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3月日記|あなたという本はどんな本?

■石橋を叩いて割る彼女、今にも落ちそうなつり橋を走り抜けようとする私

3月某日。疲労感とともに目覚める。前日、気づいたら7cmヒールで1万歩近く歩いていた。パソコンや本が数冊が入った鈍器のようなかばんを持ち歩きながらの移動だったので、さすがに足首が悲鳴を上げている。

疲労のあまり寝るのが優先で、マッサージを怠ったのがいけなかった。まずは体を温め直さなくては。寝ぼけまなこで浴室に向かい、蛇口をひねってバスタブにお湯をためる。

上京する姉が今日から泊まりにくるというのに、家の中はひどく散らかっている。干しっぱなしの洗濯物、テーブルや床に散らばった本や書類、流しにたまった食器類、玄関に積みっぱなしのAmazonの段ボール箱たち。

ここしばらくめまぐるしかったという言い訳はあるにしても、このままではいつものごとく「あんたはもう…」と姉にあきれられるに違いない。

綺麗好きで几帳面な姉と真逆で、私は面倒くさがりで大雑把な性格だ。姉は石橋を叩いて叩いて割ってしまうほど慎重だが、私は今にも落っこちてしまいそうなつり橋でも「たぶん、行ける!」と根拠のない自信を持ってダッシュで渡ろうとする。

どこまでも綿密に計画を立てる姉と、計画性など皆無な私。姉妹なのにあまりにも違う。それでも仲は良く、ほぼ毎日LINEを交換し、年に1度は一緒に旅行に出かける。母娘や女友達とも違う「姉妹」という関係性を私はとても気に入っている。

■54歳の僕が得た知識で若いころの僕を助けている

バスタブには十分お湯がたまったらしい。入浴剤を入れたお湯の中に体を沈めると無条件に安心する。こわばった体がほどけて、疲労もお湯の中にとけていく。姉はそろそろ新幹線に乗っただろうか。目をつむり、首を左右にゆっくりと傾けながらふーっと息を長く吐き出す。

普段の生活で––たとえば、仕事において、あるいは大人になってから出会った人たちとの関係性において––自分が「妹」であり、3人兄妹の末っ子であることを私はどこか隠しているような気がする。見せる必要もないから見せていないのだが、なんだか秘密を抱えているような気持ちにもなる。

私は、父方・母方あわせて十人以上いるいとこ世代の中でも一番下なので、小波家の末っ子かつ父・母両家の末孫というポジション。親戚のなかではいくつになっても「ちびの季世」だ。そんなわけで、大人になった今でも「大人扱い」されることにどこか戸惑う自分もいる。

育った環境というのは深く人に影響を与えるものだと綾は年をとるごとに思う。

江國香織『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』

十代の頃に読んだこの小説の一文は、私のなかにくっきりと刻まれている。そして年をとるごとに悟る。この言葉は驚くほど真実だと。とくに家族構成と若い頃の体験はその人を形づくる根幹だ。

たとえば学生のころよく歩いた大学の裏の界隈を歩くと、今でも自分の将来に不安だったころの気持ちが甦ってくる。要するに三つ子の魂百までで、いろんな自分が積み重なっているだけだから、その到達点が特に特権的なわけではなくてむしろそれは一番薄い部分で、コアの部分っていうのは10代20代でできていると思います。

だから訳すときも54歳の僕が訳しているという感じはあまりしないですね。54歳の僕が得た知識で若いころの僕を助けている気はしますけど。根底に通っているものは何も変わっていないと思います。

柴田元幸『ぼくは翻訳についてこう考えています』
初出:「文藝」2009年春号

■困難は、分割せよ

「姉から及第点をもらうレベルまで部屋を片付ける大作戦」、まずは乾いた洗濯物の収納。なんだって最初は足元のことから片付けていくのがいい。お風呂上がりのあたたまった指先で衣類をたたみながら、心の中でとなえる。

「困難は、分割せよ」

高校の担任でもあり、数学教師でもあったF先生の言葉。私は今でも数字や数学が大の苦手で、高校時代は泣きながら数学の宿題をしたこともある。F先生はそんな私に辛抱強く付き合ってくださった。卒業以来、ほぼお会いしていないが、ことあるごとにF先生の言葉が頭に浮かぶ。

