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『ノルウェイの森』から見るフェミニズム批評とその再検討

せっかく書いた卒業論文の掲載をします。
フェミニズムに興味を持ったので、好きな作家である村上春樹に対するフェミニズム批評を読み、それについて考察したものです。

VICE 「Z世代による、懐かしのラブコメ映画辛口レビュー」

https://www.vice.com/amp/jp/article/3a8789/woke-rom-com-review-500-days-bridget-jones#click=https://t.co/YpomP4y3Wg

この中での『(500日)のサマー』の批評を読んでこの批評は、『ノルウェイの森』に対する批評と同じではないか?と思ってnoteにまとめてます。

以下、丸ごと卒論の掲載です。

卒業研究

村上春樹『ノルウェイの森』

に対するフェミニズム批評と

その再検討

目次

はじめに

目標

第一章 『ノルウェイの森』についての概略

(1)村上春樹について

(2)『ノルウェイの森』あらすじ

(3)『ノルウェイの森』に対する評価

第二章 『男流文学論』における上野千鶴子の批判

(1)作品中の「性交渉」自体の問題性

(2)作品全体ないし文脈上での性交渉の成立が持つ問題性

第三章『みみずくは黄昏に飛び立つ』における川上未映子の批判

(1)「主人公を異化するための女性」についての考察

・第二章(1)作品中の「性交渉」自体の問題性より

(2)「女性が性的な役割を担わされすぎている」についての考察

・第二章(2)作品全体ないし文脈上での性交渉の成立が持つ問題性より

(3)「女性が欠如するものとして、喪失のイメージとしてある」ことが「その世界の前提としてあるような気がする」についての考察

おわりに

参考文献

はじめに

村上春樹の作品内での女性の扱いが、女性軽視的だといわれることがある。女をいいように扱いすぎだ、とか男が思うがままの男性優位な小説だと。

ノーベル賞を受賞できない理由として、『文學界』(文芸春秋)2017年11月号の論考「ヨーロッパの片隅で村上春樹とノーベル賞と世界文学のことを考えた」では、「村上春樹についてだが、現在のノーベル賞委員会の倫理観では-これはあくまで私の想像だが-彼の作品が十分理解されているとはいいがたいように思う。特にネックになるのは、セックス描写や女性の扱い方ではないか」 などと述べられている。

筆者は、村上春樹の作品が好きで、これまでたくさんの作品を読んできたが、村上春樹の小説が女性を差別していたり、男性優位な小説だと強く感じたことはない。村上春樹作品は「反フェミニズム」的な小説なのだろうか。

筆者は、フェミニストとして声を上げている人を揶揄するような状況がとても嫌である。いきすぎたフェミニズムはおかしいが、どう考えても男性優位な今の社会、フェミニズムの声をあげることは当然なことである。現代のフェミニズムとは、「性差別からの解放」であり、女も男もそうでない人も自分が思うように生きたらいい、という思想であると考える。

フェミニズムとは、男性優位な社会であるからこそ、女性の尊重という文脈で語られてきたが、これからのフェミニズムは、男女が男も女もなく人間個人として尊重されていくことに声を上げるものであると考える。

平等な世界というのは誰が何をやっても(他人に迷惑をかけなければ)いいという世界である。とすれば、村上春樹の小説の登場人物が個人としてそれぞれの意思を持ちながら行動しているならば、『ノルウェイの森』は反フェミニズムな小説だとは言えないのではないだろうか。

目標

そこで、村上春樹の代表作の一つである『ノルウェイの森』から、登場人物の行動、意思、意見といったものをフェミニズム的な観点から見ていき、どういった点が反フェミニズム的だと非難されていたのか、またそれは本当に反フェミニズム的であるのか、ということ改めて検証したい。

第一章『ノルウェイの森』の概略

(1)村上春樹について

以下、新潮社の村上春樹特設サイトを参照し、略歴をまとめる。

早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。

日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。

デビュー以来、翻訳も精力的に行い、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーほか多数の作家の作品を訳している。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も出版している。後述するが、ビートルズやウィルコといった音楽を愛聴し自身の作品にモチーフとして取り入れるなどしている 。

(2)ノルウェイの森 あらすじ

次に、『ノルウェイの森』のあらすじを、Wikipediaを参照しつつまとめる 。

37歳のワタナベは、ハンブルク空港に到着した飛行機のBGMでビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、激しい混乱を覚えた。そして学生時代のことを回想した。

