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根拠のない完璧主義を追求してもギスギスするだけ。もっと気楽で「最大の価値」を模索する介護にできないか?

注:記事の前半は前振りとして、介護の仕事に対して暗めの話なので「ネガティブな記事なんて読みたくない!!」と言う方は、後半の「もっと気楽にできないものか?」まで読み飛ばして差し支えありません。

――― では、以下本文です。


■ 賃金改善だけで人手不足は改善できるか?


介護における離職の理由として「低賃金」「人間関係」「過重労働」が挙げられている。

これを見て思うのは、例えば「高収入」になったとして、介護従事者は人間関係と過重労働の問題を受け入れるのか? ということだ。

「給料が高ければ、人間関係が悪くても仕事が多少キツくても我慢するよ」と言う人はいるだろう。
しかし、おそらく賃金を高くしたところで、時間の経過とともにまた人間関係と過重労働の問題は浮上すると思う。

それは、根本的に賃金・人間関係・労働量は独立した要素であり、「低賃金」「人間関係」「過重労働」はそれぞれ独立した問題だからだ。

賃金を上げたところで人間関係と過重労働は解決されていないし、人間関係が良好でも賃金が低いままだと生活できない。
過重労働を見直すことで人間関係と業務負担は改善されるかもしれないが、賃金を上げるためには売上や生産性という違う要素が出てくる。

介護における離職の問題、つまり人手不足の問題を解消するためには、1つ改善したところで全体が改善するという甘い話はない、という事実に向き合う必要がある。

国も賃金改善として処遇改善加算といった制度を出すものの、失礼ながら世間が目を見張るほどの大きな改善には至っていないので、介護職は低賃金というイメージを払拭することは難しいと思われる。


■ 人間関係と過重労働の原因は「完璧主義」


上記で賃金・人間関係・労働量の問題は独立した要素とお伝えしたが、介護現場においては根っこでつながっている要素がある。

それは「完璧主義」という点だ。

介護現場のどこが完璧主義かと言われれば色々があるが、具体例を挙げるよりも、介護従事者が抱く次のような脅迫観念を見れば何となくご理解いただけるとと思う。

 「ちゃんと〇〇しないと怒られる」

 「事故が起きたら訴えられる」

完璧にやらないと、自分あるいは職場に悪いことが起こる。だからちゃんとやらなければいけない。不始末があると職場の人たちや利用者(高齢者)、ご家族などの関係者から怒られる。
だからこそ、言われたことは1から10まで完璧にこなそうとする。それが何のためにやっているのか分からなくても、だ。

そして介護現場は高齢者という心身状態が低下した方々を相手とするので、常に事故のリスクがある。そして、いざ事故が起きたときに訴訟になるという理不尽さもはらんでいる。
だからこそ、安全安心という名のもとに、事故が起こらないような完璧な介護を提供したり環境を整備しようとする。

完璧主義というと精度の高さを追求しているようだが、お分かりのように、介護現場では不利益を生じないように完璧性を追求していることがある。

これはリスクヘッジとも言えるが、このような仕事を続けていると職場はギスギスしていき人間関係も歪んでいく。
また、「何かあったら困る」と予防ばかり立てていると、そのための業務がどんどん増えていく。それは過重労働となってしまう。


■ 完璧主義による責任と重圧


このような後ろ向きな完璧主義によった介護現場が常態化すると、次第に「責任」の押し付け合いと「重圧」を背負った働き方になる。

教育と言う名のもとに常に怒られてばかりで、スキルアップどころか自己肯定感とやらを得られないまま自信を喪失していく。
仕事はお互いに感謝し合うことで高め合うべきなのに、お互いに責め合うことがコミュニケーションのベースになっている。

やりがいを持ちたくて介護の仕事を始めたのに、気が付いたらその日トラブルなく過ごすことが目標な現場で介護業務を提供する日々になってしまう。

まるでいつ爆発するか分からない爆弾を渡されたかのよう。

しかし、職場からは「それが介護のプロとしての責任の重さだ」「この重圧を抱えてこそ専門職だ」と言われて納得した気になる。

こうして根拠のない完璧主義な介護業務を課せられて、気が付くと責任と重圧がデフォルトの日々を送って疲弊していく。

その結果はお分かりのように、心身が摩耗して動けなくなったり、生命の危機を感じて逃げるように退職する。


■ もっと気楽にできないものか?


とまぁ、全体的にネガティブすぎる記事となったが、別に「介護の仕事はやめておけ」と言いたいわけではない。そもそも、このような話は介護に限った話ではないし、介護現場で働いている方々は「何をいまさら」と思われたと思う。

しかし、「介護は低賃金だから~」「人間関係が悪くて~」「仕事がキツすぎ」といったことだけで思考停止するのはいかがなものかと思うのだ。

「なぜ低賃金なのか?」「賃金がいくらになれば満足できるか?」
「なぜ人間関係が悪いのか?」「マシな人間関係はどのような感じか?」
「なぜ過重労働なのか?」「少しでも業務負担を減らせないか?」

といった思考をしていかないと、謎の完璧主義に振り回されたまま、ただただ不満を抱えた状態になってしまう。

正直、介護報酬といういわば税金で運用されている介護の仕事は、大きな賃金改善は難しいと思う。打開策がないわけでないが、それを構築するには時間と意識改革が必要だろう。

しかし、人間関係と業務量はコントロールできると思う。
そのためには「もっと気楽にできないものか?」ということを常に考えたほうが良いのだ。


■ 介護における「最大の価値」を目指す


特に業務量はすぐにでも見直すことができるはずだ。

しかし、日本人は真面目だが、それゆえに根拠のない完璧性や途方もないゴールを目指す傾向にある。

もし気楽にするという言葉に抵抗感を覚えるならば、
「最小の労働量で最大の価値を生む」という考え方をしていただきたい。

ここで「介護における最大の価値とは何か?」という問いになる。
しかし、こう言っては何だが介護の価値を定義化はできない。

あえて言えば、
「怒られないように仕事を完璧にこなす」ことではないし、
「事故が起こらないように願って1日の業務にあたる」ことでもない。
「完璧な介護を提供しよう」とうのも何か違う。

これらに共通しているのは、介護という仕事なのに、ちっとも利用者に向き合っていない利己的な考えをしていることだ。少なくともこれらを最大の価値として高めても、全く意味はない。

別に無理に「介護の価値とは何か?」と考える必要はない。
しかし、ビクビクしながら介護の仕事をしたり、自己満足的な仕事をしたり、そこから職場内で責め合ったりすることがあれば、「これっておかしくないか?」と思ったほうが良いと思う。

そこに気づくことができれば、それが介護と言う仕事における価値を模索するきっかけになるのではないか?


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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