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純愛批判~「あなただけを愛してる」は本当に尊いのか?~



0.はじめに

J-POPなどでは盛んに、
「君だけを愛してる」だの
「愛したのはあなただけ」だの、
あたかも、
「自分の恋愛対象はあなたしかいません」
というようなことを主張している。
そして、その歌詞に「共感する」「心に響く」「グッとくる」という感想を持つ人がテレビのインタビューで紹介される。
そう。現代日本の地上波歌番組でよく見る光景である。
せっかくの歌番組なのだから、もっといろんなジャンルの曲を紹介してほしいものだが、どうもラブソングばかりなのは辟易する。私も老害予防のため、新しい歌も聴いてみるかとテレビをつけることもあるが、これでは聴いていられない。

だがまあ、その方が視聴率が取れるのかもしれない。下半身的欲望を煽ったほうが商業的には成功する確率が高くなるのだろう。それはどの産業も大して変わらない。化粧品の広告は美人が担当するし、少年漫画には下半身に訴えるような「サービスシーン」がある。別に美人が宣伝したところで化粧品の性能が上がるわけではないし、サービスシーンがなくても話が破綻することはないはずだが、そうしないとユーザーはついてこないのだろう。
ああ、この世は悲しいものよ。

それはともかく、今回は、
「誰かひとりを好きになること及びその相手と生涯寄り添うこと」
が美徳とされる風潮(純愛主義)に異議を唱え、かつ、
「好きな人が複数存在することや、寄り添う相手が場合によって変わること」
が不純・不謹慎とされる風潮にも異議を唱えたい。
まあ実際には現代人の価値観も変わってきているとは思うが、芸能人の不貞行為が強烈に非難されるあたり、上記の風潮も払拭されていないように思われる。
しかし、価値観が一元的に定められている社会は、はっきり言って健全とはいえない。人間は複雑怪奇な生き物であり、単一の物差しで測ることはできないからである。
そのため、今回も性の多様性を認めるべく、私の考え方を披露したい。参考にしていただければ幸いである。


1.一夫一妻制の起源に関する仮説

まず、純愛主義が成立する前提として、その社会が一夫一妻制を採用している必要がある。なぜなら、一夫多妻や一妻多夫では
「好きなのはあなただけ」
という言葉は成立しないからである。そんなことを言われたら他の配偶者は悲しくなるだろう。せいぜい、
「好きなのはあなた【たち】だけ」
と言える程度だ。

では次になぜ一夫一妻制が誕生したのか、私なりに仮説を立てて考えてみる。
かつて、一夫一妻制を採用しない社会があった。それはヨーロッパの王族や日本の貴族、将軍などだ。彼らは複数の女性と関係を持っていた。なぜ、彼らは一夫一妻ではなかったのか?
それは、結婚の目的や動機が今とは違ったからである。

かつての上流階級における結婚は、たとえば「権力を継承する後継ぎを遺す」ためであったり、藤原道長のように自分が権力を握るための政略結婚だったりした。もし、妻を1人しか娶れないとすると、後継ぎを遺せなかったり、(天皇と結婚させるための)娘が産まれない可能性があるからだ。
つまり、上流階級においては一夫多妻制に準じた制度を維持する理由があったというわけだ(現代から見ると娘を権力の道具にするのはかなりひどい話に見えるが)。

では、庶民(農民)はどうだったかというと、こちらは古くから一夫一妻だったと思われる。さらに、自由恋愛による結婚などはなく、時期が来たら決められた相手と結婚させられていたと考えられる。
農民が自由恋愛、一夫多妻制を採用するとどうなるか。おそらく、多くの女性は収穫高(収入)の多い農家の男性と結婚しようとするはずだ。その方が良い暮らしができるからである。もしくは、イケメンの男性と結婚しようとするかもしれない。
とにかく、一部の男性が女性を独占・寡占してしまうと予想できる。
そうすると、結婚できない男性が出てきてしまい、その家では後継ぎを遺せなくなってしまう。それは困るという理由で、自由恋愛や一夫多妻制が否定されてきた。