直子とはじめて会ったのは神戸にいた高校2年のときで、直子はワタナベの友人キズキの恋人だった。3人でよく遊んだが、キズキは高校3年の5月に自殺してしまった。その後、ワタナベはある女の子と付き合ったが、彼女を置いて東京の私立大学に入学し、右翼的な団体が運営する学生寮に入った。

1968年5月、ワタナベは、中央線の電車の中で偶然直子と1年ぶりの再会をする。直子は武蔵野の女子大に通っており、国分寺のアパートでひとり暮らしをしていた。二人は休みの日に会うようになり、デートを重ねた。

10月、同じ寮の永沢と友だちになった。永沢は外務省入りを目指す2学年上の東大生だった。ハツミという恋人がいたが、女漁りを繰り返していた。

翌年の4月、直子の20歳の誕生日に彼女と寝た。その直後、直子は部屋を引き払いワタナベの前から姿を消した。7月になって直子からの手紙が届いた。今は京都にある(精神病の)療養所に入っているという。その月の末、同室の学生がワタナベに、庭でつかまえた螢をくれた。

夏休みの間に、大学に機動隊が入りバリケードが破壊された。ワタナベは大学教育の無意味さを悟るが、退屈さに耐える訓練期間として大学に通い続けた。ある日、小さなレストランで同じ大学の緑から声をかけられる。演劇史のノートを貸したことがきっかけで、それから緑とときどき会うようになった。

ワタナベは緑の家を訪れ、食事をし、家事を見ながら歌を歌い、口づけをする。この頃から緑とワタナベは映画を見たり出かけたりするようになり、お互いに好意を抱いていることを認識し合う。しかし、直子との関係に区切りがついてからでないといけないとワタナベは考える。

直子から手紙が来て、ワタナベは京都の山奥にある療養所まで彼女を訪ねた。そして同室のレイコに泊まっていくよう勧められる。レイコはギターで「ミシェル」や「ノーホエア・マン」、「ジュリア」などを弾いた。そして直子のリクエストで「ノルウェイの森」を弾いた。

ある日曜日、ワタナベが緑に連れられて大学病院に行くと、そこでは彼女の父親が脳腫瘍で入院していたが、父親は数日後に亡くなった。永沢は外務省の国家公務員試験に受かり、ワタナベはハツミとの就職祝いの夕食の席に呼ばれる。

ワタナベの20歳の誕生日の3日後、直子から手編みのセーターが届いた。冬休みになり、再び療養所を訪れ、直子、レイコと過ごした。

年が明け(1970年)、学年末の試験が終わると、ワタナベは学生寮を出て、吉祥寺郊外の一軒家を借りた。4月初め、レイコから直子の病状が悪化したことを知らせる手紙が届いた。

4月10日の課目登録の日、緑から元気がないのねと言われる。緑はワタナベに「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」と言った。

6月半ば、ワタナベは、緑から2か月ぶりにワタナベに話しかけられ、恋人と別れたことを報告されるも、直子との関係が曖昧なまま、緑との関係をどうすることもできず、ワタナベにできることはレイコに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。

8月26日に直子は自殺し、葬儀の後でワタナベは行くあてもない旅を続けた。1か月経って東京に戻ると、レイコから手紙が届いた。レイコは8年過ごした療養所を出ることにしたという。東京に着いたレイコを自宅に迎える。彼女は直子の遺品の服を着ていた。風呂屋から戻ると彼女はワインをすすり、煙草を吹かしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。そして50曲目に2回目の「ノルウェイの森」を弾いた。

翌日、旭川に向かうレイコを上野駅まで送った。ワタナベは緑に電話をかけ、「世界中に君以外に求めるものは何もない、何もかもを君と二人で最初から始めたい」と言うのだった。

(3)『ノルウェイの森』に対する評価

以下、『ノルウェイの森』についての紹介、書評である。

講談社book倶楽部の内容紹介によると、『ノルウェイの森』は、「限りのない喪失と再生を描く話題の長編小説。60年代終わりから70年始めにかけての激しくて物静かで、哀しい、永遠の恋愛小説。青春のきらめき、生と死の危うい交錯、透明な余韻に揺れるロングセラー。」と評されている 。

つまり、『ノルウェイの森』は喪失と再生を描いている永遠の恋愛小説であるといえる。

吉本隆明は、次のように述べている。『ノルウェイの森』は、愛が不可能だった青春を回想する物語である。愛が不可能だという意味にはふたつあり、ひとつは、登場人物の愛の不可能性が、特に主人公「僕」と直子の性交渉の不可能性が、いずれも精神愛と性器愛のはざまで演じられることである。吉本は、近代文学の作品で、愛の不可能性の物語が作られたのは、この作品が初めてではないかと述べる。もうひとつの意味は、男女の性的関係を含んだ友情が愛に、そして結婚に進むことができないことが描写されており、こちらも近代文学で初めてではないかと言う。この作品は誰もが認める新鮮さをもった小説であり、若い世代の風俗を生き生きと描けていることが、村上の評価の所以であると述べる 。

