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逃避行

夏休みになると毎年1週間ほど母の妹夫婦(叔父叔母)の家に預けられた。叔父叔母の家に子どもはおらず、盆正月に帰省してくるとても心の優しい人たちだった。

叔父叔母は東京か大阪どちらかの転勤があり、いずれにせよ都会の超ど真ん中で生活していた。
叔母は祖母によく似ていた。体型から顔貌、優しく穏やかな性格であり病弱であった。私の幼少期、母からの暴力があまりに酷いため、叔母夫婦が私を引き取ろうとしていたくらいだ。

母と姉妹と思えないほど正反対の性格であり、叔母もまたあの実家での悲惨な犠牲者の1人だった。長女の母が大きな期待をかけられ猛勉強している間、叔母は佳子ちゃんの世話と家事ばかりしていたそうだ。今でいうところのヤングケアラーだ。叔母も母と同じように東京の女子大に進学した。

盆暮れには毎回一人ひとりにたくさんのお土産をくれた。都会のデパートにしか売っていない洋服、スヌーピーのグッズ、美味しいお菓子…叔母は祖母と佳子ちゃんの事をいつも気にかけ、帰りたくない実家に無理やり帰省してはストレス性の過敏性腸炎をよくおこしていた。叔父も非常に温厚で優しく、帰省した際は隣町まで2人でサイクリングに行ったり理科の自由研究を一緒にやってくれる、見た目はケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダーおじさんみたいな人だった。一年中とある機関の研究室にこもっている化学のエキスパートで、私は博士と呼んでいた。博士のことをお父さんがわりに見立てて慕っていた。

母が祖父と会社で大喧嘩をした小6のある日、母は会社から飛び出し半狂乱で祖父母の家に乗り込み、祖父の洋服箪笥の中にある背広やネクタイをハサミで切り刻んだ。
次は玄関にあった祖父の革靴を一足残らず外に放り投げ、道路の向こう側にある溝に落ちた革靴はどんどん下流まで流され、見に行くと祖父の靴で溝が詰まって水が道路まで溢れ出ていた。水が道路まで溢れ出ているので、周囲の人たちは何事かとジロジロ見ている。私は呆れ果てて溝の中に手を突っ込み、ずぶ濡れになった祖父の革靴を片方ずつ拾い集めた。
それでも気が済まない母は、持っていたハサミを祖父の洋服箪笥に突き刺した。恐ろしくなった祖母は近所のおじさんを呼びに行き皆で止めに入ったが、そのおじさんも半狂乱の母を見て恐れ慄いた。
そのまま祖父の引き出しにあった封筒を持ち出し、私を引き連れて新幹線に飛び乗った。

私はわけがわからず、とりあえず今から東京に行くんだ!という母についていくしかなかったが、半分心の中は嬉しかった。母は妹の叔母に電話をし、今からすぐ行く!と言ってそこから1週間全てを休んで逃避旅行にでかけた。
叔父叔母は心配して新幹線口まで迎えに来ていたが、叔父叔母と一緒に居れば私は母から八つ当たりの暴力を受けることはまずない。内心家で大暴れされるよりもこうした逃避旅行が嬉しかったのだ。

東京ディズニーランド、原宿の竹下通りに渋谷、東京にいる母の友だちにもたくさん会い、目白の椿山荘で生まれて初めてアフタヌーンティーを食べた。池袋のど真ん中に住む叔母の家に泊まりこみ、叔父叔母も何故か休みをとり、銀座に出かけたり、母が昔勤めていた赤坂見附に行ったり浅草にも行った。
東京で豪遊した後は叔父叔母も引き連れて神戸に寄り、当時まだ新しかったポートピアホテルに4人で泊まった。白い水兵さんのような制服を着たホテルのベルボーイがとてもハンサムだった。
結局1週間母は私を引き連れて豪遊し、叔父叔母に説得されて地元に帰ったのだが、私は嬉しくて仕方がなかった。


後で母に聞くと、『あの時祖父の引き出しに入っていた封筒の中に50万円入っていたので、全部使いきって帰ってやろうと思った』らしい。
通りで豪華な旅行だったわけだ。
会社でどんな大喧嘩を祖父としたのかは知らないが、母はストレスが極限までMAXに溜まると、デパートでオーダースーツをこしらえるか、若い頃住んでいた東京に旅立った。叔父叔母が大阪に転勤になると行き先が大阪になる事もよくあった。
いずれにせよ祖父との大喧嘩の末、家で大暴れして私に暴行を加えられるより、母が東京でも大阪でもパリでも好きなところに旅立ってくれたほうが私にとっても好都合であった。


母のクローゼットは祖父と大喧嘩をする度に、デパートの中にあるいきつけの店で一着ずつ派手なオーダースーツが出来上がり、しまいにはインコみたいな色とりどりのカラフルなスーツだらけでクローゼットがパンパンになった。

今でも何か行事があると、そのインコみたいな数あるスーツの中から選び抜いたジャケットだけを母は羽織っている。遠くから見ても一発で分かるほど、自分で染めたグレイヘアに時折りオレンジ色やピンク色の髪の束がまだらに混じり、まるで三毛猫のようだ。キラキラ光る髪留めか大きなカチューシャ、それかつばの広いお帽子をかぶり、いつもどこか気取っている。


ある時志茂田景樹さんをテレビで見た母はとても親近感を覚えたらしい。実際東京でかつての旧友たちと赤坂で飲んでいた時、志茂田景樹さんもたまたまそこに居たと聞いた。志茂田景樹さんの服のセンスをとても褒めていた。

当時の母は、いつでもショッキングピンクの口紅を塗り、とても原色が似合う、バブリーでパワフルなキャリアウーマンで通っていた。一緒に歩くのが恥ずかしいくらい地元では浮いていたが、東京へ行くと母のような装いの母と同年代らしき女性を今でも見かける。
銀座や新宿の伊勢丹あたりで母によく似た人を見かけると私は口元が緩み、1人でニヤニヤしてしまうのである。
(実際、そこに居るはずのない母と間違えて声をかけそうになった事があるくらい、ソックリの形の女性を何度も見た)

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