と、いうのが私の仮説である。
仮説だから間違っている可能性もあるし、他にも一夫一妻制が採用された理由はあるだろう。
しかし、とにもかくにも何らかの合理性がある、と考えられてきたからこそ、現代でもこの制度が残っている、というのは間違いなかろう。


2.一夫一妻は現代でも通用するか

そういうわけで、今日まで一夫一妻制は継続してきたわけだが、果たしてこの制度は現代社会にも適合した制度といえるか、それが問題となる。
結論から言うと、
「適合する側面もあるが、適合せずに歪な問題を引き起こしている側面もある」
となる。

まず、現代では貨幣経済が発達し、道路や流通網が整備されている。そのおかげで、働いて貨幣を稼げば、自分で農作業を行わなくても農作物を手に入れることができる。他の生活必需品も同様だ。
職業選択や居住の自由も保障されるようになり、農村で産まれてもそこから一生出られない、ということがなくなった。都市に出てサービス産業を行い、貨幣を稼げるようになった。そしてその貨幣を使うことで自由に商品・サービスを買うことができるようになる。
農家も作業を機械化することができるようになった。また、医療技術も進歩し、病気が治る可能性も高くなった。
そのおかげで高齢になっても農作業を続けることができるようになり、後継ぎは必ずしも必要なくなった。健康な人なら、生涯現役農家も夢物語ではない。

こうした技術革新に加え、個人主義をベースとした人権思想が広まると、自由な恋愛や結婚も行われるようになり、それまでの恋愛や結婚は「前近代的」「抑圧的」なものとして敬遠されるようになる。まあ自由化されたら天国かといえば、新たな競争や選別が生まれて問題が起きたわけだが。
閑話休題。
現代においても、1人の男性や女性が異性を独占・寡占することはあり得る。というか普通に起きている。だから、その意味では一夫一妻制による独占・寡占の防止に一定の意義を認めることは可能だろう。
しかし、だからといってそれで問題解決というわけではない。

元々一夫一妻制は政治的・経済的理由で始まったものにすぎない。しかし、現代では一夫一妻制が自由主義と手を組み、あたかも
「自由恋愛によって異性1人と結婚し、生涯寄り添うことこそ正義。他の異性と関係を持つのは邪道」
という風に捉えられ、本来の趣旨が見えにくくなっているように思われる。

一夫一妻から生じる問題として、不貞行為がある。結婚すると配偶者以外とは性的関係を結ぶことができず、結べば不貞行為となり損害賠償を請求されたり、離婚させられることもある。
で、不貞行為はなぜ起きるのか私なりに分析すると、何らかの事情で配偶者との性的行為ができなく(したくなく)なり、その欲望が現実の誰かに飛び火したため、となる。
もちろん、夫婦関係は別に悪くなく、単なる出来心で行われる可能性もあるが、その場合は寛容の精神があれば関係修復も可能だろう。少なくとも、関係が破綻している、もしくは破綻しかけている状態で行われるよりは関係改善の見込みはあると思われる。
ここに一夫一妻制が抱える形容矛盾がある。つまり、結婚には本来、
・性的欲望の対象を1人に絞らせることで、社会における不毛な争いを減らす(複数配偶者を持てるとなるとそのポストを巡って争いが起きる可能性がある。遺産争いなどもそう。)

あるいは、

・国家・社会における性的関係の保障(配偶者とは性的関係を結んでも許される。性的関係を断り続けると離婚原因となるため、事実上の間接強制により、性的欲望の満足を保障)
という効果があるはずなのだが、それが機能するのは、夫婦が健全な関係を維持できている場合だけだ。

つまり、夫婦喧嘩などで関係が悪化すると、相手との性関係が希薄化し、性的欲望のみが宙に浮くような形で、処理されないまま残る。しかし、その欲望をどう処理すればよいか結婚制度は答えていない。
だから、何らかの形で性的欲望を処理しない限り、必ず一定数の人間はその欲望を誰かに飛び火させ、不貞行為が行われることになる。
この問題の解決法としては、バーチャル空間などでの性的コンテンツを充実させることのほか、結婚に際して、
「夫婦の性的関係が破綻しかけたとき、どうするか」
ということを話し合い、覚書のようなものを交わしておくことなどが挙げられる。

