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ヤングケアラーの視点から「Codaあいのうた」を観ると・・・。その1(ネタバレ大あり、注意)

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  前回のエッセイで「ヤングケアラー」のことを書いたので、気持ちがそういうモードになっていたのかもしれない。
 「Codaあいのうた」を完全に「ヤングケアラー」のフィルターを通して、観てしまった。
 今日は、そのお話。ネタバレ大ありなので、ご注意くださいませ。
 こういう内容、とあらかじめ知っていたら観ようと思ったかどうか。ちょっと、わからない。そもそもチラシのビジュアルが、なんとなく「onceダブリンの街角で」やキーラ・ナイトレイの「はじまりのうた」と雰囲気が似ているので、勝手に同じようなストーリーだと思いこんでいた。

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 そんな時、友達から、LINE。
「久々感情移入できる作品。多くは語らないけど『ギルバート・グレイプ』を彷彿させるよ」
 私は、彼女のことを全面的に信頼しているので、
「それなら、観ようかな」
 と思った次第。
 「ギルバート・グレイプ」と比べているのも、気になった。レオナルド・デカプリオとジョニー・デップが若かったころの、忘れがたき一本。
 映画が始まって、すぐに友達が「ギルバート・グレイプ」を引き合いに出した理由がわかった。

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 主人公の高校生の少女ルビーは、家族の世話をするヤングケアラーだったのだ。「ギルバート・グレイプ」では、障害を持つ弟のアーニー(レオ)や引きこもってしまった母親をギルバート(JD)が健気に世話をする。彼も、やっぱりヤングケアラーだ。
 「Codaあいのうた」は、ある意味もっと過酷。父母、兄は全員聾唖。つまりルビーだけが耳が聞こえるという状況。そのため家族以外の人とコミュニケーションを取る場合、通訳としてルビーがとても重要な役割を果たしているのだ。
 家業は、ボストンの漁師。行政や漁業組合との間に立って、手話を訳すルビーは、朝の漁にもつきあうので、学校ではどうしても居眠りをしてしまう。

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 ある時コーラス部に入るのだけど、それはちょっと気になる男子マイルズがいたから。たくさんいる生徒の中から、バークリー音楽院出身の先生は、ルビーに歌の才能を見出し、マイルズとペアで秋のコンサートに出るように言う。猛特訓が始まる。
 マイルズとのサイドストーリーも、後半じわじわと効いてくるのだけど、「Coda」とは、「Children Of Deaf Adults」つまり、「耳の聴こえない両親に育てられた子供」という意味で、音楽の世界では「最終章」というような意味だから上手にダブル・ミーニングしたのかな、と思った。
 朝3時に鳴るアラームは、切ない。船に乗って漁をして、そのまま学校に行けば、
「魚くせー」
 と心ない男子に、囃されてしまう。
「もうこんな生活、こりごりよ! なんとかして!」 
 ことあるごとに、ルビーは爆発するけれど、どこか切羽つまった感じはしない。
 それはもう、どうあがいたってこの家族からは逃れられないんだ、というあきらめからなのか、何だかんだいっても家族のことは好きなのか、理由は不明。きっとその両方で、他にも色々な思いが渦巻いているのだと思う。
 けれど、決断の時は、やってくる。
 コーラスの先生がバークリー音楽院に行くことを、強く勧めてきたのだ。入学すれば、家を出なければならない。
 そのことを告げた時の、父母の素っ頓狂な表情は、罪深すぎる。
「え!? じゃ、俺たちはどうなるの?」
「本当に歌、うまいの? 私たち聴こえないからわかんないわ」
 この家族は、私の育った家庭とは違い、娘のルビーをとっても愛していることを言葉(手話)で、ハグで表現している。ルビーも、そのことをじゅうぶんに知っている。
 けれど。
 ちょっといくらなんでも、コレはないんじゃない? と思ってしまう。これじゃ頼りすぎ。このままじゃ、ルビーは一生自分の人生を歩めなくなってしまう。
 観ながら私は、
「ルビー! 行かなくちゃダメだよ。歌う才能があって、それを皆に聞かせてきっと癒される人が沢山いるんだから」
 と思いきり加勢していた。
 でも現実を見つめすぎていて、ある種賢いルビーは、
「このままここに残るわ。そして、卒業したら船に乗る。楽しみよ」
 とまで言ってしまうのだ。
 ここで兄のレオに俄然スポットライトが当たってくる。
「ダメだ! お前は才能があるんだからバークリー音楽院に行け。あとは、俺にまかせろ!」 
 怒ってまで、味方をしてくれる。
 ああ。
 レオ兄ちゃん、ありがとう。そう、その味方がいるかどうかで、人生大きく変わるよね。レオだって、毎日厳しい環境の中、頑張っているけれど、
「ここから抜け出せるルビー。ずるい!!」
 という妬みの気持ちは一切持っていないのが、本当に人間的に美しい。
 もしかして、このレオと対比させるために、父母はあんなに空気が読めないキャラクターとして設定されているのかも。なんて、うがった見方をしてみたりして。

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 それが最も顕著に表現されるシーンが、ある。家族に利用されているという気持ちが強いルビーは、自室のベッドの上で母と話し合いをしている。母は、ルビーをどんなに愛しているか伝えようとする。
「あなたが生まれた時、聴こえるかどうかテストをしたの。その結果が出るまではドキドキだったのよ」
 そりゃそうだろうな、と思いつつ、スクリーンを見つめる私。
「そうして、どうか聴こえませんようにって祈ってた」
 え。え。え。
 どういうこと?
「もし、ルビーが聴こえてしまったら、母と娘として本当には理解し合えないような気がして」
 このセリフを聞いて、私は、わなわなしてしまった。
 実は、友達からもう一つメッセージをもらっていた。「耳を疑うような」母の言葉がある、と。だけど母には、たくさんのセリフがあるだろうから、私はきっと見つけられないな、と予想していた。
 だけど。
 コレでしょ。絶対コレ。後で確認したら、やはりこのセリフだったけれど、親としてどうですか? 
 結果的に耳が聴こえなかったり、他の障害があるのがわかったとしたら、それをやさしく包んであげる役目があるのは当然だけれど、わざわざそれを祈るなんて。
 親が亡くなった後、幾多の困難が降りかかることもあるだろうし、自分のことだけ考えているとしか思えない発言。
 私は完全にルビーに感情移入しているので、
「逃げろ! 逃げろ! こんなとこから逃げなくちゃダメ!」
 と心の中で叫んでいた。
 でも。
 そんな心ない言葉でも、ルビーを傷つけることはなかった。なぜならそこに愛があるから。
 きちんと、
「I LOVE YOU」 
 を伝え、ハグしてあげるので、ルビーの表情はとても満たされていた。
 私は、ちょっと羨ましかった。なぜなら私の場合は、このハグのようなフォローは一切なかったから。
 私も「ヤングケアラー」として、家族の世話をしてきた時期があったけれど、褒められず、いつも罵られてきた。(「ヤングケアラー? 私のことだ!」のエッセイに詳細記載)何かをどんなに抗議しても、鼻で嗤われてきた。
 親と抱き合うって、どんな感じなのだろう。日本人は大人になってからは、ハグする習慣はあまりないかもしれないけれど、幼い頃、悲しい時にお母さんから抱きしめてもらった記憶のある人なら、たくさんいると思う。それすら持ち合わせない私は、その感覚さえ想像ができない。
 今の私はもう歪みすぎていて、母とのハグはおろか手を触ることさえ、ぞっとしてしまうという境地に入ってしまってけれど、やはりスキンシップというのは、とっても大切なんだな、と思った。
 

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