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20代で転職を4回繰り返した私がADHDと診断されてから取締役になった話

この記事では、20代で転職回数を4回経験するほどの「ダメ人間」だった私が、どうして5社目の転職先で、しかも入社6年目で取締役になるに至ったかをお話しします。

もし「どうして取締役になれたのか?」と聞かれることがあれば、私はこう答えます。

「自分がADHD(注意欠如・多動障害)だと分かったから」と。
(もちろん、運に恵まれたことも欠かせませんが。)

ADHDというとネガティブなイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。

もちろん、私もADHDの特性に悩まされた一人です。実際、20代では数々の職場で失敗し、一時期カードローンに頼らざるを得ないほど生活が苦しかったです。

ところが、ある日クリニックでADHDだと診断されてから、少しずつ自分の人生が変化していきました。その結果、30代目前で転職した会社では、小規模ながらも海外子会社の取締役に任命されるに至ったのです。

今回は、ADHDの特性が私の生活にどのような影響を与えていたのか、そして、ADHDだと診断されたことで人生が変化していったのかをお伝えできればと思います。


入社早々にアルバイト生活!?

私が20代で転々とした会社は、日本語学校や社員研修会社、テレビ局など。

地元・鹿児島の大学を卒業後、最初に就職したのは県内の日本語学校でした。

生まれ育った鹿児島

ちなみに、子どものころから忘れっぽく、うっかりしがちでした。そのうえ、飽きっぽい性格だったため、大学受験のときは勉強に集中できず、かなり苦労しました。

なんとか地元の大学に滑り込んだあと、約1年間、ドイツの大学に交換留学しました。その時、留学先の大学で日本語を教えていた日本人の研究者の方に憧れ、日本語教師を志すように。帰国後すぐさま、日本語教師の養成講座に申し込みました。

むかしから、やりたいと思ったものがあれば衝動的に食いついてしまうところがありました。「これだ!」と決めたら一直線。講座では毎回授業後を見計らって講師を質問攻めにし、週末は日本語を教えるボランティアに参加しました。

その反面、見通しを立てるのはいつも苦手。目標を達成したあとのことまでは考えておらず、おいおい大変な目に遭うのでした。

講座を修了したのは卒業を数か月後に控えた大学4年生の冬。本当は東京に出たかったのですが、留学や講座で貯金が底をついてしまったため、地元で就職活動を行いました。そして、ダメ元で県内の日本語学校に電話したところ、たまたま空きがあり、教師として採用されました。

この日本語学校では、日本の大学や専門学校への進学を希望して海外からやって来た学生たちに授業や生活指導を受け持ちました。

ところが、勤務スタートから1年強で、あまりの給与の安さに退職を考えるように。当時の月収は手取りで14万円。しかも、社会保険料は自己負担。地方の一般企業に就職した友人は月収20万円弱と、大きな開きがありました。

就職後に知ったのですが、国内の日本語学校のほとんどは主にお金がないアジアの学生をターゲットにしているので、その他の業界に比べて給与が低い傾向にあります。そのため、日本語教師として生活を安定させるには、比較的待遇が良い大学で勤務しなければなりません。しかし、国内の大学で常勤講師になるためには、最低でも大学院の修士課程を卒業している必要があります。

ただでさえ安月給なのに、授業の準備や突発的な生徒指導は”サービス残業”。大学院の学費を稼ぐために、大学生の時にやっていた塾講師やツアーコンダクターのアルバイトを始めたところ、体力的にも精神的にもどんどん余裕がなくなっていきました。

そんな中に起こったのが「ベトナム社員旅行大遅刻事件」です。

日本語学校の社員旅行の出発日のこと。福岡空港からの国際便に搭乗するため、朝8時に鹿児島中央駅を出る新幹線に乗る予定だったのですが、前日はツアーコンダクターのバイトで日帰りツアーに添乗。帰宅したのが深夜1時近くでした。

そして当日、朝6時に起きなければならないところを、目覚めたのが7時半という大失態。乗るべき新幹線に遅れてしまいました。そのあとの電車に滑り込み、なんとか飛行機には間に合いましたが、周囲に迷惑をかけてしまい、道中は終始気まずさでいっぱいでした。

「こんなに余裕のない生活はいやだ!!」

この出来事をきっかけに退職を決意するのですが、結局、この生活は1年半しか続きませんでした。このとき、「東京へ行こう」と思い立ち、そのまま実行してしまったのです。

無計画さが原因で”夜の街”の住人に!?