たとえば、基本的には互いに貞操義務を負うが、夫婦の関係が冷えきっていて性的欲望を満足させられない場合のみ、家庭を蔑ろにしない範囲で別の誰かと関係を持ってもよいことを特約で承認するなどの方法がある。
あるいはもっとフリーダムにいくなら、貞操は努力義務であって義務ではない、として婚姻の段階である程度性的自由を認めておくことも視野に入るかもしれない。

もちろん、これはこれで問題が発生しそうだし、私も性の自由化を急進的に推し進めようとは思っていない。
けれども、関係が冷えきっているのに貞操義務だけ負わせると、いろんな不都合が生じるのもまた事実だろう。このあたりは議論の余地がありそうだ。

結婚制度も画一的なものではなく、夫婦で自由にカスタマイズできるようにした方が、もしかすると今の時代には合っているかもしれない。


3.下半身が先か、恋愛が先か

この章では、人間は恋愛の結果として、下半身的欲望を満たそうとするのか、それとも、下半身的欲望がまず先にあって、それを満たすために恋愛をするのか。いわゆる「鶏が先か、卵が先か」問題について考えていく。
一般的には、前者が先だと考えるだろう。しかし、私は後者の方が実態に即していると考えている。その理由を説明しよう。

そもそも、恋愛に下半身的欲望が付随しないことはまず起こらない。なぜなら、下半身的欲望は恋愛の必要条件だからである。結婚の場合は、たとえば玉の輿結婚のように純粋な金銭的欲望が動機になることもある。しかし、恋愛の場合は下半身的欲望に拠らずに成立することは基本的にないと考えていい。
「始原お遊戯」はもちろん、「手を繋ぐ」「見とれる」「仕草がかわいいと感じる」といった欲望や心の動きは全て性的欲望に基づいている。こうした欲望が一切ない状態での関係なら、それは恋愛ではなく友愛(友情)と呼ばれる。よって下半身的欲望は恋愛の必要条件である。

これに対し、下半身的欲望を満たそうとするとき、同時に相手に対し恋愛感情を抱いているとは限らない。極端な例は性犯罪だ。あれは自分の欲望を満たすために相手を道具として使っており、そこに恋愛感情はない。

つまり、下半身的欲望がなければ恋愛は成立しないが、恋愛感情がなくても下半身的欲望は成立するのである。よって私は、恋愛を原因、下半身的欲望を結果と考えるのではなく、下半身的欲望を原因(目的)、恋愛は手段と考える。
そして、これが最初の問いである
「純愛主義は本当に尊いのか」
に対する答えとなる。
答えは否、だ。
以下、さらに詳しく考察していこう。


4.プラトニック→ロマンチックイデオロギーの問題点

性的行為の伴わない男女の関係は、俗に「プラトニックラブ」と呼ばれる。これに対し、「性的行為は愛情を感じた相手とのみすべきである」のような「性」と「愛(感情)」を観念的に一致させようとする考え方をロマンチックラブと言う。
このような考え方が生まれたのは近代以降だと思われる。かつては結婚に明確な目的があり、恋愛と結婚は分離していた。だから、結婚は結婚、恋愛は恋愛で味わっていた。たとえば、既婚者が愛人を囲うことも普通に行われていたらしい。今から見ると違和感を感じるかもしれないが、恋愛と結婚とで目的がそれぞれ違うのだから、当然といえば当然だ。

しかし、近代では自由意志による恋愛→結婚が喧伝される。それまでの結婚は、社会の都合で上から押し付けられた側面が強かったからである。これにより、結婚にも自由競争が持ち込まれるようになった。
そうなると、目当ての相手と結婚、あるいは「お遊戯」をしたいと思った場合、最初から露骨に、下半身的欲望を相手に向けるのは得策ではなくなる。
なぜなら、相手からすれば、いわゆる「やり逃げ」のように使い捨てられるリスクが発生し、警戒されるからだ。

