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三木卓「世界」について —コインの表と裏—

         世界 三木卓

  学校群制度 発足
  秀才もつお母さん ふんぜん
  この日 ために日輪くらし
  密雲たれこめ
  劣等生もつお母さん ほっとし
  旭日高く輝く
  相手のこと たがいに雲散霧消
  ハノイ空爆で 青年たちが殺されたとき
  ベトナムのお母さん
  あなたはどうやって悲しみに堪えたろう
  昇進の便りをうけとった
  アメリカのお母さんは
  どう思ったか

  ぼくらの世界はこうなっている
  宇宙人 きみらはどうか
  

 この詩はまず、「自分の幸せは他人の不幸の上に成り立っている」という真理を題材としている。その上で、この「真理」をさらに展開させ、「人間は、自分が幸せな時に、その自分の幸福を成立させている誰かの不幸を悲しむことはない。また反対に、自分が不幸な時に、自分が不幸であることによって成り立たせている誰かの幸福について、喜ぶことはできない」という主張を繰り広げている。この主張が、この詩のテーマである。この詩は、このテーマについて、二つの具体例を通して説明している。その具体例について、順番に見ていこう。
 一つ目の具体例は、「学校群制度」にまつわるものだ。
 「学校群制度」とは、公立高等学校の総合選抜制の一種であり、2〜3校が一つの群を構成し、群ごとに合格者が選抜される制度のことだ。この制度は、高校進学希望者の増加に伴い、特定校へ志望者が集中するとともに、高校間の学力の格差が助長されるような状況に対する改善策として試みられた。1967年度(昭和42年)にまず東京都に導入され、その後、三重、岐阜、愛知、千葉の各県でも実施された。しかし、群間の学力格差が依然として存在し、また生徒の希望が考慮されないために、入学辞退者の増加や公立高校の地位の低下を招くという問題があった。このため、千葉県や東京都ではやがて廃止された。
(参考にしたサイト:https://kotobank.jp/word/学校群制度-825293
 この「学校群制度」について一言で纏めると、「どれだけ勉強を頑張っても、受験生にとって、自分が行きたい学校に行けるかは運次第である」という制度なのである。(参考にしたサイト:https://jpgaruda.com/the-effect-of-school-grouping-system/)。つまり、秀才にとっては不利な制度であり、劣等生にとっては有利な制度ということだ。ここで、作品前半を見てみよう。

  学校群制度 発足
  秀才もつお母さん ふんぜん
  この日 ために日輪くらし
  密雲たれこめ
  劣等生もつお母さん ほっとし
  旭日高く輝く
  相手のこと たがいに雲散霧消

 「ふんぜん」は「憤然」であり、急に激しく怒るさまを意味する。「密雲」は厚く重なった雲のことだ。「旭日」とは縁起物の旭日旗のことを指す。これらを踏まえると、この前半の内容は以下のようなものになる。
 学校群制度が発足して、秀才の生徒には不利な、劣等生には有利な受験の結果となった。秀才の子供を持つ母親は憤った。その日はそのために太陽は掻き曇り、空は厚い雲で覆われた。しかし、一方で、劣等生の子供を持つ母親はほっとしていて、劣等生の家では旭日旗が高く掲げられた。秀才の母親と劣等生の母親は、「相手のこと たがいに雲散霧消」であった。
 ここで、「相手のこと たがいに雲散霧消」というのは、具体的にはどういうことなのか考えたい。もちろん、文字通り取れば、秀才の母親は劣等生の母親のことを、劣等生の母親は秀才の母親のことを、それぞれ忘れていた、ということだろう。しかし、私は、これはただ相手の存在が頭になかった、という意味ではないと思う。私は、さらに踏み込んで、憤っている秀才の母親は、劣等生の母親の喜びを喜んであげることができず、ほっとしている劣等生の母親は、秀才の母親の悲しみを悲しんであげることができない、という意味だと解釈したい。
 さて、ここで、二つ目の具体例について見てみよう。

  ハノイ空爆で 青年たちが殺されたとき
  ベトナムのお母さん
  あなたはどうやって悲しみに堪えたろう
  昇進の便りをうけとった
  アメリカのお母さんは
  どう思ったか

 「ハノイ空爆」とは、ベトナム戦争(1960〜1975)で、アメリカがベトナムのハノイに落とした空爆のことである。作中の、殺された青年とは、だからベトナムの青年を指す。その殺された青年の母親に、語り手は、「あなたはどうやって悲しみに堪えたろう」と呼びかけている。反対に、空爆を落とした勲功によって、アメリカの青年は昇進した。語り手は、その「殺した側」の母親についても、息子の昇進の便りを受け取った際にはどう思ったのだろうと、考えている。二人の母親がそれぞれどう思ったか、その答えは次の連で明かされている。

  ぼくらの世界はこうなっている
  宇宙人 きみらはどうか

 ここでは、「ぼくらの世界はこうなっている」、と第一連の内容について纏められている。そのため、ハノイ空爆の例が、学校群制度の例と同じ意味を持つものとして提示されていることが分かる。つまり、ベトナムの母親も、アメリカの母親も、「相手のこと」は「たがいに雲散霧消」だったわけだ。だから、この詩は、「自分の幸せは他人の不幸の上に成り立っている」という現象を題材としながらも、その上で、幸福な人物と不幸な人物の頭の中では、それぞれ、「相手のこと」は「たがいに雲散霧消」している、という事実を、この世の真理として発見している作品であると言える。
 この「相手のこと たがいに雲散霧消」という事実について、私は、先ほども述べたように、相手の喜びを喜ぶことができない、あるいは相手の悲しみを悲しむことができない、という意味であると取りたい。なぜなら、例えば、スポーツで相手と対戦して、勝った人物は、負けた人物の気持ちになって悲しむことはないし、また、負けた人物は、勝った人物の気持ちになって喜ぶことはないからだ。この時、互いに相手の存在を完全に忘れているわけではないと思う。だから、「相手のこと たがいに雲散霧消」とは、必ずしも、相手の存在を忘れている、という意味ではない。自分の抱える感情にかかりきりになってしまい、相手の立場を考えられない、という意味であろう。
 さて、最後の行には、

  宇宙人 きみらはどうか

 とある。この突然の「宇宙人」への呼びかけについては、宇宙人は実際にはまだ発見されていないので、単なるユーモアであると考えられる。作者はおそらく、ユーモラスなオチを付けたかったのだろう。
 以上より、この詩は、自己の幸福と他者の不幸をコインの裏表のような存在として捉え、自己も他者も、それぞれ相手の感情を感じることはできない、と述べている。この主張は、我々の住む「世界」の一面を、見事に切り取っていると言えよう。



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