日本語学校を退職して2週間後、ボストンバッグとスーツケースを1個ずつ持ち、羽田空港行きの飛行機に乗りました。大学卒業時に果たせなかった上京生活を叶えるためです。

最初のミッションは仕事探し。当時の所持金は50万円ほどで、そこから転居に必要な資金と当面の生活費を工面しました。

「アルバイトしてお金を貯めてから東京に移ったらよかったのでは!?」

この記事をお読みの方はそうツッコミを入れたくなると思います。

私も少しはその選択肢がよぎりましたが、「すぐに仕事が見つかる可能性もある。そう考えると、田舎に残るのは時間の無駄だ」という考えに頭の中が支配されてしまいました。その後、案の定、生活費が足りなくなり、カードローンに手を出してしまうことになるのですが。。。

ところで、東京で最初に住んだのはシェアハウスでした。当時知る限り、私の田舎にシェアハウスなどというものはなく、純粋に憧れていました。

そこで、シェアハウスのほうが経済的だし、「コミュ障」の私が東京で友だちを作るいいきっかけになるだろう、などというわけのわからない理屈を自分に言い聞かせ、事前にネットでいくつか候補を探しておきました。

上京したその日に選んだ物件は池袋。

初月2カ月は月額家賃3.5万円。池袋駅西口徒歩2分とアクセスも抜群でした。

名前は聞いたことがあるこの場所。これなら、田舎の友だちにも自慢できます。広さは3.5畳ですが、家には寝に帰るだけだから生活するのに支障はないだろうと考えていました。

ところが、現実は思うようにはいきませんでした。

物件が夜のお店が集中しているエリアのど真ん中に位置していて、静かに生活できなかったのです。

住み家は雑居ビルの5階に位置し、1階がキャバクラ、2階と3階が風俗店という具合(4階は空きスペース)。夜は向かいのビルのスナックから流れてくるカラオケの音がうるさかったり、ネオンの灯りがまぶしすぎたりで寝られませんでした。

また、周囲には飲食店はもちろん、客引きのいるお店が多くありました。実際に、コインランドリーやスーパーにジャージで外出する度に、キャッチの人に次々に声をかけられました。

シェアハウス周辺

転職活動中のある採用面接では、履歴書の住所欄を見た面接官の方が急に「ププッ」と噴き出し、「あー、よくあのあたりに住めますね」と言われた時には、恥ずかしくて面接を切り上げたくなりました。

さらに、家賃の低さから郊外に住むサラリーマンのセカンドハウスとして利用されるほか、所得が低い入居者もいたようです。豊島区役所に転入届を出そうとした時には、窓口の方から「以前あなたの部屋に住んでいた方が転出届を出していませんね。同居されているんですか?」と言われる始末。

いま思えば、これから東京に根を下ろそうとしていたのに、なぜ落ち着かない環境に住もうと考えたのか。結局、シェアハウス生活は2カ月で断念しました。

不採用通知からの泣きの一手

話がそれてしまいましたが、このような不安定な環境の下、上京してすぐに転職活動を進めました。そして、幸いなことに、一か月半後には転職先を見つけることができました。

この時すでに経済的に苦しかったので、早いタイミングで次の会社を見つけることができ、自分はラッキーだった程度のことしか考えていませんでした。しかし、この選択に大きな「勘違い」が潜んでいたことに、当時の自分は知る由もありませんでした。

採用面接を受けたのは、企業に対して社員研修を提供する会社で従業員は5名ほど。大手企業から独立した社長が創業して2年目の若い会社でした。

打ち合わせスペースで待っていると、社長が一人で選考に現れるというそれまで経験したことがなかったパターンでした。社長は面接慣れしていなかった私の目を覗き込み、開口一番「そんなに緊張するなよ」と言ってくださいました。

拍子抜けした私は、思わず社長に対して、ほぼ裸一貫で田舎から出てきたという身の上話をしてしまいました。社長は私の言葉に耳を傾けたあと、俳優を目指し上京した末に入社した大手企業でチャンスをものにしたという自身の話をしてくださいました。

