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精神疾患についての雑感

今日も見てくださりありがとうございます。今日は障害受容についてです。

特に断っておくと、精神障害での障害受容の私見です。
薬剤性パーキンソニズムのこともあり一部減薬です。
他の方のツイートを見ていて意見は色々あるとは思いますが、暗澹たる思いをしました。確かに、精神疾患を持っていて健常者並みの自立したい方もいます。でも私は疾患を否認していた頃を思い出したのです。

上記は精神疾患の残した障害についてです。
では、精神疾患でなく身体障害だけだったらどうなのでしょうか。障害には変わりありません。乙武氏だって校庭を這いずり回ったと自著に書いてます。それがどういうことか。健常者並みに張り合うとそうなりませんか?受容は必要と私は思います。

こういう話題ですから、意見百出で尤もだと思います。
でも、他人の領域にまで踏み込むことには私だったらためらいを覚えます。
私も踏み込まれたと感じたので、このツイートを立てました。


目指すところは、
「完治」ではなく
「寛解」でいい。
0にならなくても、0に近いところでなら生きていける。そう感じて生きてます。

@miu35miu35 さんのツイートから。

ストロングゼロよりもあとから利く冷や酒。


これはたとえです。簡単に入れる教義よりも頭を使って考え続けることも大事です。障害の受容に手間取ると耳に心地よいことが残るようになりがちです。時間は後戻りできない、今をイキイキ生きること、それが受容にも大事だと私は思います。

減薬、退薬、拒薬……受容のプロセスでどうしてもぶつかってしまう壁です。いずれも繰り返すと再発も繰り返され、望んでいる回復の水準まで戻りにくくなります。恥や外聞ではなく、薬は必要だから出ているのです。

トリガーは千差万別


症状について書きましたが、症状が出るということは原因があるというわけです。つまり、引き金、トリガーがあるということです。
そのことについても書いていきます。

古い人間で申し訳ない。学生の頃、中道左派的発言をして左派の中で吊し上げられた覚えがよみがえる。あれは若気の至りか、若いとは恐ろしいものだった。仲間はずれは保守色の強い土地で仕事をした頃にも遭い、その時はあぶり出しを食らった。この国で生き抜くのはどんなに私より醜い人々か。

そう考えると、私よりも年上で苦労も顔に出さない人達とはたとい、親戚だろうと、簡単に寄りついてはいけないという思いにさせられる。あらためて、りつ然とする。

筋を通せば何とやら。そういうことです。

たとえば職場でハラスメントの相談は内部でなく外部にしなければ解決しにくい。友達に愚痴るのはNG。内通していると思って間違いない。経験則から。その組織に居残りたいなら外部に相談すること。(留まるに値しないならその限りでなし。生活がかかっているならより慎重、周到に。)

その当時の内部の人達。私と個人的に仲良くするためかどうか分からないが、年賀状だけは毎年くる。気味が悪いから先方からくるのを待って出している。もう外部の人だからという思いと、人として信義則のようなものがあると思う違和感がせめぎ合う。

あと半年経つとまたクリスマスと年賀状の季節がやってきます。


苦しいこと悲しいこと消し去る「ように」です。
願望でなく様態の「ように」と私はとっています。
キリスト教では罪が救いの種、仏教ではこの世の一切は苦であり四諦八正道がある、等々といいます。

どうにもできないことがあるから、何かひとつでも思い通りになればそれが生きる力になる、私はそう思いますよ。

今日はここまでです。読んでくださりありがとうございました。

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