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『スキーインストラクター(✕)でなくって 〝インチキ〟ラクター(〇)編②』

 大学2年冬、年も明けると、朴ノ木平のスクールの校長の言葉をうのみにしていた俺は、もう雪山に行きたくて行きたくて、行けばスキー三昧の日々が送れる。頭の中はそればかりとなり、本分である学校の試験なぞは適当に、しまいには学年末の試験も幾つかすっぽかして、1月の半ば過ぎには山に向かってしまっていました。1度、単発で菅平のスクールへ行き、修学旅行で初心者学生へのコーチを何とかこなし、その足でそのまま岐阜朴ノ木平スキー場へ行くこととなる。
 朴ノ木平スキー場は、飛騨高山より車30分くらい山を登ったところにあった。なかなかの豪雪地帯で、雪質もかなり良いスキー場なのですが、当時まだ初級者に毛が生えた程度のスキーレベルの俺は、それがスキーヤーにとってどれだけ恵まれた良い環境だということなどつゆ知らず、ただただ雪一面の世界に身を置けるということだけに、ワクワクしていた。
 そこでの生活はというと、まず寝泊りはスキー場からちょっと下った場所にある民宿の屋根裏部屋を使っていた。まっすぐ立つと頭がぶつかるくらいの場所が一番天井が高い場所、ここが部屋の中心で、端に向けて屋根の傾斜の通り天井が低くなったいく造りの部屋・・・部屋?(笑)そこで常駐のスタッフは共同生活をしていた。広さ的には12畳くらいだっんじゃないかな、布団+自分の荷物広げられるスペースはあった。ただし先に述べたような天井なので、天井高いほうに頭、低いほうに足元というように布団を敷くこととなる。また、屋根裏なの柱や梁がむき出しで、それをまたいで自分のスペースまで移動する。その梁がいい境界線を作っていて、うまい具合にパーソナルスペースをつくっていたかな。そこに校長ともう一人の地元組以外のインストラクターが俺を含めて常時4人、その他入れ替わりで2~3人の増員があることもあった。基本的に営業時間前からナイター営業終わるまではスキー場にいるので、この部屋は寝泊りするのと宿の風呂を使わせてもらうだけの部屋ということ。たまに、スタッフ同士の部屋呑み酒盛りともなったし、俺的には何の問題もなく、楽しい生活環境でした。まあ、そう思える人だけがそこで生活できたのだと思う。そういった環境に慣れなかったスタッフは早々に山を下りて行ったからね。
 朝7時起床とかだったかな、朝食は宿屋の1階にある食堂で食べさせてもらえて、食べ終わるころに通いできている地元スタッフが車で迎えに来てくれた。それに乗って4‐5分ほど山を登ってスキー場へ。スクールの受付業務が9時からで、実際のレッスンは午前が10時からの2時間、午後が13時半~2時間とかだったかな。マンツーマンレッスンとレベルが同じくらいの人同士のグループレッスンがあった。料金は忘れちゃったな、多分グループレッスンで1人¥4000~¥5000くらいだったと思う。マンツーマンだともっと高かったんじゃないかな。基本常駐のインストラクターは校長含めて6人、受講者のレベルによって仕事は振り分けられた。スキーブーム真っただ中の時代とは言え、そこまでメジャーでも無いスキー場の平日は、全員に仕事があることはまれだった。さらに俺はまだまだ、フリーで申し込んで来る受講者に教えられるほどでは無かったので、大概は9時からレッスン始まるまでの1時間と12時頃から午後のレッスンが始まるまでの間の受付業務や、事前予約をしている受講者の案内や、道具レンタルのアテンドやらが通常業務だった。