数学のセンター試験中、パニックになりそうになったとき。就活と卒論の両立に絶望を覚えたとき。仕事で無理難題に直面したとき。面倒な事務手続きが山積みなとき。今みたいに散らかり放題の部屋を片づけるとき。私はいつもとなえてきた。

「困難は、分割せよ」

その言葉をとなえる気持ちの余裕があるときは、大体なんとかなってきた。困難を分割するだけの気力も時間もなくなってしまったときには、もう手遅れ、ということもあった。最近はどうだろう。

■今週もよくぞよくぞ…

山積みだった洗濯物もどうにか片付いた。次なる敵は、散乱した本や書類たち。「出したら戻す」を徹底すれば部屋の秩序は気持ちよく保たれるのに、私はそういうことがどうも苦手だ。一気に広げて、一気に片付けたい。

書き物や調べ物をしているときも、思い出した本や関連する資料は並べておきたい。そんなわけで、パッと浮かんだアイデアのメモも、今月中に対応しなければいけない事務処理の通知書も、そこかしこに散らばっているのだった。

頭の中に情報の格納図はある。この本はあそこ、このメモはあっち、この書類は処分。おかげでこの作業はなんなく終わった。片付け大作戦も半分くらいは完了。あとは水回りと床のそうじ、ごみ捨て。

「今週もよくぞよくぞ金曜日までたどり着きました。本当におつかれさん!この番組は毎週およそ30分……」

毎週金曜に更新されるお気に入りのポッドキャスト番組『OVER THE SUN』を聴きながら、台所に立つ。パーソナリティーのジェーン・スーさんと堀井美香さんの軽快なおしゃべり。2人の会話を聞いているといつも元気が出る。

もちろん、時に深刻な、時にやるせない気持ちになるようなトピック––親との確執だとか、東京電力女性社員殺害事件の話だとか––も飛び出すのだが、そこも含めて勇気をもらう。ふざけてもいい。深刻に悩んでもいい。それでも私たちは生きていく。

■Half empty or half full?

ポッドキャストを聴いているうちに、食器洗いはあっという間に終わった。家を出なくてはいけない時間が近づいている。残る牙城の洗面台・お風呂・床のそうじ、ごみ捨てを攻略し、着替えと化粧、昼ごはんを済ませて外出するには、どうしたって時間が足りない。

「Half empty or half full?」
(半分「しか」ない?半分「も」ある?)

母語はもちろん、言語を学ぶことの一番の利点は、異なる見方を知ることだ。姉に及第点をもらうのは難しいかもしれないが、今日の私はよくやった。作戦の半分以上は遂行したのだから。あとは床そうじをやればいいことにしよう。

「Half empty or half full?」

「Half full!」

勢いよく声に出してみる。昔の私なら、迷わず「Half empty!!」と言っていたに違いない。

■その本を読ませて

人は、良くも悪くも変わる。残酷なまでに。他人だけではない。自分自身もだ。自分という本を読み返したとき、そこには今の自分なら絶対しないような選択、言わないようなセリフ、信じないような出来事があふれかえっている。

「何もかも想定の範囲内の人生だった。劇的なことは何も起きなかった」と思う人も、今一度、自分という本を読み直してほしい。もしくは、あなたという本を私に読ませてほしい。登場人物からストーリー、文体、セリフにいたるまで、何もかも私とは違うであろうその本を。

もしあなたの人生が私の人生と交差したものであるならば、あなたの本に出てくる私はどんな存在で、私の本に出てくるあなたはどんな存在だろう。お気に入りの本を交換して読むように、それぞれの人生という本を互いに読むことができたらいい。仮に、あまりにも違う双方のとらえ方に愕然とすることがあるとしても。

私という本には、姉が数えきれないほど登場する。姉という本にも私がたくさん登場するだろう。もちろん、互いの登場しない章も無数にあるはずだ(少なくとも姉の人生の初期においては、私はこの世界に存在してすらいなかった)。

自分も含め、誰かや何かのすべてを知ることは不可能だ。記憶されたもの、記されたもの、表現されたものはなんであれ、切り取られたものの解釈にすぎない。だからこそ私はいろんな本を、いろんな人生を読みたい。

あなたという本のページには、何が書かれているだろう。これからのページには何が刻まれるのだろう。

(終)



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