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3.12

こんにちは、光太郎です(@kouta_minimam)。

あえて3.12の今日に、3.11のことについて記事にしていこうと思う。

それは、もちろん当日は記事にしたり取り上げたりはするんですが、1日たった今日は何食わぬ顔して日常に溶け込んでしまうことに少し違和感を覚えたので、ちゃんと今日も日本人として考える機会をもうけたかったので今日、書いていきます。

文章を書くのが苦手な僕が難しいことを書いていきますので、変な文章でもご容赦下さい。

3.11

たくさんの人達が犠牲になった東日本大震災から昨日で11年経ちました。

時間が来たと同時に、手と手を合わせ、頭の中で思っていることを天に打ち明けました。

11年。

長いな〜、、。

みんなに平等な時間と機会が与えられているこの日常の中で、急に訪れる抗いようもない大災害に現実を奪われていった3.11。

こうやって時間を肌で感じることもできなくなってしまった人も沢山いるんだ。

でも、この災害で人間が得た知見も沢山ある。
あの日を境に、建築基準法も耐震・免震・制震といった面で改正をされていった。学校では今までよりも避難訓練も沢山するようになった。

細かく時代を刻んで見れば、本当に痛ましい大災害に見舞われてしまった当時の日本。

その悲惨さをしっかり理解し踏まえた上で、僕が片隅に思っている事がある。

それは、この大災害によってこれからの尊い命が救える貴重な知見・経験を先に得られたことで、日本史において非常に意味のある災害だったという事。

この地震が来る前までは、住宅の規制が本当にゆるゆるで、震度4くらいでも壊れてもおかしく無いような法律のもとで全ての住宅が建設されていた。地震を耐えるような機能もほぼ全く無い箱の中でみんな過ごしていたのだ。

ここは島国だから、地震が多いのはみんな理解していたが、20世記になってこんな大災害を経験していない日本人は、少し地震に対して平和ボケしていた可能性も無くもない。実際、当時の僕もそうだったから。

当時の僕は小学3年生で理科の授業の真っ最中だった。

もちろん僕はこの後起きることなんて知らないから、いつも通り楽しく実験をしていた。そんな中で、いきなり何の躊躇もなく襲いかかってくる大地震だった。

震源から離れていたのが唯一の幸いで、ものが倒れるくらいで収まったが、もちろん経験した事がない規模の地震だったので、子供だった僕たちよりも大人がすごい焦っていたのを鮮明に覚えている。それがすごい怖かった。

こうやって大人になるまで、何回も思い返さなければいけない機会があって。こんな僕の地震に対しての記憶に対して、震源付近の、生存して今必死で生きている人たちは、僕が想像もつかないような、本当に凄まじい記憶が脳内に記録されているんだろう。

きっとまたこういった大災害は訪れる。日本という島国に住んでいる限りそれだけは免れない事なんだ。

でも、人間は経験したことを活かす事ができる生き物だ。

建物も進化した。
人間の地震に対する見方も変わり、子供ですら自分一人で避難できいるように今は教育されている。

悲劇を悲劇のまま置き去りにして終わらせてしまうのではなく、しっかりとみんな次のステップへと確実に成長している。

僕も今描いている夢をいきなり壊されないように、しっかりと現実と向き合って生きていこうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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