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有名建築本の概要だけをつまむ記事

本記事は建築本の一部を引用しながら概要をつかむためのものです。
読書メモを元にして個人的に気になった部分を引用しているだけなので主題の本筋からずれている部分もあります。

今回の本の選出基準としては、美しさや象徴性が軽く見られて効率性や合理性を求められる事の多い今だからこそ頭に留めておく本をあげています。

この記事は読めば時短で全てを理解できるというような内容ではなく、あくまで1面だけを切り取ったものです。自分のためになりそうな本や興味を唆る本を探すために使ってほしいと考えています。
また、内容も引用箇所もかなり断片的なので興味が出た本は是非読んで自分の知識としてください。

建築本では無いけれどコンセプトに役立つ本はこちらにまとめています。興味がありましたらご覧ください。


建築をめざして(ル・コルビジェ)

「建築をめざして」は、ル・コルビュジエ(Le Corbusier)が自身の建築理論と哲学を述べた著書です。この本は彼の建築に対する独自の見解や考え方を探求し、彼が建築において追求した理想を明らかにしています。
ル・コルビュジエは、建築を単なる構造や美的な形態だけでなく、人間の生活や社会的な要求に対する解決策として捉えています。彼は機能主義の観点から建築を考え、建物を単なる建築物ではなく、人々の生活や活動の場として捉えました。
個人的には「建築は住むための機械ある」という言葉の印象とは対照的に思える、建築は「感動を与える」ためにあるという主張を繰り返しているところに深く共感しました。

サイロや工場や、機械や、魔天楼などが沢山になった所で、「建築」を語るのは快適なことになろう。建築とは芸術的な事実、感動を起す現象、構築の問題の外、それを越えた所にある。構造は、「こわれないようにする」ことだ。建築は、「感動を与える」ためだ。 建築的な感動とは、作品のひびきが、われわれが支配をうけ、それを認め、それを讃えている宇宙の法則の音叉をあなた方の心の中でならす時である。

p32

建築には、構造を強調したり、要求に応える(ここでいう要求とは、もちろん、実利、快楽、実践上の按配のことだが)、ほかに、目的や意味をもっている。建築は特に優れた芸術であり、プラトン派的偉大さ、数学的秩序、感動を起させる諸関係を通じて、調索し、知覚に導くことである。これが建築の目的である。

p93-94

石材を、木材を、セメントを工事にうつして、家屋や宮殿をつくる。これは建設である。知性の働きだ。 しかし、突然、私の心をとらえ、私によいことをしてくれ、私は幸福となり、これは美しいといったとしたら、これは建築である。芸術はここにある。 私の家屋は便利だ。有難う。この感謝は鉄道の技師に、電話会社にいう有難うと同じだ。 私の心にふれたのではない。 しかし、空に向って伸びる壁が私を感動させるような秩序になっていたとする。私はそこにやさしい、荒々しい、可愛いい、または堂々としたある意図を察する。そこの石がこれを語る。私をそこに釘づけにして私の目はそれを眺める。私の目が眺めるのは、そこに述べているある考えである。言葉も音もなしに語る考え、ただ相互に、ある関係にある角柱の組合せとして明らかにされるものだ。これらの角柱を光は細やかにはっきりさせる。そこにある関係は、実用とか描写とかとは結びつかないことだ。それは精神の数学の創造物である。建築の言葉である。生命のない材料と、多少なりとも実利的な計画に沿っていながら、<それを越えて>私を感動させるような関係を生み出したのだ。これは建築である。

P122

住宅論(篠原一男)

非合理的な「生」の空間を追い、「美」や「永遠性」の重要性を主張する著者の、「住宅は芸術である」、「三つの原空間」など、評判高い諸論文十数編をまとめたユニークな評論集。
なんのために美しさを求めるのかが明快に書かれています。

