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黒岩先達と孔雀王

80年代も終わろうとしている中学真っ只中の時、ヤンジャンかなんかの漫画で「孔雀王」というのが流行った。

日本神話や密教、そして格闘、エロ・グロなど、当時の少年誌にしては少し過激すぎなのでは?というような描写が、アホガキたちの脳髄を見事異常活性させ、案の定友人と一緒にはまりまくってしまった。

今ではどうかと思うが、勝手に印などを結んではインダラヤソバカアぁ~っ!!とか叫んではどつきあいをして突き指を繰り返す、思い出すにつけ痛々しく不毛な中二病フル‣スロットルのころ。

おりしも帝都物語や三上博史主演で孔雀王が映像化され、あの故伊丹十三制作のスウィートホームなど、和製SF隆盛?だった。そういった勢いに飲まれたのか酔ったのか、なぜか僕たちも負けじと自主映画を作るぜ~、ということになった。そういえばCGもまだなかったし、携帯電話もなかったよな、あの頃って・・・(゚д゚)!

バカは馬鹿なりに、頭を下げて8ミリ機材を借りたり、ロケハンをしたり、巨大火の玉を作って自分が火だるまになりそうになったり、と・・・もうこれは制作していること自体がロードムービーになりそうなくらいにハチャメチャだったのだが、親御さんや近隣の皆さんの絶大なご協力もあって、ぷ~んと香ばしくも何とか映画らしきものができた。
僕たちはそれでもご満悦で、文化祭には胸を張って上映会をしたものだった(*´Д`)

曼荼羅や法器の類、特撮のギニョールなどなど、小道具などはすべて手作りだった。
登場人物には孔雀王の如くシックに墨染めの衣を着せたい!でもだれも和裁の心得のある人がいなかった。まあ男子校生だから当然と言えば当然だが。

そこで白羽の矢が立ったのが、僕のおばあちゃんだった。
祖母は器用にすごい速さで数人分の行衣、墨衣、袈裟などを仕立ててくれたものだ。

おかげで素晴らしくソレらしい恰好で、映画を撮影することができた。あるときは伽藍を撮るために主役に衣と袈裟をつけさせて成田山や中山法華経寺を歩かせたり、一応お断わりして寺内に上げてもらったり・・・今思えば直視できないような蛮行を平然とやってのけたのだが、そんなときでも祖母の作ってくれた衣は効力を発揮し、本職の僧侶も遠目では違和感を覚えないようなトケコミ様だった。

その衣を作りながら祖母が、面白そうに言った。
「へえ、兄ちゃんはお不動様やら摩利支天様に興味があんのかい?」
「あるある!」と僕。
「じゃあ今度おばあちゃんが、そういうのをよく知ってる先生のところに連れてってあげるよう。」
「やった!ラッキー!じゃあ、映画撮影終わったらね!」

・・・・・・神仏との縁というのは実に、魔訶不可思議な冥加なくしては語れません。これが実は、私と甲陽・黒岩先達の縁起であり、ディープで横紙破りの行者人生の始まりだったとは、あほな私は全く予想だにしておりませんでした。ということは」、私の密教の最初の宝典は孔雀お・・・(゚∇゚;)☆\(-_-;)バシッ!

そーいうわけで、私の摩利支天真言はちょっとシャウトネスなのであります(笑)

口外無用を厳命していた先達も亡くなって数年がたつので、お話しできる範囲内で、そろそろあの日々を回想してゆくのも良いかなと思い認めてみました。松凬

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