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感想 映画/小説『天気の子』

これは–––僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語

 公開初日と今日の2回、映画『天気の子』を見終えて、2回目を見る前に小説版『天気の子』も読了したので、少し感想を綴ろうと思います。本編の内容にも触れるので、ネタバレはご容赦ください。





 映像の美しさと音楽の良さは、圧巻の一言に尽きます。「天気」という壮大なものが話の中心にあるだけに、細かい雨水と晴れ間の描写、そこに絡むBGMが本当に美しかったです。

 新海誠監督の作品は『ほしのこえ』から『君の名は。』まで、全て映画で見たり小説で読んだりしていますが、その中でも今回の『天気の子』は、自分の中で特別好きになった作品となりました。どうしても比べてみてしまう前作『君の名は。』とは、違ったベクトルのテーマが、僕の心に突き刺さりました。

 今回の作品は、一段と「大人」と「子供」という立場に焦点が当てられていました。家出をする帆高、母親を亡くしている陽菜と凪、就活に苦しむ夏美、妻を亡くして子供と暮らしたい須賀、各々が抱えている、子供達と大人達の悩みが描かれていました。
 大人だから立ち止まってしまうことを、子供だから駆け抜けられることが、本当に羨ましくなる時も沢山ある。劇中での彼らのやりとりを見ながら、そんなことを考えていました。

 作中では須賀が「人間歳を取ると、大事なものの順番を入れ替えられなくなる」と言っていました。
 帆高が陽菜を救うために行動を起こせたのは、まだ子供で、常識なんて放っておいて、大事なものの順番なんていつでも入れ替えれるから、陽菜を一番に考えられたのだと思います。
 一方の須賀は、警察から逃げて陽菜へ会いに行こうとする帆高を引き止めます。彼は大人だから、子供の間違っている行動を正そうと、必死に食い下がります。帆高に語りかける須賀の瞳が、ずっと虚ろに揺れているシーンがとても印象的で、彼は仕方なく大人になってしまったんだろうな、と考えさせられる描写でした。
 ストーリーの終盤までの間、この二人が似ているように描かれていたからこそ、最終的に須賀が帆高を陽菜の元へ向かわせるシーンに至った瞬間、感動を覚えずにはいられませんでした。

 また、主人公たちしか知らない秘密のために、周りの大人たちと戦うという描写は、『君の名は。』の隕石衝突の際にも細かく描かれていました。
 自分にしか見えていない世界を他人に伝えるのは、本当に難しいことだと思います。何かを相手に伝えたくて、言葉だけで証明出来なくて、結局理解されない。それが自分の中でもどかしくて悔しくてたまらなくて。特に、大人は子供の言うことだから、と一蹴するような状況も多々あるんじゃないかと思います。
 大人という理不尽さに抗う子供たちと、子供に理不尽を突きつけなければならない大人たちの描写の上手さも、『天気の子』の魅力だと感じました。
 小説版『天気の子』では、須賀や夏美の視点からの心情が細かく見られるので、より一層、映画での彼らのシーンが際立っていました。

 大人と子供、という話の軸以外にもう一つ、この物語が自分に刺さった理由があります。

 新海監督は、「批判されるようなものを作った」と仰られていましたが、まさにその通りだと思いました。
 『君の名は。』のような、糸守も三葉も両方救えて、誰もがハッピーエンドになるストーリーとは異なりました。勿論、全てが幸せに進むのではなく、瀧も三葉も乗り越える辛くて苦しい状況があったからこそ、最後のハッピーエンドが嬉しく思えましたし、それこそが『君の名は。』の一つの魅力だと考えています。

 しかし、『天気の子』はそうではありませんでした。『君の名は。』が三葉と世界、両方を救う物語ならば、『天気の子』は陽菜か世界、どちらかを選ぶ物語として作られています。

 帆高が陽菜を助けに向かう過程で、沢山のものを犠牲にしていました。家出で行方を捜索される、警察から逃げ出す、線路上を走る、拳銃を撃つなど、物語が進む毎に、かなり過激な罪を重ねていきます。しかし、大人たちに拳銃を突きつけながら帆高が涙を流すシーンは、思わず息を呑みました。

“それでもあの日の 君が今もまだ 僕の全正義の ど真ん中にいる”
(RADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』より)

 主題歌であるこの歌詞には、帆高の全てが込められていると思いました。
 自分の未来を捨ててでも、これからの世界が狂ってしまっても、今たった一人の女の子に逢いに行きたい。
 『天気の子』は、僕が大好きな究極的なボーイミーツガールでした。これがこの作品を好きになった最大の理由です。おそらく人によっては賛否両論になるのでは、と考えていますが、身勝手で我儘で、自己中心的なハッピーエンドだからこそ、新海監督が選んだこのエンディングがとても気に入りました。

 帆高にとっての「世界」は、雨が降り続ける地元の島や東京でもなく、沢山の大人たちが阻む常識や当たり前でもなく、陽菜そのものだったのかもしれません。小説版『天気の子』の解説を、RADWIMPSの野田洋次郎さんが執筆されていたのですが、同様のことを仰られていました。
 誰にだって色んな「世界」が在って、その為に生きています。時に折れそうだったり、立ち上がれなかったり、他の「世界」に邪魔されたりして、その自分の大切な「世界」を投げ出してしまいたくなることもあると思います。
 それでも、隣で誰かが「大丈夫」と言ってくれること、自分を認めて受け入れてくれること、「世界」にはそれだけあれば十分なんだと、『天気の子』のラストシーンに教えられた気がしました。

 何度も繰り返して見て、何年後かにこの作品の意味をまた思い出せるような、自分にとって大切な作品となりました。
 気が早いですが、また異なる視点から生み出されるかもしれない新海監督の新しい作品を、楽しみに待ち望もうと思います。

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