われわれの感覚に直接的に訴えている空間というのは、いわゆるユークッリッド的三次空間である。...この一番素朴な視覚的三次元空間の認識も西洋の近世においてようやく見出されたものである。そのとき空間ははじめて実体として統一的に認識された。

p31

↑有名な言説である「空間というのは、この場合、多様な容貌の総体なのである。」の新規性につながる。

常識的な尺度を超えた空間に対し、人間は本能的に恐れをいだき、とどまってしまう。

p46

人間と空間とのやりとりということのなかにだけしかないリアリティもちえないような、本当の「無駄な空間」をつくるべきであった。それは単純な「ゆとり」ではない。逆に生活のコアー(核)なのである。このような無機能な空間を中心にして、がっちりと機能を所有した空間を捉えたようなすまいをつくってみたいと思っている。それゆえに、私はすまいは広ければ広いほど良いという考えを捨てることができないのである。

p75

かぞえきれないほど多様な形や表情を持っているように考えられている建築は、しかし、この三つのいずれかに属するか、あるいはその化合体として存在するだけである。この三つの空間を機能空間(ファンクション・スペース)、装飾空間(オーナメント・スペース)、象徴空間(シンボル・スペース)と名づけ、そして、これは建築の三つの原空間(プライマリー・スペース)となる。

p133

↑建築は機能空間、装飾空間、象徴空間の3つの原空間に分けられる。

原空間とは、同じように、どれのひとつもそれ以上に細かく分解しえない空間のことであり、どれか一つの空間を取りだした時、それは残り二つのものによって合成できない空間のことである。

p140

↑原空間の説明。

素朴な機能空間としては、竪穴式住居のようなすまい、今なお原始的な生活に近いという中近東の土づくりのすまいなどを想定するほうがよいだろう。人間の素朴な生存機能のために求められ、それだけしっかり結合している空間が機能空間の内容なのである。

p146

↑機能空間の説明。

『単なる表面的な装飾原理から建築そのものの構成原理にまで高められていく』…装飾とは掛けたりはずしたりする操作と結合して考えられるものではないことを知るだろう。装飾とは石や金属の塊りの造形物であり、それは人間の生き方全体が求め、そして、それとぶつかり合う空間なのである。

p147

墓標は象徴空間の原形質に近いだろう。エジプトのピラミッドはその巨峰である。…ただし精神能力の一つとしての象徴化のことではない。

p148

↑象徴空間の説明。

今日の日常生活に過不足なく対応させられた明るく透明な空間に対して、太陽を拒否して大地にすべて没し去ったこの住宅、私はそれを「黒の空間」と呼んだのも、あるいはこの「病理学的空間」(今までの健康な合理主義・機能主義に対して提出されたアンチテーゼのひとつに比喩的につけられた呼び名)の試みのひとつといえるかもしれない。

p185

↑〈黒の空間〉の説明。大胆かつ絶対的に思えた事柄に対する良いアンチテーゼ。内部しか存在しないとても純粋な空間。

建築家の衝動的な直感は非日常的な尺度を持つ空間をとらえていく。…習慣的な日常の空間を離陸すれば人間の動作はよりどころを見失ってとまどう。日常生活というものはもっとも強力な様式によって行われていることをこの瞬間に気づくのである。様式の紛失が人の心に不安を与える。非日常的な空間の実現には、それだから、一歩一歩、新たな様式を確立しながら広がりの拡大を計らねばならない。この要請を無視して飛び越えてしまうとそこはもともと観念の世界、零から無限まで自由自在である。住宅設計にとって不毛な世界である。

p213

獲得された新たな非日常的な生活の広がりも、まもなく新たな日常的な空間に練り入れられていくだろう。超人間的なる空間(人間を超える尺度をもった広がりをつくりそれを人間のものに戻す)に向かうこの歩みは、今日の精神状態のなかで一つの有力な創造作業だと私には思える。

p215

続住宅論(篠原一男)

人間と空間との間の新しい緊張関係を作りだすあらゆる手がかりを、横切ってきた世界の<共時都市>の原風景の中に、民家集落の調査の中に、また自らの設計の中に求めて、一人の建築家の内部に燃焼する空間理念をみごとにうたいあげた評論集。

