見出し画像

伊与久の森・雷電神社

私たち伊与久一族は、ここより始まりました。

今から約八百五十年ほど前、太祖・五十久(伊与久)弾正公は、この渡良瀬川沿いの肥沃な福地を、従った五家の郎当達と共に開墾し、伊与久の馬場を形成し、東国の武士団として旗揚げしました。

後に新田の御家の騎馬武者として、鎌倉攻めにも参加をし、当地の地頭職を任じ、鎌倉古士と称えられました。
後の本宗家は代々が弾正を襲名し、南朝・新田家に心を寄せたと言います。

戦国時代には本宗は、新田由良氏に従い金山城に籠り節を通しました。
一方生き残りを期して分家を率いた、次男の釆女公は、真田の英名を慕い吾妻に入植、在地の武士団の一翼を担って「甲陽兵法」を得ます。

以降、本宗家と吾妻釆女家、我々甲陽伊与久家は緊密に連絡を取り、戦国~徳川の激動のなか、武力と知力、そして情報力を武器として、果敢に生き延びて参りました。

私が先代に連れられ、この地を訪ねたのが11歳、今から実に36年前のことでした。

あの頃はまだ伊与久の昔を知る明治時代の古老が生きていて、色々な話を聴くことができました。今では伊与久一族の昔を知るのは、恐らく私一人になってしまいました。

今回初めて、私も私の息子を連れて、この発祥の地をはじめ、吾妻、榛名、飽馬…と、われわれの流れ来た歩みを辿る旅を致しました。

息子もまた11歳。不思議なことに、あの日の私と同じ年齢。自分のルーツを指し示す、いにしえの石塔に対座して、幼い眼差しは何を観て取ったのか…

私たちが私たちであることを教えてくれるこの地よ、いつまでも我らの故郷であって下さい❗
雷電と息吹の神よ🙏⚡⚡⚡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?