中性の私が悩む時(基本的に幸せ注意)

「恋人との関係」と「品の良さ」。
この2点について考える時、私はジェンダーについて悩んでしまう。

今や多くの人々がそうであるように、私もセクシャリティを曖昧にしたい人間の1人だ。

生物学的には女。それに疑問を抱いたことはないし、治療を受ける(お金をかける)必要を感じたり覚悟を迫られたこともない。
それはひとえに、周りが常に私のありのままを受け入れてくれてきたからだ。
「男でも女でもなく自分でいる」ということが可能な、理想的な環境で育った。

第二次性徴が顕著になるころ、服を買うのを女性用売り場に移した。このままでは「男の子」ではなく「男の子になりたい人」になってしまうことを自覚したから。

中学までは制服から逃げていたが、高校に入る頃には「性別にこだわる事をやめたい」という意識の方が強くなっていて、紺色のスカートも「拒否るほどのもんでもねえな」という姿勢で履いていた。
あと私服登校の頭の良い高校は普通に落ちた。

フォーマルな場ではドレスコードに特に抗わなかった。
「普通にスーツにネクタイで来たいなあ」とは思っていたが、普段男性的な人間が正装の場でもスーツにネクタイで来てしまうと、周りに対して「私は本当は男なんだ」と主張しているように見えてしまう気がした。
どんなに周りが自然に受け入れてくれようと、余計な主張がこもってしまう格好をしたいとは思えなかった。

まあとどのつまり別に普通の女なのだが。
なんだかこう微妙に微妙に「ジェンダーへの違和感」が常にある。それは世の中の全員そうなのだと思うが。みんな常に「私は人とここが違うなあ」を探して生きているのだと思うが。

・恋人との関係

さあそして、私には彼氏がいる。
異性の恋人だ。
いよいよ普通の女である。

彼は私がどんな格好をしようと特に何も言ってこない。
それは別にセクシャルマイノリティに配慮してのことではなく、単に興味がないのである。
お互い「相手の心根が好き」という所で付き合っている(と思う)ので、それ以外の部分は特に気にしていないのだと思う。
2人ともデミロマンティック(絆が強い人を好きになる)気味なのではないかと私は勝手に考えている。

彼氏の人間ができているので付き合っていて不自由さは微塵もない。惚気けてすまない。

ではなぜ恋人との関係で悩むのか。
それは客観的に「彼氏の彼女」について考える時である。
分かりやすく言えば「彼氏の母親がどう思うか」という視線で自分を見た時である。

ただただ勝手な想像なのだが、やっぱり息子にはかわいい彼女を連れてきてほしいと思うのが母親だと思うのだ。
きちんと大学を出てきちんと企業に就職した、友だちも多い息子なら尚更だ。
それがツーブロの、男か女か分からない服装で化粧もあまりしたがらないような人間を連れてきたらいったいどう思うか。
本当に勝手に想像して怯えている。
早く仲良くなってしまいたい。

お母さんが1番の脅威だが、もっと一般的に、例えば彼氏の友だちから見ても、「へえ、これが彼女…個性的だね…」となる気持ちを想像してしまう。
人並みな感情だが「どこに出しても恥ずかしくない恋人でいたい」という思いに支配される瞬間だ。

一時期悩んでいてもしょうがないと、女性のショートヘアくらいまで髪を伸ばそうとしたことがあるが、常にイライラしてしまってだめだった。
私の勝手な怯えから、勝手に「彼氏のため」という大義名分を振りかざしてイライラしていたら、それが伝播した彼氏に「そんなに嫌なら切りなよ」とぶっきらぼうに言われた。その時は「こいつ人の気も知らないで」と思ったが、結局がっつり切ってしまった。

なんだかやるせない気持ちで「切りすぎた?」と聞くと「うーん…?別にあなたが気に入ってるならそれで良い」と返ってきた。
目から2~3枚ウロコが落ちて、「そうか、この人は見た目において私にどうなってほしいとか露ほども考えてないんだな」と再認識した。

