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「自分の問題」にすることで、自分の人生を取り戻すということ -アダルトチルドレンの幸福論2

AC(アダルトチルドレン)の友人と、母の日を経てそれぞれの心境について共有しあっていた中で、「課題を誰のものとするか」という話がでた。わたしはなんとなくの感覚でたどり着いた答えが、彼女はカウンセリングの中で聞いたというものが一致していて、「これはある程度汎用的なのかもしれない」と思ったので、メモも兼ねて書き残しておこうと思う。
わたしがACとして考え続けてきた母との関係性を主にあげているものの、多分これは色々な問題に直面する全ての人に対していえる考え方なんじゃないかなぁ。

わたしたちが抱えるこの問題は「誰」のものか

わたしは主に母親との関係に歪さがあり、けれど当たり前のようにして父や兄も含んだ「家族」が機能不全だった。自覚してはや7年半となるものの、ごく最近になってようやく、この問題を「わたし」のものとして考えようと思えるようになった。

それまではずっと、「母とわたしの関係性」に問題を置いていた。けれどそれだと、「母とわたし」という二者間の合意形成がなくては絶対に解決に至らない。「解決」に必要な要素の中で、「わたし自身でコントロールできる範囲」というものはかなり少なくなってしまう。

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わたしだけがいくら解釈を改めても、気持ちを切り替えても、過去を理解しようとしても、仮に大奮闘を経て「わたし(A)」の範囲が100%クリアされたとしても、「解決」にはBの残り50%が立ちはだかる。自分と母親が同じくらいの姿勢でこの問題に向き合っていればいいのかもしれないけれど、そんなことはほとんどない。さらにいえば、他人というものはなかなか変えられるものでもない。これは相当きつい。自分が頑張っても頑張っても、その成果は目標に対しての「50%」の部分でしかないのだ。

この頃、わたしは「母にわかってもらおう」「母と向き合おう」「母と対話しよう」などといったことを考えてアクションをとっていた。まぁこれも必要なステップだったのかもしれないけれど、めちゃくちゃ疲れる割に収穫は非常に少ない。重さを解消するための行為のはずが、後味も非常に悪かった。やればやるほど、「わかってもらえない」「解決なんて無理だ…」という気持ちになっていく。

無論、めちゃくちゃ疲れる行為なので、7年半の間ずっとアクションをとっていたわけではない。途中完全に心を閉ざして無視していたこともあれば、単純に会わないことで接触をとっていなかった時期もある。自己理解につとめることは基本姿勢にあるのでずっとやっているといえばそうなのだけれど、こちらももちろん濃淡はある。とはいえ、意識・無意識に関わらず、もはやDNAに組み込まれたもののように、わたしはACだ。思考や行動や選択に、ふとした時にそれらが滲み出てきて自覚させられる。同じような自覚のある方はその度にいいようのない虚しさや憤りに襲われると思う。悔しくて仕方がないだろうと思う。だけど大丈夫。わたしたちはちゃんと自分の人生を生きていくことができるし、幸せになることもできる。

わたしは10年かけて書いた母の日の手紙を送って、自分の中にある女性性への被害者意識に気づいて、それらを整理して書き出したあと、ふと「この問題は“わたし”の問題だと思えばいいのではないか」と思った。手紙を書く前からぼんやりと感じていたことではあったのだけれど、言葉としてはまだ理解できていなかったのだと思う。そして、これは決して「わたしが悪いんだと反省する」という意味ではないので、ここまで読んでくださった方にはもう少しだけお付き合い願いたい。

「わたし」の問題にするということの意味と意義

「関係性」の問題にしている限り、自分のコントロールできる範囲は50%しかないという話は先述の通り。つまり、「わたし」の問題にするということは、「そのコントロール範囲を100%自分にする」ということに他ならない。

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これは罪や罰を100%己に向けろということではなくて、ある意味で「相手を捨てろ」ということだ。言い方を変えると、「人生から相手を切り離せ」ということかもしれない。

あなたはなぜ、その問題を解決したいと思っているのだろう。
苦しいから?悩んでいるから?悲しいから?

