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けっこう落ちてる日記

 おれ定期的にメンタルが落ちるというか、こんな生ぬるい生き方させてもらってんのにそれでも仕事に通うことに耐えられなくなったりして2日連続で休みもらったりするんだけど。なんか、不定期に、ある一定のスパンでこんなふうに落ちる理由みたいなものがわかった気がする。

 社会のことを、いま生きている過去から連なる時代のことを知りたいと思う欲求と好奇心と、それを学ぶことによって自分がちょっとだけ人間的に成長できているかもしれないという高揚感。そこから自分に対する肯定感にも繋がっていて、それはいいことだと思っていた。いや、いまもべつにその行為如何は構わないと思うんだけど。

 娯楽というものを徹底的に嫌悪してきた。アクション映画なんて見るのは稀だし、伏線回収や気分がスッキリするような小説にはまるで興味がない。それは私の気質・性格でもあるし、そんなことに時間を割くのであれば、なにかもっと社会のこと自分の内面のことを考える時間に充てたいと考えるのが常で。
 だけど、ここまで聞いていたら気付いている人は気付いているのかもしれないけど、これ、結構メンタル削られてるんだよな。社会のこと、自分のことを掘り下げる行為って。
 むかし付き合いのあった友人の何人かが、こんなことを言ってて、「休みの日くらい、なにも考えたくない」「プライベートの時間くらい、現実なんて見たくない」って。
 それを聞いていた当時は、「まあ、そう思うのもわからなくはないなあ」「だけどその結果が、現在の、目を逸らしたくなるような現実を生んでるんだよ」と内心で思ったりしてた。

 やっぱ社会の暗部って、向き合いはじめはきっと、それはもう目を覆い耳を塞ぎたくなることだらけだし、自分が「正しく」生きたいと思えば思うほど、この現状の社会状況下では、まったく相容れない「異物」と言っていい存在になる。それはたとえ、「自分が正しいと思うこと」「答えはないが、その結論は違うんじゃないか」という意思を、公にはせず、内面の心の中でのつぶやきであったとしても、いや、であるからこそ、私の内面世界はどす黒く荒廃し、捌け口がないゆえに、わだかまり、意識が濁っていく。
 たしかに知ることそのものが好きだから、知ることをやめられないから、というのは理由のひとつではあるけど、そのせいで、生活(つまり仕事)にまで影響を及ぼしてしまっている側面があるのではないだろうか、と今日になってふと考えに至った。
 一人で抱えるにはあまりに重い。共有する相手もいない。捌け口といえば、こうしたブログになるのだけど、これを書くことだって、相当にエネルギーがいる。
「書くことは治療になる」みたいな言説が、ここ数年ちらほら耳に入ってくるが、もちろんそうした側面があることは知っているけど、書くことに至ってしまったという事実だけで見ると、それはもう、結構な限界に近い満身創痍の状態であることが多い。いわば、応急処置、対処療法であって、根治のための作業ではない。
 昨日の夜と、今日の夜、実家なので声を殺して泣いた。
 生活に娯楽を適度に摂取することは、みんななりの賢い生存戦略だったんだな。私は、全フリしすぎるきらいがある。そして壊れる。仕事を休む。それもこれも、休み易い環境にあるからなのだけど。
 とはいえ、そうして社会問題云々と言う傍ら、ちんぽこはしごいている。だけどそれでは娯楽を常時摂取している人たちのような効能は得られないようだ。
 今更、内心で小馬鹿にしていた人々の楽しむ娯楽を摂取して、本心から楽しむことなどできない。それが憩いになるとも思えない。それでも私には、なにかそうしたエンタメのようなものを楽しめる余裕こそ、メンタルの安定に欠かせないのではないか、とも思う。

 自分と同じくらいの、できれば自分より少し博識な人と語らう場や相手がいたら、また違うのだろうなとおもう。
 しかしそんな同志はどこにいるのか、いたとしても出会うすべを知らない。

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