ひとつの時点、現代の上で、異相の空間が互いに相手を溶解し吸収しようとしながら、けっして溶解も吸収もできないので、それぞれが確かな輪郭をもって凝結して存在して、しかも、それは縦横に織り合わされている都市、現代都市をここで共時都市と呼ぶ。凝結した確かな存在とは、確かなる歴史的存在、文化的存在、いいかえれば、通時的な存在であることを意味してる。…確かなる個性の通時的な空間それぞれ明快に直交して、現代の時空を張っている、それが共時都市だ。

p19

完結して美しい都市というのは、単一素材の織物の美しさに似ている。そこをどのように横切っても、たえず同じ美しさに出会うのだ。だから、私はいつも優しい共感を用意してしまう。突然私をまき込むような、激しく、意外な空間との出会いは起らない。…イタリアの美しい中世都市は、その存在自体がイタリアの現代の国土全体に対してもつ意味にほんとうの役割があることを言っておかねばならない。それは都市よりもさらに大きな空間のレベルでの機能だ。

p22

「ある書物を機械と見なすということは、〈意味〉の問題が後退しているということである。つまり、ある機械についてそれがどのような意味をもつかを問うよりも、それがどのように動くのか、何をどのように生産する方が重要になる。」

p33

↑「ある書物」を「ある住宅建築」に置き換えたのが「空間機械」。参照:ジル・ドゥルーズ 『ブルーストとシーニュ』

広間の中に立つ丸太柱に象徴的な意味を建築家が与える。住む人あるいはそこを訪問した人はそこから意味を読みとる。このような働きをもつ空間を〈象徴空間〉と私は呼んできた。ここで、過程そのものを注目すれば、象徴 ーこれは記号(シーニュ)の特殊形態のひとつであるー をつくりだす機会としてこの空間があるという考えかたである。重心は意味内容よりも働きの方に移っている。この視点の移動が〈機械〉の出現なのだ。

p33

↑「象徴空間」と「機械」の説明。物自体でなく動きに注目するところが現象学に似てる。

「部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体を、われわれは探求することを断念した。なぜならば、有機体的全体性としてのロゴスも、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質であるからである。しかし、それら断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまりは、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の《効果》であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するであろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションのないその部分の運動の結果としてうまれてくるであろう。」

p39

↑(要約) 統一的な論理がないことが部分、断片の特性である。しかし、それらを統一する《効果》がひとつの全体として存在しなくてはならない。このひとつの全体は《原理》ではなく、機械の《効果》として作用する。《効果》は分解された部分品の運動の結果として生まれる。

戦後の住宅設計の主流が技術的な解決による生活空間の追求にその重心がかかっていたことを考えれば、住宅は今大きな転換点にさしかかっていると言いうるであろう。物質的な空間の追求から精神的な空間の追求へ、あるいは日常的な実体から非日常的な虚構への建築主題の転換である。そこに求められるのは空間の意味、いいかえれば生きることの意味である。意味の空間の構築がこうして住宅の大きな主題となって出現してくるのである。

p52

↑「住宅は芸術である」の理由。戦前戦後が篠原論のターニングポイントとしてなった。

不確定な空間、意外な空間は、見慣れた形のなかにも突然現われる意識の逆転が構築する虚構だと私は思う。
…創造とは非日常的なものを作り出すことだと私は思ってきた。...しかし、孤立した非日常性を私は対象としない。非日常的なるものとここでいうとき、それは日常的なものとの関係の中で存在し生命をもつものを指す。日常的なものへの転化の誘惑がまったくないような非日常的なものは、あえて日常性との対比のなかで規定する必要もないからだ。

p63

↑実体をしっかり作らないと虚構が生まれない。

〈白の家〉の入り口のドアーを開くと、その一瞬に、この広間の全貌は眼の前に展開している。私がかつて正面性と名づけた、日本建築の伝統的構成のなかにある、極めて特異なそして魅力的な構成法をここでは強く意識していた。

p95

↑正面性の説明。

強い象徴性をもつ構成というのは宗教空間のもつ最大の特徴である。だが、最終的にはそれが私の目的ではなかった。部分的に現象する象徴性を否定しないが、しかし、基本的な指向とは別のものであった。

p95

垂直方向への指向という条件によって、いままでの系列から離れる。...私はこの垂直空間をできるだけの抽象化によってつくりたいと考えた。...いずれも大きなスカイライトが垂直空間を打ち消すような機能を持っているので、中心の構成というものは消える。...いま私は正面性を超えた多様性の空間を描きだすことに大きな関心をもっている。

