せっかちSさん

Sさんは小さい体で、ずんずんと歩きます。
この競歩のような特徴的な歩き方には理由があり、それはSさんの毎日の生活に由来したものでした。

近所のコンビニエンスで早朝から10時半まで働き、そのすぐ30分後に隣町にある11時始業の会社で働くのがSさんの日課でした。そしてそのコンビニエンスと会社までの距離は、急いで歩いてぎりぎり30分で到着する距離なのでした。
まるで計ったように寸分違わぬSさんのずんずん歩きは「職業病」のようなものでした。

Sさんはコンビニと会社だけでなく、夜になると不器用な手先で必死に化粧を施し、繁華街の飲み屋で働きだしました。お世辞にも美しいとは言えないSさんでしたが、明るくちゃんと人の話を聞くのでお客さんたちは良くしてくれました。
Sさんはもともと不眠症で、電池が切れたように疲れきって布団に倒れ込まないと眠れないたちだったので、
もちろん嫌なこともあるけれど、この生活は自分に大変あっていると思っていました。
というよりそうでもしないと生活が成り立たないのでした。

ある日Sさんは江の島へ行きました。
さすが晴れ女のSさん、絶好のおひさま日和です。楽しげに揺れるヤシの木たちと、クリームソーダのような甘い色の海はまるで南国のようでした。
Sさんは、自らの灰色の日常以外に、こんな楽園みたいな場所がこの世にはあるのかと感心しました。
・・

Sさんは、もっと海を眺めていたいと思いました。
でも長居する理由が思いつかなかったので、「5分だけ」と言って、本当に5分だけ波を目に焼き付けて、
またずんずんと歩いて帰っていきました。

Sさんはまた忙しない日常に戻り、毎日分単位のことをこなしながら、ネズミのように働き続けました。
Sさんが上京と共に乗り込んだこの巨大な回し車は、いつのまにかSさんをとりまく世界となって、
Sさんが走れば走るほど、速度は上昇し、
昔の記憶すら思い出せない程に遠くへ  遠くへと

Sさんは何から逃げていたのか?

ある夜、繁華街の真ん中で
Sさんは倒れました
透き通った腕が、Sさんの背中の電池をそっと抜いていきました。

Sさんの突然の死を誰も驚く人はいませんでした
唯一の例外は、遠く離れた街に住む何も知らない家族くらい
人間とは急いだ順から死んでいくものらしいのです。

Sさんは真っ暗な世界で、もう何年も会っていない家族の名前を何度も呼びました。
そのうち小さな光が目の前を横切って、その光を追いかけるようにSさん自身も光の筋となり、様々な時空の断層を通り抜け、あの時の江ノ島の海にも、小さい頃の記憶の中にも、生きるはずだったこの先の未来にも、あの日の足元に落ちたSさんの小さな影にも、
消えては、生まれ、消えては、生まれ、
消失と再生を繰り返しながら、
最後、小さな点になったSさんは気づくと一面白詰草が生い茂った草はらの上に寝転んでおりました。

◇◆◇

Sさんは天国に到着してからも、しばらく働けるような職場を探し駆けずりまわったようですが、最近ようやく諦めて木々の香りを吸い込んだり花を眺めながらゆっくり暮らすことをはじめたようです。この頃は、いい香りのする野草でお茶を淹れる時間が何よりの楽しみだと笑っていました。

不器用な人にとって天国とはそういうものなのかもしれません。

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