つまり、『ノルウェイの森』は、登場人物の愛の不可能性が「精神愛」と「性器愛」の二つの形式で描かれている。男女の性的関係をもつ友情が愛にまで進んでいくことができないことがまともに描かれ、そうした描写は新しいものであり、近代文学において、はじめて本作によって描かれた、ということである。

ではここから実際に、『ノルウェイの森』がフェミニズムの観点からは、どのような印象を与え、どのように批判、意見されているかを見ていく。

第二章 『男流文学論』 における上野千鶴子の批判

まず、『男流文学論』における村上批判を取り上げる。「当世「札付き」の女三人が、吉行淳之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫など、すでに評価の定まった男性作家六人と、それをめぐる評論を、バッタバッタと叩き斬る!」(筑摩書房)と紹介されるこの本は、今は東京大学名誉教授であり、フェミニストで社会学者の上野千鶴子と、心理学者でありフェミニストである小倉千賀子、詩人であり、小説家、文芸評論家で上方お笑い大賞の選考委員などを務める富岡多恵子の三人の対談を書籍化したものである。

以下、村上春樹『ノルウェイの森』について批判している部分の抜粋である。

小倉「ええ、酷薄で、すごいエゴイスト。ところがみんなに、やさしい、やさしい、っていわれてる。」

小倉「そうそう一見、親切に見えるけど、全然親切じゃない。」

上野「そう、だって人間の輪郭とか主体性というのは、普通は能動性によって出るものでしょう。ワタナベくんには能動的なアクションが全然ない。彼にとってアクションは全て周りから起こってくる。だからワタナベくんという男が実在していたとしたら、彼にとっての幸運は、周囲の人間が、それはおせっかいにも彼に手を出してくれているということ。ふつう、こういうブラックホールみたいな男がいたら誰も積極的に手を出してくれないから、おたく族みたいになってしまうでしょう。」

上野「どのセックスシーンも、二人でやっていながら、ひどく孤独なセックス、マスターベーションに近いようなセックスでしょう。それを女の子が手伝ってあげる。」

ここで上野らが批判していることは、主人公である僕に対して、周りの女性ばかりが積極的であり、僕自身には能動性が感じられないということである。またその最たる例は性交渉のシーンに現れており、それは、上野曰く「ひどく孤独なセックス、マスターベーションに近いようなセックス」である。ここでのマスターベーションに近いようなセックスとは、二つの意味に解釈できると考える。1つ目は、文字通り、マスターベーションを手伝うような性交渉をしているという行為自体への指摘。2つ目は、作家のマスターベーションとしての、男性作家による都合のいい展開としての性交渉の成立という意味である。本稿では、この二つの観点から、上野の批判を検討する 。

まず、上野が「どのセックスシーンも、二人でやっていながら、ひどく孤独なセックス、マスターベーションに近いようなセックスでしょう。それを女の子が手伝ってあげる。」と、指摘している点について、作品中の性交渉それ自体を取り上げる。それにより、文字通りマスターベーションを手伝うような性交渉をしているという行為自体についての問題性を検討していく。

(1)作品中の「性交渉」自体の問題性

作中、主な性的描写があるシーンは全部で13箇所存在している。

上巻

P62からのゆきずりの女の子と寝るシーン

P73からの直子と初めて寝たシーン

P134からの緑との屋上のキスシーン

P152からの小柄な女の子とのシーン

P203からのキズキとの回想と僕との初体験の回想

P238夜の出来事での回想

P257からのシーン

下巻

P14ピアノ教え子とのシーン

P46緑の幻想

P106永沢とハツミとの食事

P162直子とのシーン

P240直子との初体験の回想

P253礼子さんとのシーン

この中で、実際に女性がマスターベーションの手伝いをしている場面が三か所、「僕」が実際に性交渉を行なっていることを具体的に表す場面が回想を含め四か所ある。まず、それぞれの内容を整理し、次いで、これらのシーンから、上野千鶴子がいうような文脈で描写されているのかどうかということに着目して見ていく。

