ヒーローはいつまでもカバー絵

【短編小説】ヒーローはいつまでも ~雪と記憶~

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 柩の小窓を開けると死化粧をほどこされた従兄の顔があらわれた。枯れ葉のようにしおれた面貌にはかすかに腐敗の痕跡が認められる。彼の顔には積年の気苦労が小じわとなってあらわれていて、本来の活発な性質はすっかり損なわれていた。側に付いている従兄の母――わたしの伯母にあたる女性は堪え切れないようすで視線をそらしている。当初従兄の遺体は見ないほうがよいといわれていた。わたしを動揺させなくないし、何より息子の死体を人目に晒したくなかったようだ。けれどもわたしは伯母の気持ちを察しながらも、彼にわかれの告げさせて欲しいとわがままをとおした。
 これまでさまざまな死の風景を目にしてきた。数多の死の痕跡に触れてきた。体験をかさねる内、わたしは生前の面影をのこしている死者を見送れることの貴重さを思い知らされることになった。だからこそ、従兄の顔を見て従兄と認識できることに感謝しなければならなかった。

 携帯電話に特殊清掃の見積もりを依頼されたとき、わたしは病室のように質素な自室で缶ビールを片手にニュース番組をぼんやりとながめていた。おもな話題は積雪による事故が相次いでいることだった。凍結した路面は老若男女を問わず次々転ばせていた。中には病院に搬送されて、いまだ意識が回復していない老人もいた。
 注意喚起するアナウンサーの声を聞きながら、わたしは数年前の冬に現場付近で転倒した同僚を思いだした。彼は不運にも薄氷の張った泥水に尻餅を突き、清掃する前から泥だらけになってしまった。その格好があまりにも滑稽だったので、嘆き節を口にする彼を見ながら大笑いしたのを覚えている。
 当時を思い返したら上擦った声で電話に出てしまい、わたしはあわてて営業向きの語調でいいなおした。
 依頼主は伯母だった。いきなりわたしの名を呼ばれた瞬間は誰なのか見当も付かなくて眉間にしわを寄せた。けれども相手が伯母だとわかると懐かしい気持ちになって、ひさしぶりの会話に浮き立ちながら近況をたずねた。夫婦とも元気に暮らしていると知って安心する。しかし、彼女の口調はどこか控え目で本来の用事を切りだし兼ねているようだった。わたしは伯母の奇妙な雰囲気に首を捻り、さりげなくを違和感を指摘してみる。すると伯母から予想外の言葉が返ってきた。
 ――自殺したあの子の部屋を清掃して欲しい。
 わたしは空き缶を食卓に置いてTVの電源を消し、居住まいを正して携帯電話の受話口にふたたび耳をあてる。特殊清掃の依頼は夜に受けることもある。しかし、叔母に頼まれる展開はまったく予想していなかった。空き缶が倒れてカラカラとかわいた音を立てる。わたしは転がる空き缶を無視して経緯を語る伯母の話を聞き続けた。
 翌日、現場に向かって車を飛ばしているあいだ、わたしの頭には伯母の話が幾度もよぎった。従兄と最後に会ったのは小学生の頃だから二十年以上前になる。従兄は面倒見がよく、頼りになる兄のような存在だった。特に記憶に深く焼き付いているのは、わたしが顔にかかる枯れ葉をスズメバチと勘違いして失禁したときのことだ。彼は咄嗟の判断でわたしを公衆便所に連れていき、個室で待たせているあいだにズボンと下着を公園の水道水で洗い、両親に「小川で遊んでいたら転んで汚れたから着替えさせた」とごまかしてくれた。この機転にわたしは救われた。勘違いで失禁したことが厳格な父に知られたら拳による制裁を受けるのは明白だからだ。
 従兄に救われた数はあげれば切りがない。従兄が就職したのを境に疎遠になったが、わたしの胸中には常に従兄というヒーローがいた。大学卒業後に職が見付からなくて狼狽しているところ、父に「二十五歳までに職に就けなければ家を追いだすぞ」と責められたときも従兄の幻にはげまされた。そうして知人たちに相談を持ちかける内に、やがて特殊清掃業にたずさわる旧友の紹介で現在務めている特殊清掃専門会社に入社したのである。
 なかば自暴自棄になっていたのは認める。ゴミの絨毯がしかれた破滅的な部屋をゴキブリのように這いまわるのも、遺族の重苦しい視線を受けながら故人の遺品を整理するのも、遺族に対する大家の損害賠償請求に端を発する地獄絵図に巻き込まれるのも日常茶飯事だ。けれども慣れることはなく、ストレスによる円形脱毛症に悩まされた時期もある。現にこれまでに書いてきた退職届は七通を数える。それでも辞職しなかったのは、やかましい父に対する嫌悪のほうが大きかったからである。ある意味では父のおかげで路頭に迷わずに済んでいるのかも知れない。