p97

↑正面性空間から多様性空間へ。

(あらゆる場所でさまざまな空間が現れる。)これらの空間の中では、いままでの私の作品の中におけるような主役を果たさない。人の立つ位置と時間に対応して、空間が現れるだけなのである。空間というのは、この場合、多様な容貌の総体なのである。

p98

多い雨と夏の強い陽ざしから建物と生活を守るためにつくりだされたこのヴァナキュラーな造形(日本建築の深い軒)は、同時に、優美な自然との全面的な関係を、この深い軒の出の下で、美しく結ぶ。...しかし、この日本の空間の開放性は深い軒の出だけで保障されたものではなく、床を地表から高く持ち上げることによって支えられるものだという考えを、私はかつて対現象と名づけた。だから、物理的には周囲との遮断性を強めることによって、視覚的には自然と周囲に向かって全面的な開放と相互浸透を成立させた。

p136

↑対現象の説明。

(同相の谷)最初の階段をのぼりきると、谷間のような空間が眼の前に置かれていて、今のぼってきた階段とまったく位相のものが眼下に見える。〈亀裂の空間〉と名づけた、天井が高く幅が極度に狭められている空間をめぐって移動する視点に対して予期されていない光景が現れるようにこの住宅は意図されている。

p138

↑〈亀裂の空間〉の説明。

建築論(アルベルティ)

「建築論」では、アルベルティが古代ローマや古代ギリシャの建築に触発されながら、自身の建築理論や設計原則を説明しています。彼は建築を美的な観点だけでなく、機能的な観点からも考察し、建物の構造や形態に関する詳細な指針を提供しています。
この本では、アルベルティが建築における比例や対称性、素材の選択などについて詳細に論じ、理想的な建築物を実現するための方法を示しています。彼の見解や理論は、後の時代の建築家や美術家に多大な影響を与え、彼の著作は建築史上重要な文献として今日でも高く評価されています。

さらに、今われわれが言及している最後の一つのものは、適性に対して、また永続性に対してさえ最大の貢献をする。...それどころか、人間の粗暴から十分に自衛するという点で、人間の芸術ほどに、確実な効果を用らすものが何か有りえようか?しかも美は不穏な敵に対してさえも、その怒りを柔らげ、無傷のまま残させるのである。

p158

↑篠原さんと同じような美=永続性の主張。

神殿においては窓の開口は控えめに、高い位置になければならない。窓の外に何も見えず、宗教儀式をとり行う人や祈る人たちが、神聖なものから気をそらさないためである。…神殿の中に必要とされる灯は、それ以上に宗教的教化や装飾を神聖にするものはないのであるが、光が多すぎては灯の力を失う。この理由から当然、古代の人々は唯一の開口、出入口で一般に満足していた。しかし私は次のことも賛成である。すなわち神殿への出入口は十分に明るくされ、内部も歩廊では沈んだ調子を最小限に抑える。しかし祭壇の設けられる場所は美しさより威厳に満ちる事の方が望ましい。

p217-218

↑象徴的な空間の分け方とつなげ方の例。

ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして(クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ)

「ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして」は、ドイツの哲学者であり建築理論家のクリスティアン・ノルバーツキ(Christian Norberg-Schulz)による著書です。この本では、建築の現象学的なアプローチに焦点を当て、建築が環境や人間の経験とどのように関連しているかを探求しています。
ノルバーツキは、建築が空間や時間、身体的感覚といった要素を通じて人々の感情や体験に影響を与えるという考え方を提唱しています。彼は建築が抽象的な概念ではなく、具体的な場所や環境として経験されるべきであると主張し、建築が人間の日常生活や文化的な背景と密接に関連していることを強調しています。
この本では、ノルバーツキが建築の現象学的なアプローチを通じて、建築が人間の感情や経験にどのように影響を与えるかを論じています。彼の見解は、建築の理解や設計に新しい視点を提供し、建築が人間の生活や文化に与える影響を深く理解するための貴重な資料となっています。