よって、最初はあたかも下半身的欲望が「無いかのように」振る舞う必要が出てくる。さらに、他にも下半身的欲望の対象がいることが相手に知られると警戒されるため、そうした相手はいないかのように振る舞わなければならない。
これがプラトニックラブ・イデオロギーの起源だと私は考える。

要するに、「本当は他の子とも【お遊戯】したい」というのが本音なのだが、それを露骨に表明すると、相手と「お遊戯」ができなくなるため、建前として「君だけを愛してる」と言う必要がある、ということだ。
で、プラトニックラブのままでは「お遊戯」ができないので、そこからロマンチックラブ・イデオロギーへと移行する必要が出てくる。
つまり、交際によって相手の警戒心を解き、「愛が深まった」ことを許可証に相手との「お遊戯」を始める、という感じだ。
そして、その許可証は「相手のみを愛する」ことを条件に発行されるため、他の誰かと「お遊戯」した場合、契約違反として制裁が加えられる。
これが、近代以降の男女の「お遊戯」プロセスの一環である。

で、見て頂いてわかった方もいると思うが、このイデオロギーには無理がある。なぜなら、本来分離していたはずの「性」と「愛」を無理やり観念的に一致させているからだ。素朴な実感として、性的欲望が向かう対象と、愛情(感情)が向かう対象は一致するとは限らない。
先日、「私の恋愛が終わった日」という記事を書いたが、そこで私が「性」と「愛(尊敬)」の分離を経験したことを話した。
つまり、それまで下半身的欲望の対象だったはずの「手紙の少女」が、人生の方針を指し示す「英雄」になったため、その対象から除外され、感謝と尊敬の念のみを抱くようになった、という話だ。

まあ、これは私の特殊な例かもしれないが、他にも例ならいくらでもある。
たとえば、優しくて素敵な人だが、別に性的な欲情を惹起されることはない人もいるだろうし、性的欲望は刺激してくるが、性格に問題があるので人間的には好きになれない相手もいるだろう。
もっといえば、同じ相手であっても、「今日の相手は綺麗だけど【お遊戯】はしたくない」とか「【お遊戯】はしたいけど今日はかわいくないな」という感じで「性」と「愛」の分離は起こる。
こうした例を見るだけでも、「君だけを愛してる」論に無理があることが容易に見てとれる。この言葉を正確に言い換えるなら、
「条件が整えば、君だけを愛する可能性がある」
となる。
つまるところ、条件が整わなければ他に浮気してしまう可能性がある、ということだ。
下半身的欲望こそ偽らざる本音であり、恋愛はそれを満たすためのツールにすぎない。
私はこれを「恋愛道具主義」と呼んでいる。


5.幼なじみ×三角関係の悲劇

ドラマでも映画でもゲームでも小説でも、およそ恋愛を扱う作品によく出てくるのが「三角関係」である。平たく言えば1人の男(女)を巡る争いだ。よく扱われるということは、それだけ恋愛において不可避の問題ということなのだろう。レアケースならそんなに頻繁に扱う必要はないからだ。

で、この三角関係が「幼なじみ」あるいは「腐れ縁」のメンバーによって発生する場合もある。その場合、
「友達以上恋人未満の関係から、さらに先の関係へと進もうとする、大人の階段を昇る主人公たちの成長物語」
のような美化した描き方がなされる。
しかし、よくよく考えてみれば、これは悲劇以外の何物でもない。

当事者達が既に第二次性徴期に入った時点で初めて巡り会ったのであれば、既に下半身的欲望が増幅されているので、悲劇というよりかは単によくあること、で片付けられないこともない。
けれども、幼少期からの関係だとすればどうか。
それまで仲睦まじく遊んでいた少年少女が「下半身的欲望」に毒されてエゴイズムに感染し、争いを始めるのは冷静に考えて美談として語れるものではなく、悲劇としか言いようがない。
そうした物語では3人のうち、1人側の方が

「◯◯と自分のどっちが好きなんだ?!はっきりしてくれ?!」
という風に迫られるシーンがしばしば描かれる。
一見正当な要求に見えなくもないが、この要求はそもそも的外れであるし、何より残酷で野蛮とも言える。