まず、文字通り「マスターベーションの手伝いをしている」場面を取り上げる。

一つ目は、上巻P256からの草原での場面。直子と僕は口づけをし、直子は僕に「私と寝たい?」と聞く。「もちろん」「今固くなってる?」「勃起してるかということなら、してるよ、もちろん。「出してあげようか?」「やってほしい」という会話をし、直子の手によって僕は射精する。

二つ目。下巻P162からの僕が療養所へ行く場面。直子の手と口によって2度の射精をした僕は、「下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた」。ここで直子は「ずっと私のことを好きでいられる?」と聞き、別れ際に「さよなら」と告げる。これが直子と僕の最後の出会いである。

三つ目、下巻P208からの緑とベッドで抱き合っている場面。勃起した僕のペニスを緑がいじくりまわし射精する場面。ここで二人は「でもワタナベ君、私とやりたくないんでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」「やりたくないわけがないだろう」「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」と会話する。

以上の三つの場面は、実際に「マスターベーションを手伝う」描写であり、ここは上野の批判通りであることがわかる。

筆者は、「僕」が直子を愛撫しようと試みる描写があることや、行為の相手はどちらも主人公の恋人関係にある人物であり、ヘテロセクシャルの男性の性的対象は女性であることから、必ずしも批判に当てはまらないのではないかと考える。しかし、上記のように描写されていることは事実であり、批判を完全に否定しえるほどの理由にはならないとも考える。

次に、実際に「僕」が性交渉を行っている四つの場面の中から、直子との性交渉の場面(一つ目)と、その回想の場面(二つ目)を取り上げ、性交渉がマスターベーション的かどうかを検討する。

一つ目は、上巻P73から始まる直子との性交渉の場面である。

「その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。」

「それでも僕が中に入ると--僕はペニスをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして、彼女を長い間抱きしめていた。そして彼女が落ち着きを見せるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。」

ここは、直子を長い間抱きしめる僕、最後には僕の体をしっかり抱きしめ声を上げる直子といった描写から見てわかる通り、僕は決して独りよがりな性交渉しているわけではないと言える。

二つ目は、上巻P203からのキヅキと性交渉できなかったことを直子が「僕」に語る一つ目の場面の回想より。

「だってあなたと寝た時私すごく濡れてたでしょ?そうでしょ?」「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたにあった最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れて欲しいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キヅキ君のこと本当に愛していたのよ」「そして僕のことは愛していたわけではないのに、ということ?」「ごめんなさい」とのやり取りをする。これは、直子が過去に交際していたキズキとは性交渉を行うことができなかったが、「僕」との一度きりの性交渉が行えたこと、そして後になって、この性交渉のことを回想する場面である。

ここでの描写からは、直子が僕を求めたが、それは僕を愛していたからではないということがわかる。直子が実は「僕」を愛していなかったことから、それは僕の独りよがりな性交渉と言えるのかもしれないが、『男流文学論』にて述べられている「どのセックスシーンも、二人でやっていながら、ひどく孤独なセックス、マスターベーションに近いようなセックスでしょう。それを女の子が手伝ってあげる。」というような文脈とは違うと言える。

三つ目は、上巻P152からの彼氏に浮気された小柄な女の子との行きずりの性交渉の場面、四つ目は、下巻P253からの「僕」とレイコが直子のために楽しいお葬式をし、その後性交渉をする場面であり、このどちらの性交渉も「どちらから誘うともなく」というような描写があることから、双方の同意の上に行われており、行為自体の問題性はないと考えられる。

上記のそれぞれのシーンにおける、性交渉の行為自体は、男女ともに意志を持ち行なっており、上野千鶴子が言うような、一つ目の解釈の意味合いでの「マスターベーションのようなセックス」にはなっていないと筆者は考える。

(2)作品全体ないし文脈上での性交渉の成立が持つ問題性

次に、上野の「マスターベーション」についての二つ目の解釈である、男性作家による都合のいい展開としての性交渉の成立という解釈について考えていく。

この論点について、筆者は次の点を指摘したい。物語全体で考えた際にそれらの性的描写は、物語装置として、物語に何らかの契機を与えるものとして機能するようなものとして描かれているのかどうかが問題である。

機能していた場合には必要な性的描写であったと言えるし、機能していない場合には、描写が多いだけに、男性優位的な描写といえるのではないか、と筆者は考える。

また、物語全体で男に対して、いとも簡単に、都合よく「手伝って」くれるような場面が多いのではないかという主張についても全体の比重などから考えていく。

この作品には、九つの性交渉が描かれている。その中から、契機となっている場面、なっていない場面に分けて考察していく。

物語装置として機能しているのは三つの場面である。

一つ目は、上巻P73からの直子との性交渉の場面。直子が不自然に自分のことを喋り続けたのち、彼女の言葉は急に止み、そうして直子の中から何かが損なわれてしまう。その後直子は泣き始め、僕は直子を支え、その夜、直子と性交渉を行う。このセックスは、直子が人生でたった一度だけ最後まで行うことができた性交渉である。その後、直子から連絡が来なくなり、「僕」は「たぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわりみちをしてしまったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。」と直子に手紙を出す。この後直子は療養所に入り、のちに自殺してしまう。

