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【タナトスの誘い】芸術家が突然死にたくなる理由

ギリシア神話に登場する死そのものを神格化した神をタナトス(神)
といいます。

日本のドラマでは『ラブシャッフル』で吉高由里子さん演じる早川 海里がタナトスに囚われた役として登場し、その名称も有名になりました。

海里は画家、芸術家役でしたが
ドラマの中で彼女はなぜ死にたかったのか?
について考察していきましょう。

こんにちは音楽家のこうたろうです。
本日はこうたろうが演奏する
432hz天使のピアノシリーズの『天使の愛に包まれて』
をBGMに記事をお楽しみください。

タナトスとは何か?

タナトスは概念的な存在であり
優しいヒュプノスに対してタナトスは鉄の心臓と青銅の心を持つ
非情な神であると言われています。

それは人間にとっても
神々にとってもさえ
忌むべき存在であると古代ギリシャでは言われていました。

寿命を迎える人間の髪を剣で一房切り取り
冥王ハーデースに捧げ
魂を冥界に連れて行き
冥界の住民とする役割を担っていると言われています。

ギリシャでは、英雄の魂はヘルメースが冥府に運び
凡人の魂はタナトスが冥界へ運ぶともされています。

タナトス神はどんな贈り物も求めず
犠牲や歌を捧げ崇めてもタナトスの意志は変わることがない
死の運命を回避する慈悲を与えない神、存在であるため
古くから祭壇も無く人々から崇められる事もありませんでした。

このようにタナトスは一見するとなんだかプログラムのような?
コンピューターのような感覚でしょうか。

フロイトやニーチェが神々の概念を破壊したのちに登場したのが
精神医学としての定義
『死に対する欲求』『死への誘惑』
を感じる心理と概念へと近代化されました。

さて、タナトス神か、精神医学かはさておき
ドラマを例にした時に海里を含めて
タナトスという神、または概念は自殺願望そのものなのでしょうか?

銃弾は私に当たらない

ドラマの中でプロカメラマンの世良 旺次郎が戦場カメラマンとして戦場に向かおうとしていると
空港に海里が現れて一緒についていくと言います。

その時の海里の言葉が印象的です。
(正確ではないですが)
『私は死なない、私が前に立っていると弾は当たらない』

というもの。

まるで死の神に守られていると言わんばかりのセリフです。
海里の主治医だった菊田先生が
必死にフロイト的アプローチで治療を行っていましたが
海里はフロイトのいう精神医学的概念でないタナトスに誘われていたことは確かでしょう。

創造性の中にあるタナトスとエロス

さて、そもそも創造性とは何か?

これは人間という概念をミクロで見た存在を基準として
その概念の集合をマクロに拡張していく作業であると定義できます。

ちょっとややこしいでしょうか。

創造性を言語化できないから絵や音楽が登場するので
やや小難しい表現になることは勘弁してください。

つまり、ミクロのパターン化されたものも創造性であると言えますし
拡張が進んだ概念も創造性です。
最大限に拡張された創造性を
『素晴らしいアート』であると言えるのと同時に
それは『人智を超えて浮世離れしたアート』になるとも言えます。

芸術家の永遠のテーマなのかもしれませんね。

哲学と芸術は似たところがあるのかもしれません。
仏教用語でいうところの
娑婆と涅槃の中道を取るところがとても難しい点が挙げられます。

どちらに偏ってもうまく機能しなかったりします。

結局それは観測者がいるからこそ存在するこの物理世界故のシステムであり
このシステムのバグを探し続けるところに
哲学と芸術の本質があるのかもしれません。

タナトスとエロスの交錯

創造性の中にはタナトスとエロスの交錯が存在しています。

つまり、死と生の交錯です。

どちらかに偏っても美しさの輪郭はでないと言えます。

ポジティブに死にたい芸術家

海里に代表するように
芸術家は時にとてもポジティブな気持ちで
死への欲求が生まれることがあります。

それは、創造性の拡張の中に自我があるとき
パターン化された創造性から脱出できる(かもしれない)境界線にいるとき
すごく清々しい気持ち、前向きに明るく『死にたい』と感じるんですね。

このタナトスの感覚は何か?
というと、神学やスピリチュアルな感覚でいうところの
あの世の心地よさを魂が覚えている・・・のではないか?
とふと思ったわけです。

創造性の拡張の中に自我があるとき
パターン化された創造性から脱出できる(かもしれない)境界線にいるとき
の思考回路はまさに
より創造的な世界へ
この創造性の永続性を
なんて回路が巡ります。

そんな思考回路の時にすごくポジティブに死にたくなる瞬間がある・・・
というドラマの海里の気持ちが少しわかる気がするんですね。

タナトス的な死

つまり、タナトス的な死というのは

『もうこの世界が嫌になった・・・』
『もう疲れた、しんどい、苦しい・・・』

という感情ではなく

『この美しい創造性をさらに高めたい』
『この美しい創造性と娑婆を分けたい』

なんて感情こそがタナトス的な死なのかもしれません。

死の感情や真相はもちろん本人にしかわかりませんが

例えば文豪:芥川龍之介は7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺。
36歳で亡くなりました。

これもまた、創造性が極限まで高まり

『この美しい創造性をさらに高めたい』
『この美しい創造性と娑婆を分けたい』

娑婆を分けたいというよりも、娑婆に帰りたくない・・・といった創造性を守るためのタナトス的な自死だったのかもしれません。

生きる力はここにある

時に強烈なアート作品に出会った時でさえ
タナトスの誘惑が突如訪れることがあるかもしれません。

ただし、物事は表と裏、陰と陽があるように
タナトスの裏側にはエロス(生きる)があります。

だからこそ、強いタナトスと共存する海里は
『私は弾(戦場での銃弾)に当たらない、私は死なない』
ことを知っていたのかもしれません。

強い感受性故に、創造性が生み出したタナトスに囚われた時
その裏には必ずそれと同等の強い生きる力を持っていることを
忘れないでください。