「どちらが好きか決めろ」という質問は、「どちらが上位互換(下位互換)か答えろ」という意味である。なぜなら、この質問に「どちらも同じだけ大事」と答えることは質問者が許さないはずだから。
しかしそもそも、自分にとっての相手の価値を決める場合、その価値が絶対的に決まることはあり得ない。相対的にしか決まらないはずだ。
「Aの方がBより(全てにおいて)優れている」などと判断することはない。
「◯◯はA、△△はBの方がいい」という具合に相対的な基準で判断するはずである。
なぜなら、それまで3人で平和的に遊んでおり、多少の優劣はあるにせよそんな露骨な判断はしていなかったはずだから、というわけだ。

相対的にしか決まらないものを、絶対的な基準で決めろというのは、あたかもリンゴとカレーライスはどちらの方が役に立つか、という問いをぶつけているのと同じである。比較対象として成立していないため、比較しても無意味なのだ。
しかも、先述したように人間の気持ちは時と場合によって変わるから、
「◯◯の方が(絶対的に)好き」
ということは原理的に不可能としか言いようがない。

私が何度も主張している恋愛の傲慢性は、このように、平和的な幼なじみの関係が野蛮な三角関係に変化したとき、最も顕著となる。


6.純愛主義からの脱却~私の場合~

さて、ここまで
「性関係を結ぶ相手は、愛情を感じる1人であるべきだ」
という純愛主義の問題点を取り上げてきた。最後に私の事例をヒントに、この問題点への回答を試みたい。

「恋愛が終わった日」の読者の中には、もしかすると
「1人の女性を(形はどうあれ)長く想うなんて、素敵な純愛ですね😊」
と思った方がいるかもしれないが、それは残念ながら大きな勘違いである。
あれはたまたま「ああなった」にすぎない。それは、私という人間の本質を見ることで明らかになる。

もし仮に、電話の少女が私と「手紙の少女」を引き合わせてくれ、しかも「手紙の少女」が性的に奔放だった場合、どうなっていただろうか。
私はその人と性的「お遊戯」を行い、普通の男として生き、今回の記事も書かれなかったであろう。なぜなら、私は人生の初期段階からかなり強い性的欲望に悩まされてきたからだ。つまり、相手からアプローチがあれば承諾していた可能性が高いのである。まあ、運命はそうならなかったが。
「女には恵まれなかったが、女の子(女性)には恵まれた」
と書いたのはそういう意味である。

たしかに私は「手紙の少女」から多くを学んだ。今でも最大級の感謝と尊敬の念を抱いている人物であることは間違いない。
しかし、彼女はあくまで「観念的」な存在であり、実在的なものではない。「手紙」→「教訓」→「行動」というように、いくつかのプロセスを経て私の中に取り込まれた思想であり、それを比喩的に「英雄」とか「伝説の少女」とか呼んでいるにすぎない。生身の人間ではないのだ。今生きているその人はあくまで「ただの同級生、昔の知り合い」である。もちろん、本人に対する感謝の気持ちもあるが、大事なのは教訓やそれに基づく行動である。

つまり、「伝説の少女」から教訓は得られるが、リアルな会話や交流は得られない、ということだ。それは現実の女性からしか得ることができない。
いくら素晴らしい教訓があっても、それだけで生きることはできない。必ず現実の誰かと接点を持つことになるし、そこでの会話や交流も人生に必要かつ重要である。
では、当時の同級生はどうだったか。

これは当時に限らず、私の人生全般に言えることだが、私は同級生の女性に恵まれてきた。元々内気、あるいは陰キャ(高校以降)な性質を持つ私だったが、女性陣から迫害を受けた記憶は特にない。
そんなの当たり前だと思うかもしれないが、毎年いじめ問題で何人も自殺している人がいるのを見れば、決して当たり前ではない。