 今まで胃痛に悩まされながらも特殊清掃業をこなしてきたし、これからも惰性で腐敗液を拭き取る日々が続くと予想していた。ところがわたしの予想は裏切られた。伯母からの依頼は、惰性に任せてきた特殊清掃を突如として特異な状況に変えてしまった。心の壁を壊されたわたしは新米に戻り、死体の痕跡を自分の手で清めるという生々しい現実に立ち向かわなければならなくなった。
 クソ。わたしは小声で吐き捨てる。クソめ、クソめ。苛立ちをあらわにしたところで誰に見られるわけでもないのに、何故か無人の助手席が気になり大声をだすことができなかった。
 見るからに家賃の安そうなこぢんまりとしたアパートの駐車場に車をとめると、外階段の側で待っている伯母が見えた。約束の時刻まで余裕がある。彼女もわたしの到着に気付いたようで、除雪し切れていない道路を慎重にわたって駐車場まで歩いてくる。伯母に会うのは数年前の元日以来だった。外見に特筆すべき変化はないものの、そこはかとなく生気が薄れているように見えた。それは加齢だけのせいではないのかも知れない。指摘するのは不粋なので、この場では「伯母さん、全然変わっていませんね」という無難な挨拶にとどめた。そうしたわたしの気持ちを見抜いたのか伯母は弱々しくほほ笑むと、あなたはとても立派になったわね、とどこか空虚な響きを帯びた口調で褒めた。心なしかやつれ気味で憔悴の色がうかがえる。独居生活を送る息子に自殺されたのだから虚脱状態におちいるのも無理はない。その魂を抜かれたような、はかなげな瞳には疲労と失望の念が込められていた。
 アパートの大家は四五十代の物腰おだやかな女性で、伯母を見るなりお悔やみの言葉をかける。人情味のある人と見受けられた。彼女の穏和な対応はわたしを安堵させた。大家は大切なアパートを事故物件にされた怒りを遺族にぶつけがちで、特殊清掃の前に仲裁に入ることもまれではない。
 案内された部屋の玄関ドアには複数のハエがたかっていた。わたしは防護服と専用のマスクを装着すると、重々しい鉄製の扉をゆっくりと開けはなった。数歩はなれていた大家と伯母が顔をしかめて後ずさる。室内からムワッと流れ出てくる空気には異常な臭気が含まれている。嗅ぎ慣れていない人はこの異臭に耐えられないので、わたしは二人を玄関前にのこしたまま慎重に入室する。嗅覚を研ぎ澄ませてみると、孤独死現場にしてはめずらしいほど臭気は弱かった。室内を飛びまわるハエは三十匹程度で、ベランダ付近の壁から畳にかけて付着している赤紫色の腐敗液も微量だった。
 いつの間にか背後に立っていた大家がポツリと「見付けたときはサッシが開いていたんです」と語りだした。大家のはなしによると、従兄はベランダに面したアルミサッシを開けはなち、吹き込んでくる雪にまみれた状態で発見されたという。死因は縊死。冷気が腐敗を遅らせたのだろう。壁に打ち付けられた釘の束が従兄の最期を物語っていた。
 間もなくわたしは清掃作業を始めた。従兄の腐敗液を掃除していたとき、失禁の後始末をしてもらった過去を思いだした。従兄が水道水で小便を洗い落としてくれたように、わたしは消毒液で腐敗液を洗い落としていた。馬鹿野郎、とわたしは無言で従兄をなじった。こんなきたない粘液になりやがって。わたしは目頭を熱くしたまま布巾で赤紫色の液体をこする。悪臭を立ちのぼらせる腐敗液に変わっても、その液体は従兄の血肉にほかならない。わたしは生前のすがたを思い浮かべながら懸命に拭き取った。
 掃除を終えると遺品整理も済ませた。遺書が落ちているのではないかと念入りにさがしたが、遺書どころかメモ用紙一枚見付からなかった。従兄は自殺の理由を瓶に詰めて大海原のかなたに投げ捨ててしまったのである。けれども遺族としては如何なる経緯があるにしても、生前の面影がうしなわれる前に再会できたことは大変な幸運と思わなければならない。雪の季節でも暖房器具が稼働していれば遺体はたちまち腐敗し、ハエやウジに食い荒らされて見るに堪えない状態になる。そうなると入棺する前に特殊なパウチに収納する必要が生じるし、柩の中に横たわる見知らぬ残骸に空虚なわかれを告げることになるのだ。
 わたしは孤独な死者の顔をおがみながら、小声で馬鹿野郎と声をかけた。そして小窓を閉めた。


※2015年脱稿・2016年改稿・改題

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