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田中みな実論

この前、惰性でテレビをつけていたら田中みな実の特集番組が放送されていた。なんとなく見ていたのだが、結構おもしろかったし、田中みな実という女性が色んな可能性を持っているということに気づいた。本稿では、その気づきについて論じたい。
最初に断っておくが、本稿は論文でも評論でも啓蒙書でもない。私が居酒屋で飲み友に話すような内容である。つまり、引用もしないし、私の論考を一般化するつもりもない。私なりの持論として、こういう意見もあるのかという程度に受け止めていただけたら幸いである。
このように断ったのは、本稿はフェミニズム的な内容になるためである。つまりは、センシティブな内容になるかもしれない。周知の通り、フェミニズムに関する議論は、TwitterなどのSNSを通じて今日では盛んに行われており、あるフェミニズム論に対する批判は必ずといってよいほど生じているように思われる。とりわけ、男性によるフェミニズム論など、男性性の特権的で独断的なものとして袋叩きになることが多い。そのため、本稿も私という男性が書いたものであるため、その内容は同上のとるに足らないものであると批判されるかもしれない。私としては、自身の偏見を可能なかぎり排除したつもりであるが、それでも批判は免れないだろう。初めに上のように断ったのはそのためである。そんな「偏見まみれ」の拙論でよかったらお目通しを願いたい。

はじめに
田中みな実について簡単に紹介したい。私は、特別彼女のファンというわけでもなければ、彼女を前々から知っていたわけでもないので、紹介はWikipediaからの情報と、件のテレビ番組から私が受け取った情報のみにとどめたい。
田中みな実は、現在33歳のフリーアナウンサーである。生まれはニューヨークというからには驚きである。出身大学は、青山学院大学であり、在学中にミス青山コンテストの準グランプリに選ばれている。この経歴を見て、私が思ったのは育ちいいなということである。おそらくそこそこの上流階級の家に生まれたのであろう。
次に、彼女の私生活であるが、美に対する意識高すぎである。美容のために一日三リットルの水を飲むそうである。その他、食事にも気を遣い、週に数回は筋トレのためにジムに通っているそうだ。すごいストイックという印象を受けた。その他思ったことは、めっちゃ美人ということである。とにかく美人、かわいい。。。
もう一つ感じたことは、めっちゃあざといということである。話し方がゆっくりであったり、舌を少し出したり、男性を魅惑するような仕草が多く、それを意図してやっているのが伝わる。とはいえ、アホっぽさが伝わってこない。むしろ、何か計算高いような感じがあるし、そのストイックな生活も相まって、自律的な女性像が表象される。