以上のことからこの性交渉は、物語が大きく動く直接的な契機になっているといえる。したがって、男性作家による都合のいい展開としての性交渉とは言えないのではないか。

二つ目。下巻P11からのレイコと教え子の場面。ここでは13歳のレスビアンの教え子の女の子に先生であるレイコが唆され、愛撫される場面である。

この場面は女性同士であり、男性から女性へと行われる性交渉ではないが、この体験を機にレイコは自殺を図り、療養所にはいることになる。物語でレイコは大きな役割を担っている。そしてこの体験が、レイコが療養所に入るきっかけとなり、「だから私なかなかここを出られないのよ」「ここを出ていって外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。」と語る理由になっている。この場面での性交渉は女性同士のものであり、また、物語において契機となっているといえる。

三つ目。レイコとの直子の素敵なお葬式の場面。「カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあたり前の事のように抱き合い、お互いの体を求めあった」

19歳も年齢が離れた二人が「当たり前」のように性交渉をすることは、かなり都合の良い展開だと考えられる。しかし、「われわれは生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。」と述べられているように、この場面では、直子を失った僕の喪失感からの立ち直り、長い間療養所へ入っていたレイコの現実世界への立ち直りの契機として描かれている。


 このように、『ノルウェイの森』において、三つの性交渉が物語の本質的な契機となっている。

次に、物語の契機とは思われない六つの場面から、特に三つの場面を取り上げる。

一つ目。上巻P62からの行きずりの女の子との場面。「僕」が永沢と初めて女の子を求めて遊びにいく場面である。ここで主人公は「彼と一緒に渋谷か新宿のバーだかスナックに入って(店は大体いつも決まっていた)、適当な女の子の二人連れを見つけて話をし(世界は二人連れの女の子で満ちていた)、酒を飲み、それからホテルに入ってセックス」をするのである。

ここは何かの契機であるとするのならば、永沢と初めて遊びに出かけたということのみである。したがって、物語において大きな意味は持たず、性交渉自体もとても簡単に行えているように描かれている。

二つ目は、上巻P78からの六月の場面。「六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒くさくなってベットの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。」この性交渉を終えたのちに「僕」は「やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。」と語る。

この場面では「僕」自身が語るように「とても簡単」に性交渉を行えている。この性交渉は何かの契機にはなっていない。

三つ目、上巻P153からの行きずりの女の子との場面。ふたりは「僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方も特にお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことには収まりがつかなかったのだ。」と言う流れでホテルに入る。

ここでの性交渉は物語としていとも簡単に行えているし、何かの契機となっていることはない。

残りの三つの場面は本章(1)作品中の「性交渉自体」の問題性において、実際にマスターベーションを女性に手伝わせる描写のところで取り上げた三点である。どの場面も都合よく性交渉が行われていることは明らかである。

すでに述べたように、この作品には九つの性交渉が描かれている。大きく契機となっているのは三つの場面である。どれも物語に大きく関わる契機となっている。

しかし、それら以外の六つは、物語において何かの契機になってはいない。このことから少なくとも『ノルウェイの森』において、不要とまでは言い切れないものの必要以上の性交渉が、イージーに描かれている。またそのうち五つの性交渉は上野千鶴子が言うように都合よく性交渉に応じたり、性欲の処理の手伝いをしてくれるような描写となっている。

「文字通りマスターベーションに近いようなセックス」と言う観点については、実際にマスターベーションを手伝わせる描写が三か所あることから、上野の批判は適当であるといえる。しかし、実際に性交渉を行っている場面から考えると、少なくとも登場人物はお互いの意思で性交渉を行っていることから、上野の批判に強く当てはまることはないと筆者は考える。

「作家のマスターベーション」としての観点から見ると、物語の構造的な契機となる性交渉が描かれている場面があり、行為の相手が恋人関係である場合や、ヘテロセクシャルの男性が主人公の小説において、女性と性交渉をする描写は、「作家のマスターベーション」とは言い切れない場面もあると考えられる。しかし、必要以上に性描写が描かれ、またそれらのいくつかが男性作家による都合のいい描写であるということは否定できない。