 ちなみにバイト代は1レッスン2時間で¥2500、午前午後2レッスンすると¥5000って感じだったかな。そんなわけで、見習いの俺は通常は仕事がないので、インストラクター業務の収入は無し。さらに、ここでのバイト生活のヤバい⁉カラクリがあって、先ほど朝食が出たって話しましたが、その他、夕方に昼食と夕飯を兼ねた食事の計2食分の1日の食費と寮(屋根裏部屋)の使用料を合わせて、1日¥2000が給料から相殺されるとの事。つまり、黙ってても毎日¥2000のマイナス。今思えば、なかなかの労働条件だよね、一歩間違えれば〝カイジ〟の世界(笑)。とは言え、基本的に一般レッスンの仕事は回ってきませんでしたが、たまに高校生の修学旅行やらスキー教室やらの仕事があって、スキー触るのすら初めてっていうような超初心者のグループのレッスンなどは任せてもらえた。それがあると午前午後の2レッスンx3日とかの収入となった。それでも、最終的に徴収される分と相殺できるか否かギリギリといったところ。このままでは下手したら金銭的にはマイナスかも?といった感じでしたが、そこはうまい具合に救済措置⁉がありましたね。それがナイターのリフト番仕事、リフトの乗り場や上にある降り場で、乗り降りするスキーヤーの安全確認の番をする仕事。慣れてない人が座るタイミング外しちゃって転んだらリフト止めたり、雪降っているとき座面の雪払いなどする、あの仕事。17時~21時か22時までだったかな?これをやると1日3000円貰えた。これは、オレの他ヒラのインストラクター3人の通常業務的なものになっていたな。その他に、これは俺だけだったんだけど、たまたまある週末にスクールの受付が入っているロッジの1Fのレストランで、人手が足りなくて校長に相談があった。で「ムサシが手が空いてるから行かせます」的な話となり「時給はずむから」なんて乗せられて、厨房にヘルプで入ったことがあった。食堂やら吉野家のバイト経験が活かされて、初めての場所でもそつなくこなしちゃったんですわ。そうしたら、料理長にたいそう気に入られたようで、その後毎週末の土日のランチタイムは、そちらに呼ばれて、スクールとは別でバイトすることとなりました。もう、インストラクターのバイトというよりも、スキー場でいろんな仕事してたわけでした。そんなわけで一歩間違えればブラック臭漂うような条件下の、雪山での生活でも、金銭面でマイナスになることもなく過ごせました。
 なにより、そもそもスキーが上手くなりたくてスクールに潜り込んだわけですからマイナスにならなければ御の字。そして滑る時間は存分にあって、レッスンのない大概の平日の昼中、朝8時~16時半ころまでのうち、スクール受付時間以外は『自由に滑っていてよい。むしろ上手くなって通常レッスンできるように精進しなさい』と滑り放題の状況でした。
 スクールにいるのだから、他のスタッフに教えてもらえ放題で上手くなったんでしょ?と思うかもしれませんが、そんな甘くはなかったな。初めのころは、好きに滑っていていいよとの事で、他のインストラクターは仕事あって、ひとりで自分なりに考えて滑っていました。そんなある日、校長がおれが滑っているところに来て「ムサシ、これからレッスンの時以外は、ワシがいいっていうまでジャンプターンだけで滑ってな」と課題を出された。ジャンプターンというのは斜面の上下のラインに対して横向きに板を揃え、体を斜面下方に向けてひねりストックを突き、ジャンプして跳ね上がる。そうするとストックを中心にスキー板が下方に反転する、そうしたら今とは逆の手のストックで下方についてジャンプ、反転してはじめと同じ向きになる。という単調な動作の繰り返しをしながら、下まで降りてを繰り返しなさいと。レッスンと言うほどでもない事でしたが、初めてまともに教えてもらえたこと。真面目にこなしてはいましたが、しばらくして、さすがに毎日ずっとこれっていうのに飽きてきて、しれっと普通に滑っていたりしたら、校長がどこからともなく現れて「ほ~、いっぱしに滑り寄るんか」なんて笑いながら追い抜かされたり。ある日、真面目にジャンプターンしていて、途中で大コケしたときもどこからか見ていたようで、スクール受付に戻ったら「派手にころんどったのう」と、常にチェックされていたりもした。