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他責思考でもいいんやで

はじめに

自責思考の人っていると思います
そしてネット上ではほぼ自責思考の言説、社会は変わらないから自分でなんとかするしかない、という考え方が社会通念上一般的な正義として語られることが多いと思います
しかし、これってあまりにも窮屈ではないでしょうか?

自分は他責思考でこれまでやってきてそれなりの地位を築いているので、なんでもかんでも自責にする人はすごく嫌いです
極論、全部アベのせいとか言ってる人の方がよっぽど人間味があって親近感すら覚えます

まあ、全部アベガーの人たちは他責云々というよりは、ややこしすぎて別のところで蔑視されてる節がありますが、全体としてやはり他責思考の人間は蔑視される印象を受けます

自責思考が賛美されがちな世の中ですが、僕はその中であえて逆の意見を言いましょう

他責思考でいいんやで



みんな誰かに甘えて生きている

そもそも、社会というのは元をただせば助け合いで成り立っています
全てが自分の責任というのであれば、今日食べているごはんも誰の助けも借りずに自分のチカラで手に入れなければ筋が通らないでしょう
自責思考というのは突き詰めれば自給自足生活に行きつきます


自責思考の究極系は自給自足生活

ですので、自責という言葉に説得力を持って発言できる人間は自給自足生活が出来ている人ということになります
しかし、どうでしょうか?
自責発言をする人間というのは決まって意識の高い人間、とりわけ社会で競争する勢力です

スポーツなどの全員が自由意志で行う競争での勝ち負けは自責と言ってもよいでしょうが、世の中における格差競争は全員が自由意志で競争に参加しているとは限りません
いえ、たった一部の勝者を除いて、ほとんど全員が強制的に参加させられているものです

さて、社会は元々助け合いで成り立つものであり、依存こそが本質であります

自責論者は社会の競争に勝ったものが社会のリソースの恩恵を多く受ける(甘い汁を吸う)ことができ、敗者はぞんざいな目に遭って然るべきだと考えているきらいがあります
しかし、この考えはどこか破綻している部分はないでしょうか

そうです
勝者になればなるほど、社会のリソースを多くもらえて当然だと考えているということは、社会により依存しているということになります

どちらかというと、自責を語るのであれば、社会から独立、つまり自給自足していなければなりません

社会に依存しまくりの自責論者はそもそものスタンスから自己矛盾しているのです
かっこ悪いですね
自責とは畑で野菜を耕しながらいう言葉なのです
まかり間違っても、誰かが建ててくれた立派な建物の中で踏ん反り返りながらしゃべる言葉ではないのです


他人に迷惑をかけても問題ないラインがある

一線を越えるという言葉があると思いますが、意外と一線を越えるラインというものは踏み出せばどんどんと下がっていくものです

これは締め切りに追われる作家を想像してもらうと分かりやすいでしょう
最初に提示された締め切りと、本当に超えてはいけないデッドラインというのがあります

世の中の大半は最初に提示されている締め切りであり、実は超えても大丈夫な一線だったりします
ただこの一線というのは相手によって基準が全く違うので、その見分け方はその時の空気感でしか判断できません

超絶甘々でなんでも許すタイプの人間もいれば、過失などの条件付きで許すタイプの人もいれば、一切の妥協を許さないタイプもいます

一切の妥協を許さないタイプは他人に厳しいタイプということができるでしょう
それでいて自分に甘い人間が多いです
個人的に一番嫌いなタイプです

自分は超絶甘々でなんでも許すタイプですが、一切の妥協を許さないタイプに対してだけは一切の妥協なく許さないです
他人に厳しく自分に甘い人間は一匹残らず駆逐したいなと思っていますが、世の中そんな徳の概念が全くない人間だけではなく、徳を積める立派な人格者もいっぱいいます

困ったときはお互い様というタイプですね

だから、人に迷惑をかけても大丈夫なのです

社会の中で生きるということは依存し、依存されることであるので、約束を破られるなどの不義理に対して、どう反応するか、受け手の反応こそが社会に依存している者の責任となります
不義理に対して嫌だと思うのであれば、自分が社会からパージして社会人を辞めるか、他人に依存する社会人としてその不義理を受け入れるかのどちらかが社会人として生きるものの責任です
このどちらかを選ぶことができるものが自分でその責任を取れる人間ということができるでしょう

この不義理に対して、不義理を行ったものを社会からパージする人間こそ、自責思考からは最も遠い存在ということができるでしょう
とどのつまりお前も他責やないけ、とな

みなさんもわかったでしょう
自責とは想像以上に理不尽なものなのです

人の不義理に対しても許せる人間でなければ自責を語る資格はないのです

素直に自分は他責思考であることを認めましょう
それで世界は平和になります

自責を語るなら釈迦になれ
それが無理なら自責を語らず他責を自覚せよ


自責思考で生きてる人間なんておらんから無視で良い

もうわかったと思いますが、本当の自責思考の人間は他人に責任の強制をしません
背中で語ります
そして、自責というものは想像以上に険しいものです

自責思考は突き詰めれば仏教における悟りの境地のことを差します
そして、自力で悟りの境地に至った人間は釈迦が唯一だと言われます

つまり釈迦以外に、本当の意味で自責を語れる人間なんていないということです
自責を語るのであれば釈迦の言葉を代弁していうべきでしょう

それ以外の言葉はただの雑音です
無視で良いのです


おわりに

自責って窮屈な概念だよなと思います

窮屈な人間が幅を利かせるのって正直害悪だからやめてほしいよなぁと思っています

自分は窮屈が嫌いです

だから、自分は世の中を正していきます

だから言いましょう
他責でええんやで


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