次に、より現代のフェミニズムの価値観に近いと考えられる川上未映子の批判を取り上げ、『ノルウェイの森』を再検討していく。

第三章『みみずくは黄昏に飛び立つ』 における川上未映子の批判

芥川賞受賞作家でフェミニスト、10代からの熱心な村上春樹の愛読者である川上未映子が少年期の記憶、フェミニズム、世界的名声などについて、全てを訊きつくすという内容の書籍である。

以下、村上春樹の小説においてのフェミニズム的観点から川上が指摘している問題点である。

「小説におけるセックスというものは何かしら儀式的な、精神的なものの入り口として機能してる場合が多いと」

「これまで女性がそう行った何か無意識の領域で何かを導いたり、なにかの入り口になったりしてきたことはあったけれど、」

「村上さんの小説って、女性が去っていくのが1つのモチーフとしてあるじゃないですか。」

「女の人というものが、欠如するとものとして、喪失のイメージとしてあるのはわかるんですが、そのことについては主人公も、もう半ば諦めているというか、その世界の前提としてあるような気がするんですよね。」

また、川上は女性が性的な役割を担わされすぎていないか、と問う。

「例えば、女性というものが巫女的に扱われる、巫女的な役割を担わされるということに対する……。」

「主人公を異化する。異化されるための入り口というか契機として、女性が描かれることが多い。」

「でもある一面から見ると、いつも女性は、そういう形で「女性であることの性的な役割を担わされすぎている」と感じる読者もけっこういるんです。」

「つまり、女の人が性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまうことが多いということなんです。物語とか井戸とか、そういったものに対しては、ものすごく惜しみなく注がれている想像力が、女の人との関係においては発揮されていない。女の人は、女の人自体として存在できない。女性が主人公でも、あるいは脇役でも、いわゆる主体性を持った上で自己実現をするみたいな話の展開もできると思うのですが、いつも女性は男性である主人公の犠牲のようになってしまう傾向がある。なぜいつも村上さんの小説の中では、女性はそのような役割が多いんだろうかと。」

川上は、村上春樹の小説において、女性は「喪失」するもの、欠如するものとして描かれるということが世界の前提としてあるのではないかということを村上自身に問う。また、女性が巫女的な役割を与えられ、男性を導くような描写が多いということ、その他の物事において発揮される想像力が女性には発揮されず、性的な役割を担わされすぎているのではないかということを問う。

この書籍は2017年に刊行されているものであり、ここで川上が述べるフェミニズムは現代の価値観とあまり相違ないと考える。

川上の批判は、性交渉ないし、女性の存在が「物語の契機となっている」ということ自体に向けられている。これは、本稿が前章(2)において、上野の批判に対して行なった村上擁護の論点自体に対する批判になっている。前章で筆者は、上野の村上批判に対し、性描写が物語の構造契機となっていれば、批判に当たらないと主張した。川上の批判は、この主張に対して、女性が物語の契機としてしか扱われていないと言って批判するのである。村上においては、女性がそれ自体として描かれていない、と。具体的に見ていこう。

まずは、女性が物語の契機となり「主人公を異化するための女性」という描かれ方をしていることが指摘されている。そして、「女性が性的な役割を担わされすぎている」こと、また女性が「欠如するものとして、喪失のイメージとして」あり、主人公がそれを「もう半ば諦めているというか、その世界の前提としてあるような気がする」と指摘されている。この三つの論点を、前章で取り上げた性交渉の場面を再び取り上げ、さらに、登場人物の発言からも検証していく。

(1)主人公を異化するための女性」という批判の再検討

まず、一つ目の問題点である、「主人公を異化するための女性」という論点について検証していく。これは、女性が、男性が変化するステップとして描かれているということに対しての批判である。

一つ目の、上巻P73からの直子との性交渉の場面。ここでの直子との性交渉は、僕ではなく直子自身にこれから起こることの契機として描かれている。P73では「そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二〇年近く経った今でも、やはりそれはわからない。」と感想を述べている。この性交渉の後、直子からの連絡は途切れ、しばらくのちに、直子が療養所に入ったことが明かされる。

二つ目は、上記の性交渉についての回想シーンである。「僕」との性交渉の後、直子が療養所に入ることになることが描かれていることから直子の契機となっていることが描かれていることがわかる。

三つ目は、行きずりの女の子との場面である。行きずりの関係であり、これが何かの契機となっていたり、性的な役割を担わされているというようには考えにくく、ただの性描写であると言って良いだろう。