では、
今、あなたが苦しんでいるのは誰の人生だろう。
今、あなたが悩んでいるのは誰の人生だろう。
今、あなたが悲しいと感じているのは誰の心だろう。

答えは「自分」。ここに「親」なんて出てこない。
わたしたちは、「自分」という人生しか生きていない。

「自分」という存在は、本来100%自分が司令官であっていいはずのものだ。けれど、わたしたちACは幼い頃からその主導権を奪われて、あるいは失ってきた。

だから気づきづらいのか、もしくは忘れてしまいやすいのか。少なくともわたしはずっと、このどシンプルなことに気がつかなかった。わたしの悩みは、わたしのものでいい。だからその扱い方も、わたし自身が決めたらいい。

「関係性」の問題にしているままだと、自分という人間の主導権を明け渡したままでいるということと同じにならないだろうか。だってコントロール範囲が50%しかない。悩みも苦しみも悲しみも、感じているのは「わたし」なのに。「わたし」の人生を幸せにするために、わたしたちはこの問題とも向き合いながら生きているのに。

「わたし」の人生の問題を、0にするのも100にするのも「わたし」だ。それでいいし、それしかない。

何に幸せを感じ、何に喜びを抱き、何に悲しみを添え、何に憤るのか。それらを選択するのは「わたし」で、「わたし」が「わたし」のあり方を100%決めればいい。親も友人も仕事もパートナーも、外の要因はすべてきっかけでしかなく、自分の人生の意思決定の瞬間には他人は関わらない。人生のすべては自分で決断していくことができる。そうする以外の方法はない。

余談だけれど、わたしは過去に「自分の生死くらいしか自分の意思で扱えるものはないのだな」と感じているときがあった。だから死のうとした。
人生のすべての主導権を親に奪われてコントロールされているような無力感の中で、自分という空っぽの存在の虚しさに苛まれ、せめて死くらいは、最後に残された唯一の「自分」のものとして、自分の手で選びたいと思ったのだ。だけど、本当は死以外だって、自分の手で選んでいくことは許されているらしい。どうやって幸せを感じるのかも、何に喜びを感じるのかも、何をしたいと言うのかも、何を食べるのかも、誰を愛するのかも全部自分で選べるそうだ。すげーな人生ってやつは。

自分の人生を幸福にするための決定を

そんな今更すぎる気づきを得て、「じゃあもうさっさとわたしの分の問題は終わらせちゃいましょう」と思うようになったのがここ数日。拗らせた関係性の問題をずっと握りこんでいる限り、その手では他のものを何も手に取れない。「自分の人生」に身体と視点をおろして考えてみたら、そんなの何の意味もないし、全然ハッピーじゃなかった。自分の意思だけじゃ手放せないと思っていたものが、自分の意思ひとつで手放せるものだったと気づいた途端に、それ自体の見え方もガラリと変わった。まるで催眠術みたいだ。

これまでずっと握りしめていたものを、一度手のひらを開いてちゃんと眺めて、観察して、その色形をちゃんと理解した上で、箱の中にしまっておこうと思った。

大事なのは、「なかったことにする」わけじゃないということ。「忘れて許す」なんてことでもない。そんなことをしたって、わたしたちはもう体験してしまっているし、幼い頃からこの心身に刷り込まれてしまっている。残念ながら、その事実を消して「なかったこと」にはできない。無理やり忘れたふりをしたって必ずどこかで滲み出てくる。わたしもこの7年半でよく知っている。

だけど、それもまた「わたし」じゃないか、と思う。
そうした体験を経てきた自分こそ、今人生を生きている「自分」だ。
ダメなところもいっぱいあるけれど、それなりにいいところだっていくつかはある。(いいところを一個も見つけられないという人は、ほめるBARにきてくれたら絶対に見つかるのできてください笑)

だから、この握りしめていたものとも共存して生きていくと決めよう。

事実は事実として確かにあった。寂しさも悲しみも怒りも、やりきれない思いも苦しさも、全部確かにそこにあった。

それを認めて現実を見た上で、わたしは「それじゃあここからまた関係を構築する」ということにした。

現実を変えるのはいつだって自分だ。やりたいことがあるならやればいい。わたしは、やっぱり本当は家族と仲良く話し合える関係性を望んでいるし、一緒に買い物に行ったりとか、「あのケーキおいしそう」なんて話をしたりとか、笑いながらご飯を食べるみたいなことをしてみたいと思っている。母の作る料理の味を教わったりだとか、両親の昔の話を聞いたりだとか、父の仕事の話だってみんなで聞いてみたかった。ちゃんと目を見て「いってきます」が言える人間になりたかったし、多分、今だってそうなりたい。

どうしてそれらを諦めてしまっているんだろうとふと思った。そう思えるようになるまで随分時間がかかったけれど、思えたならやればいい。強いからとか弱いからとかじゃない。誰もが今生きている人生は「自分のもの」ならば、良くも悪くも、その人生について「選択」や「決断」という行為ができるのは自分だけなのだ。

これはわたしによる、わたしのための、わたしの人生を幸福にするための決定だ。

わたしたちは、自分の人生の問題を誰かに明け渡してはならない。もちろんそれは「頼るな」とかいう話ではない。自分の問題として扱うからこそ、時には「頼る」という決定も自分でしていいという話。

大抵のことの根本はシンプルだ。自分の人生をきちんと引き受けて、幸せに生きていきたいなぁと思う。

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