私は話をするうちに、心が通じ合っている、と勝手に思いこんでいきました。そして、ダメ押しになったのは、社長からかけられた(機会があれば)一緒に働けるといいね」という言葉。胸の中で、根拠のない自信が勝手に”確信”へと変貌を遂げていくのを感じました。

今なら分かります。社長は数々のビジネスシーンをくぐり抜けてきた「人たらし」で、たとえ応募者であろうが人を喜ばせるプロだったのです。

ところが、私はこれを自分の都合のいいように解釈していました。

「社長は過去の自身の姿と今の私とを重ねている。この会社に入れば『可愛がって』もらえそう」と。

ところが、後日届いたのは不採用の連絡でした。これを何かの間違いだと思った私は、「もう一度チャンスをください」と社長に泣きつきました。その結果、時給850円のアルバイト社員として働く機会をいただくことになったのです。

社会保険は会社負担な分だけよかったものの、手取りは田舎にいたころとさほど変わりません。しかし、これまで経験したことがなかった無職の期間が「一か月半も」続いた焦りから、「とりあえずこの会社に入ればいつかは正社員になれるだろう」という現実逃避としか言いようがない発想が生まれました。

入社後は、テレアポや飛び込み営業に加え、研修プログラムの企画・開発などに携わり、成長する会社の中で色々な経験をさせてもらいました。

しかし、創業したてのこの会社は社長が“ワンマン経営”を行っているような状態で、社会人経験が皆無だった私は、次々に降りてくる様々な「可愛がり」に応えることができませんでした。

勘違いから始まった2社目。最後まで目立った成績を出せずに時給850円生活から抜け出せすことができませんでした。

真夜中の救急搬送事件

ADHDとの診断を受けたのは28歳の時。

当時は、派遣社員として某テレビ局の報道部門に勤務していました。4社目の転職先です。朝昼晩の定時ニュース番組などに合わせて、海外の事件や出来事に関する原稿やテロップ、映像を仕上げるという仕事でした。

つたない英語力が活かせそうな業務を選んだものの、職場には帰国子女ばかり。語学力の問題に加えて、業務のきつさは想像以上。昼夜問わないシフト勤務で、テロなどの重大事件が発生したときは、丸24時間勤務する日もありました。

時間的にかなり追い詰められる仕事で、番組が始まって自分の担当項目が始まる数十秒前にニュースが完成するということもしばしば。また、全国ニュースで扱われる内容を手がけていたため、少しの誤りも許されないことも相当なプレッシャーでした。

こんな生活を続けてしばらく経ったある、夜勤明けの日のことでした。すでに眠りについていた夜中の2時、急に目が覚めました。

「うううううぅぅぅぅぅっっっっっ。。。。」

刺すような腹痛と呼吸困難に襲われ、人生で初めて救急車を呼びました。

大事には至らなかったものの、痛みの原因は搬送先の病院でも分からずじまい。少しでも「答え」を探そうと見つめてくる私に気まずさを感じたのか、医師は「ストレスですかね」と申し訳程度に一言。病院から自宅に戻る道すがら、なぜこんな事態に陥ってしまったのかと考えました。

「激痛を起こすほどのストレスに、なぜ今まで気づかなかったのだろうか?」

思い当たる原因は仕事でした。業務中、無意識に気を張り続けていたことが大きなストレスになっているのだ、という考えに至ったのです。

そもそも自分はミスを犯しやすい人間です。しかし、職場では、それを周りに悟られないように常に神経をすり減らしていたのです。ただでさえ業務がハードなのにも関わらず、自分を取り繕おうとして余計に追い詰められていました。

すると、自分の中でもう一つ疑問が浮かんできました。

「そもそも、どうしてこんなにもミスが多いのだろう?」

我慢ができない!!

