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ストレスに正対してみません?

心理学の講義にて

今日、心理学概論という講義があり、その中でDVDを鑑賞しました。内容はうつ病患者に対する行動療法についてでした。専攻は心理学とは全く関係のない政治学です。
導入を終え、専門的な内容に入ったあたりから講義に置いて行かれていた僕は、今日も講義より退屈凌ぎを考えようとしてました。
いざ、DVDが始まり患者の方が心の病に至った経緯についてのインタビューに答えていました。その方はコールセンターの仕事が原因で、それについてあれこれ話していました。

それを聞いて僕、思いました。

え?もっと上手いことストレスを
どうにかできんかったか?


失礼な話ですよね。
その仕事を経験していない僕が偉そうなことを言えたもんじゃない。
ですが、ストレスは社会の中に身を置いている限り、僕たちとは切っても切れない関係にあるのは事実でしょう。
ならば、他人事ではないぞ。
心理学者にとってはストレスへの向き合い方なんて朝飯前なんでしょうけど、僕たち一般ピーポーにとってはそんな簡単なテーマではありません。
現に悩んでる人がいるかも知れない。
その問い、引き受けた!!
謎の使命感。

難しいからこそ考える甲斐がある!
良い問いは良い答えにまさる!!
よし、講義内容に付いて行けないなりに有意義な時間を過ごしてやるぞ!!!

てな訳で、自分なりのストレスへの向き合い方について考えてみました。

これで単位貰えればいいのに、、


さぁ、本題へ参りましょう。

ストレスへの「向き合い方」

冒頭でストレスへの『向き合い方』という言葉を用いたのには理由があります。一般的に言われるストレスとの『付き合い方』という言葉はストレスが起こり得ること、ストレスの蓄積を前提にしているのではないかと感じたからです。

よく、ストレス発散、ストレス解消という合言葉のもと様々な方法が生み出され多くの人が取り入れていると思います。僕自身、カラオケに行くのもそれが目的です。一回生の頃はジャンカラの半額クーポンが出る度にカラオケオールしたもんですわ。
ストレス発散は大切です!
時間が解消してくれる量なんて、たかが知れてますから。

ただ、それって医学で言うところの対症療法なんだと思います。その場凌ぎの応急処置です。この対症療法の治癒力をストレスが上回ったときに心の病に陥るんだと思います。
これは受動的な態度で、ストレス源から解放されることはありません。
ストレスに至る前のストレッサーに対する行動、根本治療になっていないからです。



基礎編~ストレスの根本治療~

僕の考える根本治療について話します。
まず、人間の感情って、そのほとんどは理想と現実の乖離、コンフリクト(葛藤)という形で説明できるらしいですよ。
この講義も初期は真面目に受けてたんです。

ストレスって感情ですよね?
ストレス感情って言葉も存在するくらいですし。
これを用いて、ストレス感情は理想《自己と他者が上手く噛み合った状態》と現実《???》のズレによって引き起こされると仮定します。
そうすると、現実が理解できていないことに原因があると考えられます。

このメカニズムを基にすれば、フロイトの適応機制で言うところの合理化によってストレスを和らげられそうじゃないですか?
僕自身、感情的になるのはダサいって思って21年間生きてきたのでもう身体に染み付いちゃってます。自分が冷たい人間に思えて寂しくなることも、、って自分語りは置いといて。

合理化:満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させること。
(以下URL,Wikipediaより)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/防衛機制


つまり、僕が考える根本治療とは様々な考え方や価値観の理解や応用によってストレス源を受け流すテクニックです。
だからストレス耐性の鍛え方も根性論、精神論的なものではなく、知性的なものだと思います。


応用編 ~日常に潜む理不尽~

例えば、『理不尽な怒り』をぶつけられることって多々ありますよね?ストレスフリー社会を叫びながらも『理不尽』は付き物です。これが現実です。バイトなんかで社会を垣間見しただけでも分かります。

もし、こんな経験したことないですぅ〜なんて人がいればコメントください。理不尽な罵倒を浴びせて差し上げます。

この『理不尽な怒り』を分解してみると、
この時ストレスに感じているのは『怒り』ではなく、『理不尽な』の部分だと思います。なぜ理不尽であると感じるのか、相手にとってはそれは合理的なのかもしれない。どういった理屈で怒っているのかについて掘り下げていけば、
やり場のない感情も自分なりの理屈によって支えられ、多少なりともストレスは和らぐのでないかと考えます。



少なくともこういった考え方を基に日々暮らしていけば『理不尽な怒り』を向けることも無くなるでしょうし、ストレッサー側になることも減っていくのではないかと思います。
『理不尽な怒り』だって合理性を持たせれば『叱り』ですしね。

ハッ!もしかして、、
この理解力こそが相手の精神的実体を包み込むような包容力に繋がっていくのかもしれない、、
悟った。今なら宇宙をも包み込めそうだ。


Be a 菩薩

こんな風に寄り道しながら、やんわりとストレスへの『向き合い方』について講義中に考えてみたんですけど、
これって、社会的責任が猶予されたモラトリアムならではの理想論に過ぎないんでしょうか。
だとすれば、こんな社会に用はない!!
なんてニートに逃げる訳にも行かないのが現実。
辛い。すでに辛いんですけど。ズーン。

しかし、
ここで逃げたらピーターパン。
目指すは菩薩。
今のうちに、社会のストレス源を受け入れられるような器でも作っときますか。

菩薩は1日してならず。

ですよ。

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