四つ目はレイコとの性交渉の場面。「われわれは生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。」と描写があるように、この場面では、直子を失った僕の喪失感からの立ち直り、長い間療養所へ入っていたレイコの現実世界への立ち直りの契機として描かれている。男性側のみの変化のステップではなく、お互いがこの後自分の人生を生きていくためのお互いにとってのステップとして描かれている。

以上の場面から、確かに主人公が女性によって異化されるような場面は存在するが、そのほかの場面では、女性である直子やレイコについても、彼女たち自身の変化の契機として性交渉が行なわれている描写を見ることができる。『ノルウェイの森』においては、性交渉の描写は多いものの、単に女性が男性を異化するための装置であるような描かれ方はしていないのではないだろうか。

次に、「女性が性的な役割を担わされすぎている」ということを取り上げ、検証する。これはつまり、女性はセックスの道具としてしか見られていないのではないか、という批判である。

(2)「女性が性的な役割を担わされすぎている」という批判の再検討

先にも述べたように本作品には九つの性的描写があり、そのうち物語に大きく影響する場面は三箇所である。前章で明らかにしたように他の六つの箇所は、上野が言うように「都合よく」性交渉が行われている。

しかし、へテロセクシャルな男性の性的対象は女性であり、また、作中のいくつかの場面においては性交渉が物語上、重要な契機として描かれていることにも着目しておきたい。しかし、ここで筆者が述べたことは「性的な役割を担わされすぎている」に対する反証としては少し物足りないようにも思われる。

そこで、この問題点について、登場人物の発言からも考察したい。ここには、女性からの批判が展開されている。

一つ目。上巻P211でレイコが僕に向かい「あのね、何も女の子寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。」と語る。

このレイコの発言は、僕に対し、行きずりの性交渉などが自分を擦り減らすものであることを述べ、戒めている。

二つ目。下巻P109での僕と永沢、ハツミの三人での食事の場面。「君には男の性欲というものが理解できないんだ。」「たとえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあいだにけっこう他の女と寝てきた。でも俺はその女たちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、顔も覚えてない。誰とも一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけだよ。それのどこがいけない?」という永沢の発言に対し、「私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ」と静かに述べる。

ここでは検証してきたような、不必要な性交渉、またそういう行為を行う男性たちについて傲慢であるということを女性が提示し、戒めている。

以上の発言より、上記で検証してきた事柄に対して女性の登場人物が否定的な意見を述べることにより、女性が性的な役割を担うことの問題点を作中で村上が描写しているといえる。この点から、この物語が単に女性軽視的、反フェミニズム 的ではないことをみてとることができるのではないか。

(3)「女性が欠如するものとして、喪失のイメージとしてある」ことが「その世界の前提としてあるような気がする」という批判の再検討

三つ目は、女性が欠如するもの、喪失するものであるということが物語の前提としてある、と川上が批判している点について検証する。これは、村上春樹の、女性は欠落したものであり、自らを喪失したものであるという女性観が無批判なまま下敷きにされ、作品世界を構成している、という批判である。

まず、実際に被害を受けてしまうのは女性の登場人物であるということを取り上げる。

上巻P241からの僕と直子の性交渉が成功したのは一度きりだとレイコに語る場面。レイコから「そういうのは若い女性に起こりがちなことで、年を取れば自然に治っていくのが殆どなんだって。」と説明される。それに対し直子は「そうじゃないの」「私何も心配してないのよ、レイコさん。私はただもう誰にも私の中に入って欲しくないだけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの」と語る。この後直子は自殺をしてしまう。また、ハツミも永沢と別れた四年後に、剃刀で手首を切り自殺する。

川上が「村上さんの小説って、女性が去っていくのが1つのモチーフとしてあるじゃないですか。」「女の人というものが、欠如するとものとして、喪失のイメージとしてあるのはわかるんですが、そのことについては主人公も、もう半ば諦めているというか、その世界の前提としてあるような気がするんですよね。」と語るように、実際傷つくのは僕や永沢ではなく、直子やハツミといった女性である(キズキは交通事故であるので除外する)。このほかの場面で僕や永沢が他者によって傷つけられる場面はなく、村上春樹の小説において、女性ばかりが喪失するものとして描かれている側面は否定できない。

しかし、女性ばかりが欠如し喪失されるものとして描かれているか、というとそうでもない。その反例を挙げる。

物語の最後、僕はレイコと直子のお葬式をし、緑に電話をかける。

「僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。僕は今どこにいるのだ?僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いった」いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」