次の休日、ミスの多さの原因をつかむべく、近所にある心療内科のクリニックに向かいました。

当時ネットニュースなどで「ADHD」という言葉を見かけることがありました。そこには、ADHDの人は忘れ物が多いことやミスが多いということが書かれていました。

ーーもしかしたら。

私の場合、子どものときから忘れ物が多かったことや仕事でミスが続いたことなどから、自分がADHDに該当するのではないかと思い当たったのです。

ADHDの詳しい説明は下記サイトをご覧ください。

いざクリニックの前に立ってみると、曇りガラスから中の様子を窺い知ることができず、入るのを一瞬ためらってしまいました。一つ大きく息をついてから中に入ると、平日の昼であるせいか他の患者は一名しかいませんでした。

受付を済ませてほどなくして、診察室での問診。その後のチェックリストの記入や心理検査を含めて数時間かかったと思います。検査が終わりしばらく待ったあと、診察室に呼ばれADHDとの診断が告げられました。

診断名を聞いて思わず、「ああ、やっぱりそうでしたか」という言葉が出てしまいました。子どもの頃、自分が失敗を犯すと理由を問わず親や教師に𠮟られ、大人になってからは反射的に自分自身を責めるようになっていました。しかし、ADHDと診断されたことで、それらの原因の多くが、自分の態度やモチベーションの問題ではないことが分かりほっとした気持ちになったのです。

続いて、医師からADHDの特性について説明がありました。
「ADHDの特性の一つに『衝動性』があります。簡単に言うと、いちど頭に浮かんだ気持ちや考えを『我慢できない』でそのまま行動に移してしまうというものです」

この説明を聞いた瞬間、私はつい顔をしかめてしまいました。思い当たるフシが大有りだったからです。

この後しばらくは、せっかく受けた説明もすべて上の空でした。この「我慢できない」という言葉が、頭の中で「せっかち」「無計画」「勘違いしやすい」という言葉に自動変換され、メリーゴーランドのようにグルグルと回り始めました。そして、これらの言葉が、自分に後悔の念を与えてきた過去の言動一つ一つに結びついていったのです。

最初に働く前に、仕事についてよく調べておくべきだった。
上京する時、ちゃんと生活費を工面しておくべきだった。
面接のときにかけられた言葉の意味を冷静に解釈するべきだった。

この時、ようやく気がつきました。それまで自分を動かしてきたものが、この「衝動性」だったということに。

「自分に合った環境」を求めて

ADHDと診断されてから半年後、テレビ局を退職し4度目の転職活動を始めました。

診断を受けた時に、医師から「ADHDの特性とうまく付き合うためには自分に合った環境を見つけることが大事」というアドバイスをいただいたことがきっかけでした。

そして、今回、これまでとは考え方を変えました。

腰を据えて長く働ける環境を見つけるために、自分のことをしっかりと見つめ直すことが大事だと考えました。そのため、以前は自分の感覚に頼って転職サイトやハローワーク経由で応募していたところを、今回は転職エージェントを利用することにしたのです。エージェントにADHDのことは伝えなかったものの、第三者の視点を入れることにより少しでも「自分に合った環境」を探したい、という思いがありました。

転職活動を始めて2カ月後、従業員100名規模のとある水産関係の会社から採用をいただきました。船に対して燃油補給や修理、乗組員派遣などのサービスを提供する会社です。

入社時の担当業務は、海外の港で船が上記のサービスをスムーズに受けられるよう、現地の業者に指示を出すというもの。この業務そのものは非常にシンプルで、自分の努力次第で「不確実性」や「不明瞭さ」を排除できるという点が、私に合っていました。

ちなみに、これまでの仕事では「ゼロからイチを創造する」ものが多く、勘やセンスを問われる場面が多かったです。

一方、この仕事では、海外の業者が提供するサービスを日本の顧客が期待するきめ細かなレベルに引き上げること、つまり「マイナスをゼロに引き上げる」ことが求められました。そのため、過去発生した事例を十分に把握しておけば、問題が発生した時でもある程度見通しをもって業務をこなすことができたのです。

また、業務環境という点では、狭い業界なので、一年もしないうちにほぼすべての顧客と顔を合わせることができました。顧客と日常的に連絡を取る機会も多かったため、彼らが何を求めているのか、そして先方の社内での意思決定システムが早い段階で分かり、業務が行いやすかったです。

さらに、同じチームに年齢が近い教育係の先輩がいたため、質問しやすく業務に集中することができました。

発達障害の特性の一つに「曖昧な指示が理解しにくい」ことがありますが、私もその特性に悩む一人だと思います。現在少しはマシになりましたが、顧客や上司などから指示を受ける時の「適当に」とか「いい感じで」といった表現が大の苦手です。自分のやっていることが本当に「ちょうどいい具合」なのか不安で仕方がなくなるからです。