女性のロールモデルとしての田中みな実
その番組では、田中みな実の握手に参加した人々にインタビューを行っていた。彼女には様々な層のファンがいることに驚いた。多くは女性ファンであり、中高生から主婦、子を持つ女性まで様々であった。女性ファンの多くが、田中みな実を神のように崇拝し、宗教のようになっている。ファンが信者のようになるということは珍しくないが、田中みな実のファンに関しては、他の芸能人のファンと何か根本的に異なるものを感じた。それは、ある主婦のインタビューの内容から理解できる。この主婦は子供が二人おり、田中みな実に出会うまでは、自分の美への関心がなくなってしまっていたという。子供の世話や家事に追われて、若かりしころのような美に対する意識は薄れていた。しかし、田中みな実は、忙しい中でもストイックに自分の美のため、自分の価値のために努力を怠らない。その姿に、この主婦も感銘を受け、自身の美に対する意識が高まったという。ここからわかるのは、田中みな実という表象が女性における一つのロールモデルとして機能しているということである。つまり、先ほどの主婦は田中みな実の生き方を手本にしながら、新しい生を生きるようになったのである。
しかし、田中みな実がもたらした表象とは何か、言い換えれば、田中みな実が体現している女性像とは何か。一つには、自分の時間を自由に使う女性像であろう。これは主に、主婦に影響を与えた。家事や子育てによって、自身の時間を自由に使うことにためらいを覚えた主婦たちに対して、その時間を自由に使うことの重要性を示した、二つ目に、女性の美というものを改めて発信した。具体的には、女性の美というのは若いころにしか価値がなく、次第にその価値は下がっていくという考えを刷新した。つまり、女性の美というのは、自然的なものなのではなく、人為的な努力で維持可能であるし、レベルアップ可能であるということを自身のストイックな生活から示した。最後に、今までとは異なる自律的な女性像を提供した。これまでの女性像は、男性に依存せず自身の力のみで経済的にも精神的にも自律した女性像であったように思われる。しかし、田中みな実が提供した女性像は、ファムファタル的な女性像である。ファムファタルとは、文学作品の批評などに登場する概念であり、おおざっぱいえば、男性を堕落させる女性のことを指す。わかりやすい例でいえば、ルパン三世の不二子ちゃんがそれにあたるだろう。不二子に誘惑されたルパンは、不二子ちゃんの頼みとならばと様々なお宝を盗むが、最終的には彼女に相手にされず、銭形のとっつぁんから逃げることとなる。このような役割を持つ登場人物のことをファムファタルと呼ぶ。
田中みな実もこのようなファムファタル的な一面があるように思われる。たとえば、彼女のあざとさなどがそれを示してる。舌を少しだし、ゆったりとした口調で話す。このことは、彼女が男性を誘惑している様子を物語っている(少なくとも私にはそう思われた)。
これまでの女性像は、上述の通り、男性に依存しない自律した女性像であった。しかし、田中みな実の場合はそうではない。彼女の魅力によって男性を意のままに操り、むしろ男性の力を利用するという意図があり、それこそが彼女が提供する女性像である。つまり、男性の力と断絶したものではなく、むしろ男性の力を利用し、それを自身の力とするようなものである。したがって、まさに不二子ちゃんのようなファムファタル的な女性像なのである。男性に依存する女性なのではなく、男性を依存させる女性である。

エロティック・キャピタルと田中みな実
社会学者のキャサリン・ハキムは『エロティック・キャピタル』において女性ならではの性的魅力を強調している。人間は様々な資本を持ち合わせている。たとえば、経済資本、人的資本、社会関係資本(人脈)、などである。これらは、社会で成功するために重要なものである。人脈が十分にある人は、コネを使って大企業の幹部にまでのし上がれるかもしれない。それでは性的魅力はどうか。ハキムは性的魅力、つまりは性的資本(エロティック・キャピタル)も、これらの資本と同様に社会的成功のための重要なものであると主張する。具体的にエロティック・キャピタルとは、美貌、セックスアピール、快活さ、愛嬌や社交スキル、などの魅力を総合したものである。これらの魅力は、先天的なものもあるが、多くは個人の努力によって得られるものである。ハキムによれば、成功している女性の多くは、自身の性的魅力に自覚的であり、同時に男性がそれに関心を寄せていることにも自覚的である。つまり、自身のエロティック・キャピタルを用いて男性を支配している。
このエロティック・キャピタルは、田中みな実がその重要性を強調したものであるように思われる。女性が自分の時間を美の追求のために使い、ストイックな生活によって美を磨き、その成果をエロティック・キャピタルとして貯蓄する。そして、それが男性を性的に魅惑する武器となり、最終的に男性を支配することに成功する。このことが結果的に女性のエンパワメントにつながる。事実、ハキムもエロティック・キャピタルを磨いた女性たちは、男性に対する従順さが薄れ、積極性が増し、自己主張が強くなり、セックスにおいても人間関係においても「支配する」立場に慣れていくという。かくして、男性優位主義の文化が残る社会においても、女性たちは自信を深め、男性と平等であるという意識を持ち、従順さよりも自主性を重んじるようになる。
田中みな実という女性は、ハキムが述べるような女性像を体現している存在なのかもしれない。

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