私が、良くも悪くも変わった人に見えたから興味の対象になったのもあるかもしれない。恋愛の対象には残念?ながらならなかったようだが、同級生として普通に接してくれた。これは非モテの特権かもしれないが、私の関心を惹くために媚びたりする人もいなかったように思う。自然体で接してくれた気がする。
それは誰にでもある日常の1コマで、特に意識する人は少ないかもしれない。しかし、今の私にとっては大きな財産である。
学校祭の手伝いを頑張ってくれた女性もいる。私が苦手だった家庭科の裁縫を、居残って手伝ってくれた人もいる。リコーダーを上手に吹く人がいて、その人に追い付き追い越そうと頑張ったことで私もリコーダーを吹けるようになった、そういう思い出もある。
「伝説の少女」発見前も後も、そうした優しき人たちに囲まれて私は生きてきた。
もちろん、その時々で意識する相手、しない相手はいたが、常にいろんな人から支えられてきたためか、特定の誰かとだけ親しくなることは結局なかった。
こう考えると、恋愛に不向きな性格は少年時代からあまり変わっていないかもしれない。今では誰もが重要な存在であり、その中の誰が一番だったかなど決めることはできない。比較の対象ですらないのだ。

「伝説の少女」がただの同級生でしかなかったのも大きいだろう。もし彼女が特に親しい人であれば、その関係性もまた特別となり、他の人より「大切な人」と認識され、他の女性の記憶は残らなかったかもしれない(「大切な人」という表現に私は違和感を覚える。大切かどうか、露骨な線引きをしているみたいで)。

しかし、その人はただの同級生だった。そして、それは他の女性も同じ。私には生涯、特別親しい女性は1人も現れなかった。みんな「普通の同級生」だったのだ。
これは通常であれば自虐ネタに使われそうだが、私の場合、そうはならなかった。
というのも、「伝説の少女」との関係が普通であるがゆえに、私はこう考えることができたからだ。

「普通の同級生である「手紙の少女」から深い学びを得ることができた。ということは、他の同級女性からも同じように学ぶことができるはずだ。なぜなら、関係の親密さはみんな変わらないから、この方法を応用することができる。」

「伝説の少女」発見後の高校時代も、同級女性は普通に接してくれた。元々内気だった私だが、制服や出席番号で露骨に区別される第二次性徴以降、女性陣とは疎遠になり、自分から話しかけることはなかなかできないでいた。しかし、たまに女性陣と話すことができると、それだけで少し嬉しい気持ちが芽生えた。

※ここまで文章をしっかり読んでくれた方にはお願いするまでもないことだが、もし女性読者がいたら、お願いがある。
私のようにあまり魅力的ではない男性がいたとしても、決して迫害はしないでほしい。優しく接してくれとは言わないが、尊厳を傷つけることはしないでほしい。なぜかというと、そうした迫害経験は女性全体への憎悪となり、復讐心が煽られる可能性があるからだ。そうした迫害経験を持つ男の中から性犯罪者のような凶悪犯が出てこないとも限らない。
だから、普通に接してほしい。普通で良い。好きになれないなら、距離を取っても良い。ただ、席が近くなったりとか、班活動が一緒になったとき、たまに話しかける。それで充分だと思う。少なくとも私は、そうした一声でこれまで勇気づけられてきたし、それで救われる人もいるはずだから。
男性陣には、ルッキズムからの脱却をお願いしたい。これをやめるだけでいろんな問題が解決するはずだから。

こうしたわけで、私はこれまで最高の敬意を抱く「伝説の少女」を羅針盤とし、そこで抽象的な針路を見定めながら、現実の女性から具体的な移動手段、活動エネルギーを得て日々を乗り切ってきた。
この2種の女性、観念の女性と現実の女性は相互補完的関係にある。
すなわち、針路がなければいくら移動手段やエネルギーがあろうが目的地に着くことはできないし、針路があっても移動手段やエネルギーがなくては動くことができない。
どちらも必要な存在で、優劣はない。抽象か具体かという役割の違いがあるだけだ。

恋愛においてもそうだろう。
たとえある時点では特定の誰か1人に意識が集中していても、時と場合によっては別の誰かに心変わりすることもある。それは不純なことではない。針路が変わったなら、それに合わせて移動手段や必要エネルギー量も検討し直すべきなのだ。
「好きな人は1人」というのは、針路が1つしかない(と思い込んでいる)ということだ。そんな航海、荒波ひとつで船は簡単に転覆するだろう。他の可能性も考えておかなくては危険だ。
「好きな人」は複数いても良い。貞操義務云々はまた別の話だ。それはどこまで許すか話し合えば良いだけの話。無論、ダメというケースもあるだろうけれども。