物語はこのように締めくくられている。これまで自分勝手だった僕と、それでも僕のことを待っていた緑との関係がここで逆転する。長い間沈黙し、静かな声で「あなた、今どこにいるの?」と聞く緑からはひどく冷ややかなものが感じられ、「どこでもない場所の真ん中から緑を呼び続ける」僕は結局これまでの自分から抜け出せないことが暗示されている。ここで僕は喪失を味わい、37歳になっても直子のことを忘れないようにと思い出を書き連ねる。

物語の最後に、僕が初めて他人から味わう「喪失」が描かれている。この描写から見られるように、物語の最後にこれまでの僕がしてきたことの意趣返しといった表現がなされていることは、この物語が単純に男性優位な小説でないことを物語っているといえる。

おわりに

本論文では、フェミニズムの立場から指摘されている村上春樹『ノルウェイの森』の問題点ないし批判とその再検討を行った。

第二章では、社会学者である上野千鶴子からの「作者のマスターベーションである」という批判について、「文字通り、マスターベーションを手伝うような性交渉」、「作家のマスターベーションとしての、男性作家による都合のいい展開としての性交渉」という二つの解釈を施した。その上で、「作品中の「性交渉自体」の問題性」、「作品全体ないし文脈上での性交渉の成立が持つ問題性」をそれぞれ再検討した。

一つ目の解釈から再検討した結果、実際に「マスターベーションを手伝う」女性が描かれていることが判明した。次に、実際に性交渉を行っている場面のマスターベーション性を検討した結果、双方の同意のもとによる性交渉が描かれていることが明らかになった。このことから、上野の批判に強く当てはまる場面があるが、すべての描写において批判の通りではないことも明らかになった。

次に、二つ目の解釈から再検討した結果、物語の装置として機能している性交渉が三か所、機能していない性交渉が六か所あることが判明した。このことから、『ノルウェイの森』において、性交渉が作品に必要な契機として描かれていることを見て取ることができる。したがって、完全には批判に当てはまらないものの、六つの場面は契機としては描かれていないことから、少なからず男性作家に都合のいい展開としての性交渉が描かれているということが明らかになった。

しかし、ヘテロセクシャルの男性の主人公の恋愛対象は女性であり、また、性交渉を行っている場面のうち五つは恋人関係にある女性であることから、この点においては単に女性軽視的であるとは言えないと筆者は考える。

第三章では、作家でありフェミニストである川上美映子からの指摘を取り上げた。ここでは、「主人公を異化するための女性」が頻出するという点、「女性が性的な役割を担わされすぎている」という点、「女性が欠如するものとして、喪失のイメージとしてある」という点について、前章において行なった性描写の検討に基づきつつ、それに加えて、登場人物の発言から再検討を行った。

その結果、村上春樹『ノルウェイの森』において、性交渉が、主人公だけでなく、女性にとっても変化のステップとして描かれていることから、「主人公を異化するための女性」という批判には当てはまらないと筆者は考える。

また、「女性が性的な役割を担わされすぎている」という点については、物語を好きなように描写することが出来るのが作者であり、必要以上に女性との性交渉が、「男性作家による都合のいい展開としての性交渉」として描かれていることから、批判は当てはまるように思われる。

「女性が欠如するものとして、喪失のイメージとしてある」といわれる点については、女性だけでなく、男性も喪失されるものとして描かれていることから、批判は適当ではないと考えられる。

しかし、作品全体としての女性の描かれ方、性交渉の描かれ方などを物語の展開から考察すると、女性軽視的、男性優位的であることを見て取ることができた。

結論、村上春樹は『ノルウェイの森』において、描かれる個人としては、男性も女性も個人を尊重するような現代のフェミニズム的な価値観に近い描かれ方をしているが、作品全体としてみるならば、いささか女性軽視的であり、フェミニストからの批判にも当てはまるということがわかった。


参考文献

・上野千鶴子、小倉千賀子、富岡多恵子『男流文学論』、筑摩書房、1992年 。

・川上未映子、村上春樹『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社、2017年。

・沼野充義「ヨーロッパの片隅で村上春樹とノーベル賞と世界文学のことを考えた」、『文学界11月号』所収、文芸春秋、2017年。

・村上春樹特設サイト 新潮社、2019年12月14日閲覧。

 https://www.shinchosha.co.jp/harukimurakami/

・Wikipedia「ノルウェイの森」、2019年12月14日閲覧。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルウェイの森

・講談社book倶楽部「ノルウェイの森」、2019年12月14日閲覧。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000163020

・ALL REVIEWS、吉本隆明『言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇』、2019年12月14日閲覧。

https://allreviews.jp/review/316

以上。


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