ところでこの「具体的 concretization」は、さらに「集め来たらすこと gatherting」と「物 thing」という概念によって説明される。そもそも「物」という語は語源的には集めることを意味し、いかなる物もその意味はそれが集め来たらすものに存しているのである。「物が世界を集め来たらす」とハイデガーは言う。

p9

近代の建築家たちは、一般的に見ると実存的次元を排除してしまった。ただ、そのうちの幾人かがその意義を無意識のうちに認めていたのである.
…原子や分子、数や「データ」の類いなどその他の一切は、日常生活の目的というよりはそのほかの目的に役立てるべく構築される抽象物もしくは道具なのである。今日では、われわれの生活・世界よりもこうした道具の方が、より重要視されるようになってしまってる。
…つまり、機能的アプローチは、特別な同一性を有する具体的な「ここ」としての場所を除外していたのであった。…原理的には、科学とは所与の事象を「抽象化」し、中性的な「客観的」知識に到達するものである。

p10-14

↑物事を抽象化して考える「科学」が横行して実存がおざなりにされた。科学=抽象化の説明とその批判。

(上の続き)しかしそのために失われてしまうものは日常の生活・世界であり、この生活・世界こそが、人間一般の、したがってまた計画家や建築家という特殊な専門家たちの真の関心事でなければならないのである。幸いにもその袋小路から抜け出す道が、すなわち現象学として知られている方法である。

p14

↑現象学が必要な理由。

現代の文献において、われわれは二つの使われ方を区別することができよう。それは、三次元的な幾何学としての空間と知覚野としての空間である。しかしながら、これはいずれも満足ゆくものではない。なぜならそれは、「具体的な空間」と呼びうる日常体験の直観的で三次元的な全体性を抽象化したものだからである。

p22

↑空間は体験的側面を内包していない言葉である。

人工の場所の諸現象について吟味した結果、人工の諸要因のいろいろな基本的タイプがあきらかになった。...自然の諸力の多様性、神秘性が強く感じられる人工の場所がある。抽象的な一般秩序の啓示がもっぱら志向される場所がある。そしてまた、力と秩序が包括的な均衡を達成した場所がある。 このように見てくると、「ロマン的」、「宇宙的」、「古典的」と呼んだカテゴリーに戻ることになる。

p119

↑人工の場所のゲ二エスロキ。 現象学的に見た人工の場所(空間)の構造。

「ロマン的なるもの」とここで言うのは、多重性と多様性が際立つ建築を指している。それは論理的用語では容易に理解しがたく(またその固有の意味は普遍的価値を持つものではあるが)、不合理でありまた「主観的」であるように思われる。ロマン的建築は強烈な「雰囲気」によって特徴づけられ、「空想的」で「神秘的」なものとして現れることが多く、また「親近感」があり「物語的」でもある。...その諸形態は組織化というよりもむしろ「成長」の結実のように思われ、生きた自然の諸形態に似ている。 ロマン的な空間は、幾何学的というよりもむしろ位相幾何学的である。

p120

↑「ロマン的」の説明。

「宇宙的なるもの」とここでいうのは、単一性と「絶対的」秩序が顕著な建築を指している。それは総合的な論理の体系として理解されうるし、個々の具体的状況を超越しているという意味において合理的、「抽象的」であるように思われる。宇宙的建築は、「雰囲気」を何らかの仕方で欠如しているということによって、そしてまた基本的性格を数え上げるとそれが非常に限定されている点で際立っているのである。それは「空想的」でも「田園的」でもない。...それが示す諸形態は力動的というよりむしろ静態的であり、具体構成の結果というよりはある「隠れた」秩序の発現であるように思われる。... 宇宙的空間は厳密に幾何学的であり、通常は規則的なグリッドあるいは方格的二軸(カルドとデクマヌス)の交差として具体化される。...