もし私が、

「あなたのことが一番好き」

と言われても信用しないだろう。
「嘘つけww絶対他にも好きな人いるだろww世界に何人男がいると思ってんだww」 
と感じるだろう。
むしろ、

「あなたのことも、昔出会ったあの人のことも、今日出会ったあの人のことも好き。ただ、今日はあなたといたい気分かな。明日になったらまたどうなるかわからないけれど」

とでも言ってくれた方がよっぽど良いかもしれない(これは少し奔放に過ぎるかもしれないが)。

大事なのは純愛を神聖視することではなく、客観的事実をひとつひとつ確認していくことだ。
純愛が成立するならそれで良いが、諸行は無常。破綻する場合も考えておかなくてはいけない。破綻しているのに純愛時代の価値観を当て嵌めようとすれば、無理が出てくるのは当然だ。
恋愛は花火やシャボン玉のようなもので、燃えている、あるいはふわふわ飛んでいる間は美しく見えるが、すぐに消えてなくなってしまう。まさに泡沫の夢だ。長くは続かない。原材料が感情という無常なものだから。

私が選んだ教訓内面化による「学び」は感情ではなく理性によるものだ。「手紙」や「思い出」を基本に、そこから合理的思考によって教訓を導いていく。つまり、恋愛のように気まぐれで「冷める」ことはない。感情ではなく、理性(論理)で得たものだからである。
「伝説の少女」が消滅することがあるとしたら、そこから教訓を得られなくなった、または教訓が役に立たなくなり、思い出の価値もなくなった、というケースくらいだ。

しかし、「伝説の少女」及びその人を含めた「ただの同級女性」からの教訓は、価値を失うどころか、年々その価値を増してきている。
まあ、学生時代という不可逆な時間軸にある思い出ゆえに、その価値が上がっているのもあるだろう。学生時代特有の素朴さが、ノスタルジックな感情を呼び起こし、当時気付かなかった教訓を導いてくれる。

最近、唐突に黄金時代(12才)の同級女性が1人脳裏に浮かんできた。せっかく意識に昇ってきたのでなぜなのか考えていたが、最近私が黄金時代を再評価するようになったためかもしれない。
その少女は明るく活発で、歌も上手だった。また、女っ気というか、目障りな女々しさもなく、さっぱりした感じの人だったと思う。まさに黄金時代を象徴するような人だった。制服による男女区別がされる前の、最後の1年、鉄道が廃線になるとき、最も輝きを増すように、中学で「女」化される前のその人は、まさに「少女」として輝いていた。
そんな彼女だからこそ、眠っていた私の記憶から呼び覚まされたのかもしれない。そう、私の中の「少年」を呼び覚ますために。


7.おわりに

また大長編になってしまいました。
性問題に関しては独特な視点で語るため、どうしても説明が長くなりがちです。また、画一的な見方を読者に押し付けたくないので、様々な観点から語ろうとする都合上、文章も増えます。
RPG『グランディア2』において、

「正しさっていうのは差別を生む」

という言葉がある通り、私はなるべく善悪二元論ではなく、多元論から語っています。「正しい」ことと「間違っている」ことを厳密に区別するというより、「良さそう」なことと「悪そう」なことを考え、できるだけ「良さそう」な方を目指す、というイメージです。
今回も別に一夫一妻が悪だとか、夫婦の貞操義務は廃止すべきだ、とかそんな極端なことを言いたいわけではないです。それはそれで意味があることはあるので。
ただ、それが機能不全を起こすこともありますよ、ということを言いたいだけです。
最初に述べた通り、複雑怪奇な人間を画一的な物差しで測ろうとすると歪みは必ず発生します。
当事者が自由に話し合って決めるなど、様々な方法が生まれることを期待します。

ご精読ありがとうございました。


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