の剣を出す。まともに入った。
力を入れ過ぎたため班長は仰向けにひっくり返る。防具をつけているので中々立ち上がらない。立ち上がるのを待っていた。よほど悔しかったのか、寝たままで「かかってこい」という。ようやく立ち上がると「全員、村山にかかれ」という。四十人ほどの兵は寒さで震えていたそうだ。でも、ある者は「もっとコテコテに突きまくればよかったのに」という。

二週間の寒稽古も終え、大会の朝が来た。
百二、三十人の兵が揃い、勝ち抜き法、トーナメントである。五回、六回と勝ち進み、いよいよ最後の決勝戦にまで勝ち続けた。
オレにやられた班長は、側から離れない。落ち着かせるためか、ひもをしばり直したりする。相手は一期上級の上等兵である。
「お前の戦法でいけば必ず勝てる」などと力をつけてくれた。

仕合が始まった。中々、隙を見出すことができない。思いきり出る。後に下がっても乗ってこない。一瞬、型通り突き、まるきりジェスチャアである。オレの体にはさわっていない。
でも審判は「勝負あり」で、終わりである。
うちの班長は飛び出してて、審判に文句をつける。でもやり直しはない。班長もよほど口惜しかったらしい。隊長の総評の言葉に優勝した兵のことを褒めず「二位の兵の剣は、一発必殺の剣である」とお褒めの言葉をいただく。
兵舎に帰ってからも分隊長、少尉からも、たとえ二位であっても、お前の剣はすばらしかったといわれた。

月もかわり、三月下旬、卒業した。
実習部隊に行くことになる。目的地は台湾に決まっていたが、すでに台湾も取られ、沖縄は戦場と化していた。行先不明、九州の航空隊に配属されることになる。
三月下旬、車窓から見える満開の桜を見てもさほど美しいとも感じない。
到着したのは熊本県の人吉航空隊である。
人吉市は高野山のような寺街とは違い、緑豊かな街である。何となく活気がない。二週間もすると、また転勤である。
今度は鹿児島県指宿である。航空隊もあるのだし、今度はすばらしい隊だろうと期待した。現在は温泉があるので立派な温泉街になったらしい。何日も何日も行動するが飛行機らしい姿はない。何をしにここまで来たのか。でも、海岸であるので余りすごい暑さは感じない。南国の今まで見たこともない棕櫚(しゅろ)などを見たり、曲がりくねった赤松に触り、何となく心が和んだ。

戦はたけなわとなり、毎日五、六千メートル上空を米機の編隊が関西方面爆撃に行く。兵舎にいてはいつ爆撃されるか分からない。
民家の物置小屋のようなところに一時寝起きすることになる。食事は心配なかったが、風呂がない。夕食後、本隊の風呂(お茶の色をしてタオルは一度使うと茶色に染まってしまう)まで、一・五キロ、崖の下の道を三十人ほどで行く。

五月下旬のことである。
関西方面からお帰りのB29が編隊を組んで、ゆうゆうと沖縄に向かって行く。爆弾が残っていたのか、兵舎を狙ったのか、機体から離れた物体を見た。グラマンまで我等の姿を見つけ、何機も撃ってくる。崖下の道であるから身を隠すところがない。引率者が「伏せ」という。
真面目な者達は道路の上に伏せた。
B29が落とした爆弾が崖に向かってくるのが見えた。ここは伏せていては危ないと、伏せている兵達の上を二、三十メートル先の横穴めがけて夢中で走った。飛び込むと同時に崖がくずれ落ちる音がした。

静かになったので恐る恐る出てみる。
真面目に伏せた連中は、十人ほど動かない。
上から落ちてきた岩石に当たり、八人即死である。新入兵ばかりで顔の覚えがある者はいない。
「残った者は、風呂へ行け」の命令通り、風呂に向かう。可哀相なやつらと言いながら歩き出す。
十分ほど歩いた時、またアメさん(米軍)のお帰りである。やはりグラマンを従えての爆撃である。見つかったらグラマンにやられる。
一目散で赤松の中を走る。立っていては危ないと伏せた。トタンに、五十K爆弾が炸裂する。
耳の中がギンギンして何も聞こえない。伏せていた五人の背中の上に砂がどさっと十センチほど体全体を覆う。動くことが出来ない状態である。もし、あれが石であったらおしまいだったろう。皆無事だった。お互いの砂を払い合い、無事を確かめ合った。十メートルくらいのところに、深さ三メートル位の大きな穴が出来ていた。

(つづく)

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いつも読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

次回はいよいよ終戦のあの日、最終話です。

小俣 緑