見出し画像

客観より主観、結果より過程を

大人になるほど、客観性を求められる。
物事を俯瞰して、主観は排除して、冷静な判断を。

だが、客観的になればなるほど、不幸になっていくのは、気のせいだろうか。

私が今まで生きてきた中で、最も幸福だったのはいつだったか。
幼少期である。
おままごとに、かくれんぼに、毎日無我夢中であった、客観性なんて欠片もなかった。

余談だが、世間でしばしば、大人びた子役が話題になることがある。大人顔負けの振る舞いで「子どもらしくない」などと叩かれることもあれば、それを見越して「子どもらしい」ふるまいを意識的にすることもあるようだ。
もちろん叩くのは論外だし、その子の人生に外野がとやかく言うべきでないが、個人的には、少しもったいないと感じてしまう。

子どもには、主観だけで生きてよい特権があると思うからである。
年を重ねれば否応なく他人に評価され、人目を意識せざるを得なくなるのだから、せめて幼いうちは、自分の感性だけで見る世界を、存分に味わったほうが良いに決まっている。
まあ、どちらにしろ他人に押し付けることではないのだけれど。

そして、現代社会において、「大人になること」は「俯瞰力が増すこと」と同義であると思う。思春期にメンタルが不安定になりやすいのは、強まった俯瞰力に適応できていないからだろう。周囲と比較して、つまり客観的に自身を見て、それまでの認識との乖離に苦しんでしまうのである。

ここで少し、話を逸らす。
よく意見が分かれる話題として、結果と過程、どちらがより大切か、というのがある。

私は、過程だと、断言する。

人は、結果の出ない努力は無意味だという。結果こそ全て、過程が評価されるのは学校だけで、社会に出たら誰も見ていない、なんていう。
わかりやすい例でいうと、受験勉強は、合格を勝ち取れなければ意味が無いらしい。良い大学を出て、良い会社に入り、実績を積まなければ、努力も無意味らしい。

逆に言えば、結果に意味があると、なぜそんな無邪気に信じられるのだろう。

前半に述べた通り、私たちの幸福は客観にはない。主観にある。
社会的評価で決められる「結果」に、幸せがあるわけないのである。

一方で、過程とは、主観そのものだ。
中でも最上なのは、夢中になって没頭することである。他人の評価を気にするわけもなく、自分の感性の赴くままに、過ごした時間である。
相対評価に揺らぐ結果なんかより、圧倒的に絶対的な幸せが、過程にはある。

だから、心からわくわくできるような目標に向かっている限りは、受験も就職も、結果がどうだろうと関係ない。というか、結果を気にしない人が気にする人よりも幸せなのは、当たり前である。


最後に、冒頭に話を戻そう。
幸せだった幼少期、私はごっこ遊びに夢中だった。
少し成長した、中高生の時も、生徒会や行事、部活に夢中だったが、それだって今思えば一種のごっこ遊びである。
だからといって、無我夢中で過ごした時間を馬鹿にすることがあるはずもない。むしろ、尊いひとときであったと思う。

ということは。

人生の最後には、人生そのものがごっこ遊びだったと、夢中で過ごして良かったと、思い返すのかもしれない。

そんな人生に、したいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?