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『周易』2

前回に引き続き『周易』を読んでいます。

「象」にいう、天行は健である。君子は励みつとめ休むことがない。

「潜める龍、動いてはいけない。」とは陽の気が下にあるからである。
「現れた龍」とは徳の施しがあまねく至っているからだ。
「終日はげみ」とは道を反復するのである。
「飛びあがろうとして淵にある。」とは進んでも「咎がない」のである。
「飛んでいる龍」とは「大人」の造為である。
「上り詰めた龍、悔いがある。」とはみたせばひさしくはないのである。
「用九」は天の徳は頭となってはならないのである。

「文言傳」にいう
「元」善の長である。「亨」は嘉の会である。
「利」は正しいことの和合の姿である。
「貞」は事の幹である。
君子は仁を体現すれば人の長であるのに十分である。
良いことが会すれば礼をあわせるのに十分である。
ものを利すれば正しいことを和するのに十分である。
固くあればことを正すのに十分である。
故に乾は「元、亨、利、貞」であるという。

初九にいう、「潜める龍、動いてはいけない。」
とはどういうことか、孔子が言う、
「龍は徳あって隠れるものである。世の中に合わせず、
名声に左右されない。世を逃れて煩悶せず、顧みられなくてももだえない。
楽しめばおこない、うれえれば退く。確乎として動かすことができないのは、
潜む龍だけである。」と。

九二にいう、「現れた龍、有徳者に謁見するのがよい。」
とはどういうことか、
孔子が言う、「龍の徳があって、正中のものである。
中庸の言の信あるもの、中庸の行いの慎みあるもの、
邪を防ぎ、その誠を保つ、世を治め誇ることがない、
徳が博く教化する。『易』にいう「現れた龍、有徳者に謁見するのがよい。」
とは君主の徳である。」と。

九三にいう、「君子は終日はげみ、夕べになってもおそれる、」
とはどう言うことか、孔子が言う、「君子は徳行に進み、
事業を修める。忠信は徳行に進む所以であり、
辞を修めその誠を立てるのは「しごと」に居る所以である。
「良い」状態を知った上で、「良い」状態にいたるので、
共に仕事ができる。終始顛末を分かった上でこれを顛末させるので、
すじみちを保つことができる。だから上位にいて驕らず、
下位にあって憂えない。なのでつとめはげむ。恐るべき時に恐る。
危ういけれど咎がない。」と。

九四にいう、「飛びあがろうとして淵にある。とがはない。」
とはどう言うことか、孔子が言う「上下に常がない。しかし邪ではない。
進退につねがない。しかし自分勝手ではない。(こういうときに)
君子は徳にすすみ、業をおさめて、時機に及ぼうとするのである。
だからとがはない。」と。

九五にいう、「飛んでいる龍、有徳者に謁見するのがよい。」
とはどういうことか、孔子が言う「同じ音は応じあい、
同じ気は求めあう。水は湿ったとところにながれ、
火は乾いたものにつき、雲は竜に従い、風は虎にしたがう。
(だから)聖人がいでて、万物はみな仰ぎみるのである。
天に基づくものは上に親しみ、地に基づくものは下に親しむ。
すなわち、各々そのたぐいに従うのである。」と。

上九にいう、「上り詰めた龍、悔いがある。」とはどういうことか、
孔子が言う、「貴くして位がなく、高くして民がなく
賢人が下にいて助けがない。だから動けば悔いがあるのである。」と。

(原文)

(c) Kanseki Repository. 作成されたコンテンツは CC BY SA のライセンスで提供する。(※原文を日本語訳)

(以下参考)

(c) Kanseki Repository. 作成されたコンテンツは CC BY SA のライセンスで提供する。

参考URL


参考文献

『易経(上)』 高田眞司 後藤基巳 岩波書店 (東京)
1969第1刷 1999 第43刷 


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