p125

↑「宇宙的」の説明。

宇宙的な建築の性格もまた「抽象化」が際立っている。つまり彫刻的な現れ方を避け「カーペット文様風」の表面装飾(モザイクタイルなど)を用いたり、あるいは複雑に入り込んだ幾何学的な網目文様を導入したりして、ヴォリュームと表面を脱物質化する傾向がある。水平要素と垂直要素は効力のある活力とはなっていず、普遍的秩序を顕現するものとして単純に並置されている。

p129

↑宇宙的建築の性格。

(古代エジプト人やローマ人たちの建築が絶対的体系を持っていた)…古代ローマ人の建築が特に興味深い。なぜならそれは、地方的もしくは場所的な、周辺環境を特に考慮せずにどこにでも移植されたからである。一般的に言えば、どのような個別的な場所もそれらが服従しなければならない包括的な宇宙的(かつ政治的な!)体系の部分をなしていることを古代ローマ人たちは表現したのである。...こうしてローマ人たちの世界征服は「神がみの同意を得て」、予定的な宇宙的秩序を顕現することとして歴史的事実となるのであった。  近代においては宇宙的秩序のイメージが政治的、社会的、あるいは経済的な構造を具現化する空間的諸体系へと退落してしまった。たとえばアメリカの諸都市の方格グリッド状平面構成は、いかなる宇宙的概念をも表すものではないが、機会の可能性をはらんだ「開いた」世界を顕現している。...このように方格グリッドはある種の自由を持つが、それは何かしらの顕著なゲ二エス・ロキを具現化することはほとんど許容することはない。

p129

↑古代エジプトの宇宙的体系の上位存在は「神」であったが、現在の都市グリッドを構成する宇宙的体系は「経済、社会」となっている。

「古典的なるもの」とここで言うのは、イメージのしやすさと分節した秩序によって際立つ建築を形容するものである。...古典的建築は具体的な顕前が特徴的であり、各部の要素のひとつひとつが明確な「人格」なのである。形態は、静態的でもなければ動態的でもなく、むしろ「有機的な生命」を孕んでいる。...  古典的建築は、位相幾何学的な特徴と幾何学的な特徴を統合している。各個の建築物は厳格な幾何学的秩序を持ち、それが建築の同一性の基盤を与えるのではあるが、いろいろな建築物を一緒に組織化するのは位相幾何学的である。

p130

↑「古典的」の説明。

ロマン的建築、宇宙的建築、古典的建築、これらが人工の場所の原型である。...しかしながらそれらは、あくまでも型であるから純粋形態で現れることはほとんどなく、むしろ多様な種類の総合にかかわってゆく。…ゴシック大聖堂はロマン的な中世の町に属するものであるが、中世の町にみられる自然環境への執着を超越している。大聖堂内部では、雰囲気的な光が神的なるものの顕現へと変換されており、その体系的に細分化される構造が、スコラ哲学が説明する秩序化された宇宙の調和体を視覚化したものとなっており現れているのである。  大聖堂はしたがって、ロマン的な質と宇宙的な質を統合して統一しており、光が透過する壁を通して地方的かつ場所的に解釈されたキリスト教精神の実存的意味が町へと伝達され、そうして町の日常的な生活・世界はひとつの宇宙的な次元を獲得したのであった。

p135

↑「複合的建築」の説明と複合的建築の例。例を要約すると、外はロマン的、内は宇宙的な建物。これによって町の日常が宇宙的な次元を獲得した。

(バロックの庭園)ここでは、…体系の中心に位置づけられる君主の絶対主義的野望を具現化し、水平に広がってゆく通路が描きだす幾何学的ネットワークによって表されているのである。その中心はそのうえ「世界」そのものを、一方では人工の都市的環境、他方では「無限に」拡張する自然という二つに折半するのに用いられている。中心の近くでは。自然が一つの文化的景観(芝生と花壇)として現れ、それより離れてゆくとより「自然的なもの」(植え込み)になり、最後には「野生」に終わる。バロックの庭園・宮殿においてはこのように、人工の場所と自然の場所とが統合されて包摂的な全体を形成し、そこにはロマン的および宇宙的な意味が含蓄されていると同時に、宮殿建築そのものに古典的派生物としての構築形態があるのである。

p135

↑複合的建築の例。バロック庭園バージョン。 要約すると、中心を人工の場所(世界そのもの→たぶん宇宙的)、周辺を自然の場所(ロマン的)として幾何学ネットワーク(宇宙的)で包括してグラデーショナルに切り替える。


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