そんなことをひと月くらいかな、繰り返していたら、はじめは結構きつかったジャンプターンの繰り返しも軽くこなせるようになっていた。そんなころに校長が「俺の後、同じラインでついてきな」そう言って、所謂ウェーデルンと言われる滑りで先に行った。しばらくまともな滑りをしていなかったので慌ててついて行ってみると「っん?いける?あれっ???」と、なんと思っている以上にスムーズに上級クラスの滑りができるようになっていた。下で待っていた校長のところまで行くと「どうや?滑れたろ」とニヤニヤ顔で言ってきた。要は、ジャンプターンの繰り返しで、知らぬ間にスキーで必要な力の抜重、体幹、板の角付けなどを体に感覚で刷り込まれていたという訳。
 まあ「ムサシにあれこれ理論で教えても、わからんだろうから体で分かってもろた。言ったこと真面目にやってたからできるようになったんよぉ。ちゃんとやっとらんかったら知らんかったけど」って。なんだかんだ体育会系で「上が右と言えば、全部右」の精神が功を奏したわけ。その後は、自由に滑って良しとなり、細かい課題もちょいちょい足されながらも、シーズン終えて山を下りるころにはそれなりのインストラクターとなっていた。ちなみにここのスクールは1級2級などのバッジテストで知られているSAJ(公益財団法人全日本スキー連盟)所属では無くて、SIA(公益社団法人日本プロスキー教師協会)といわれる協会所属だったので、翌年のテストではシルバーと言われるクラスのバッジまでは貰うことはできた。
 インストラクターとしての仕事は、高校生の修学旅行やスキー教室がシーズン中に何度かあったので、その時に、まだシューズも履いたことすらないようなずぶの初心者グループを受け持ち、3日間とかでボーゲンという初級者の滑りができるようにまでする。っていうのがほとんど。雪上が楽しい、より高いところまで行って、滑り降りれるようになると、見渡せる景色が変わって、別世界の楽しさや感動があるんだよ。ってことを解ってもらえて、スキーに興味を持ってもらえるようにする。って感じだったかな。学校の行事で仕方なく興味の無い山に登らされて、つまらないままで帰ることになったらかわいそうじゃない。ってね。九州の学校の子で「せんせ~い!! 止まらん、ばってん、止まらん、ばってん、ど~~したらよかと~~~」って言いながら、どんどん滑って行ってしまい、他の生徒残して助けに行き、その暴走しちゃった生徒とスキー板担ぎながら、そこまで登り歩いて戻ったのなんか、いい思い出だな。彼の声、いまだに耳に残ってるもんな。
 そんな感じで楽しく過ごせた雪山でのインチキインストラクターバイトは
大学2年~4年の3シーズン、それぞれ1月半ば~2月いっぱいとか3月初めくらいの2か月間くらいやっていました。
 そして、このスクールで知り合ったインストラクターの「Hゆき」や「Mっか」「Iケ」達とは、その数年後『モーグル』というフリースタイルスキーにのめりこむこととなり『HotDogs』というモーグルスキーのチームをつくることとなる。当時のモーグル界隈は、まだまだ狭い世界だったので、チーム作って大人数で滑っていると、同じようにモーグルやっているメンツとはすぐに打ち解けて一緒になって滑ることがよくあった。そんな中に、のちにオリンピックの正式種目になって代表選手になり、金メダル取った「大きなコサック」の某女子選手や、そのころはまだ小学生や幼稚園生くらいで、その後スノーボードに転向してオリンピック代表になった某兄妹もいた。ってことは自慢話として記載しとこうかな。
 そんなモーグルチームのメンツとは、30年以上過ぎた現在でも連絡取り合って遊ぶ仲が続いているんだよね。そこから広がる知人もいまだに増殖中。人の縁の面白さだね、有難い。

そんなわけで、この話はこの辺で。
次回からは
『お歳暮 から おせち用食材 などなど 年の瀬仕事は魚介の発送』
お楽しみに!!

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