でも堂々巡りだ。

もともと彼氏と1対1の関係においては問題ないのだ。
問題は、彼氏の周りに対して少しでもパス度の高い人間でいたいという私の感情だ。
できるだけ自然に受け入れられたい。セクシャリティとか匂わせたくない。でも髪型や服装や立ち居振る舞いからどうしても主張が滲んでしまう。ような気がする。
すべては杞憂だ。

・品の良さ

関連して、品良くあろうとする時もジェンダーの壁にぶつかる。
小さい頃は純粋に「男の子でありたい」と思っていたが、成長するにつれ「下品ではありたくない」という気持ちが大きくなっていった。

「上品な男性」と「上品な女性」の格好はまったくの別物だ。
古い考え方だとは思うが、私はまだここから抜け出せないでいる。
「中性的で上品な人」というのは存在するが、フォーマルな場(冠婚葬祭、会社など)にそういう人がいると「すごくオシャレな人」になってしまうのではないかと思うのだ。
私はごく自然に、人に余計な疑問を抱かせることなくジェンダーを無視したい。

まだまだ世の中には男性用のものと女性用のものに溢れている。

でも喜ばしいことに「好きなように振る舞う」ことに文句を付けない社会にはなってきている。
私のような思いを持つ者が率先してこの境界を曖昧に、どうでもいいものにしていくべきなのだろうと思う。
そして新しい「品の良さ」を浸透させていけたらこの悩みは無くなるのだろう。

ただ現状私はまだ悩んでいる。

フォーマルな場と言えばスーツだが、男性とまったく同じものを着るという訳にはいかない。

体つきが違うため縫製が合わない。

パンツスーツの女性はいてもネクタイを締めている女性はいない。

男性と同じような革靴は普通、私のサイズでは売っていない。

冠婚葬祭では特に、男性と女性の格好は明確に異なっている。
現状私の感覚としては、スーツは男性の特権だ。
スーツを着た品の良い男性がいたとして、同じ格好をした女性がいたら人は少なからず「ん?」と思うだろう。品が良いとか悪いとか以前に疑問を抱かせてしまう。

そのワンクッションが億劫だ。
私は自分の好きな格好をすることよりも、いちいち余計な疑問を人に抱かせることを避けるためにスーツ以外の服を着ることを選択している。

私服もそうだ。
たとえば夏場、「Tシャツ短パンで品の良い男性」というのは存在する。「品の良い」がピンと来なければ「感じが良い」「好青年」などをイメージしてほしい。
しかしその男性と全く同じアイテムで同じヘアセットを女性がした時に、周囲に同じ印象を持たせられるかというと少し違ってくる。

注記したいのは、私は「女もスーツを着て何が悪い」と言いたいわけではないということだ。「差別は社会にある」という面は少しあるが、社会に考えを改めろと強く言いたいわけでもない。
私自身、大和撫子的な品の良い美しさがすごく好きだし、日本人として守っていきたいと考えているからである。
お茶やお花や日本の武道なんかを習得して、畳に正座でしなやかに振る舞うひとをかっこいいなと思う。

ただその美しさと自分が結びつきづらくて困っているだけだ。その日本的「品の良さ」と「ジェンダーレス」はどうやったら両立できるのか考えている。
自分のしたい格好をすることが最優先なら、今の世の中ある程度のことは許されているし、他人の許しはあまり関係ない。

・まとめ

とどのつまり、自分を社会に浸透させていけば良いのだなあという気持ちになった。
ここに書いた私の悩みの原因は「人に説明するのが億劫」ということに尽きる。
恋人の周囲との関係だって、品の良さだって、私自身を受け入れてもらえさえすれば、そのコミュニティ内では何を気にする必要もなくなる。

そういう努力が繋がって、今やズボンを履いた女性がいても誰も何も思わない。
服装においてはむしろ男性の方が不自由度が高いだろう。フォーマルな場でスーツ以外の格好をしたいと思っている人々もいるはずだ。

とはいえ同時に、この「人に説明しなければならないような感覚」が多くのマイノリティの悩みの本質になるのではないかと思う。
人はなんらかの「当たり前」に囚われて窮屈な思いをすることが多いが、「当たり前」は常に流動的なものなので、臆することなく自分が心地良いようにあれたらと思う。

とりあえず本質的な品の良さを備えてからものを言いたいなあと思いました(小並感)。

読んでくださってありがとうございました。
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