そのため、周囲からの指示に困ったときやその他業務中に分からないことがあると、都度その先輩に頼ることができました。

何より、勤務形態に夜勤やシフトがなかったことも働きやすさの理由の一つでした。生活リズムが不規則になると、心身ともに不安定になり、職場では不注意に端を発したミスが自然と増えてしまいます。

少し話はそれますが、私はこの会社に入ってからランニングが趣味になりました。運動により規則正しい生活が送れるようになったのはもちろんのこと、少しは体力がついた気がします。

また、長い距離を走り抜くことを経験することで精神的なタフさが向上しました。これにより、大きな目標に対して地道に努力を継続していく大切さを実感し、腰を据えて働くことができたのだと思います。

一生に一度のチャンス

転職を繰り返しながらも、20代最後の転職先では「自分に合った環境」を見つけ、なんとか会社にとどまることができました。それにとどまらず、入社6年目で取締役としてミッションを授かるに至ったのは、偶然にも、私の中にある「衝動性」が会社に評価されたからだと今は思います。

20代の間終始私を苦しませてきた衝動性がプラスに働いたのは、勤務環境がこれまでとは異なっていたからでした。

過去の勤務先に比べ、今回の職場は第一次産業に分類されるからか、前例を重んじ、リスクを回避しようとする社風であるように感じられました。

また、社員の6割が40代以上であるうえ、離職者の多くは若手社員でした。入社4年目の私は、人手不足の煽りを受けて一時的に業務量が増えた一方、図らずも様々なチャンスが回ってきました

新任の経営幹部の意向により数字の管理が厳しくなったのですが、これまでの業務に飽きかけていた私は、「これだ!」と思い、上司に懇願。チームの業績の取りまとめを任せてもらうことになりました。

当時、30代前半でこの業務を担っていた社員は私だけでした。数字とは無縁だった私に新しいフィールドを与えてくださった上司には感謝しきれません。

また、それからほどなくして、南アフリカ共和国にある子会社のパフォーマンスにも幹部の目が向けられるようになりました。子会社管理プロジェクトが立ち上げられ、私もそのメンバーに加わることとなったのです。

海外子会社は社員が十数名の小さな会社だったものの、現地人に経営を任せっきりだったため、本社の一社員である私から見てもよくわからない存在でした。当時の私に与えられた課題は、重役が提案した収支改善策について現地の経営スタッフに照会を入れ、回答を用意すること。定型文書の翻訳から始まった業務が、気づけば税務や会計の知識が求められるようになりました。

正直な気持ち、最初は自分には畑違いだと思い、嫌々参加していました。ところが、徐々に独学ながらも色々な知識を身につけていくところが、非常に面白く感じられるようになりました。

そして、入社5年目の秋、海外子会社の現地人経営者を退任させ、代わりに取締役となる人材を本社から派遣するという話が出てきました。

ちなみに、最後に本社から経営スタッフが駐在したのは15年以上も前。プロジェクトのメンバーは私以外みんなマネージャーですが、誰も手を挙げるどころか、派遣のアイディアを唱えた重役と目を合わせようとする人さえいません。

海外転勤そのもののハードルの高さに加え、現地の治安が悪いこと、さらに業務の難易度が高いことも赴任を躊躇してしまう理由だったと思います。その日は結論が出ないまま会議が終了。

ところが、家路へ向かう電車の中で心の中にある思いが生まれました。

「マネージャーが誰も行かないなら、自分が手を挙げてみてはどうだろうか」

この時、会議ではいつも末席にいた私は、重役の目に映っていなかったはずです。実際、私自身でも候補者としては対象外だと思っていましたし、沈黙を貫く上司たちを憐れむような目で見ていました。

しかし、もし自分も対象とみなされるのであれば、話は変わってきます。

「自分で立ち上げてもいない会社の取締役になれるチャンスがこの先あるだろうか?しかもこの年齢で」

それに、大学生の時に経験した留学以降、もう二度と海外に住む機会なんてないだろうと思っていました。

新しい経験ができるチャンスを目の前にして、気持ちが日に日に膨らんでいきます。想いが強くなっていくほど、治安の悪さや業務の難易度の高さといった不安要素は見えないものとなってしまいました。

「この機会を逃すと一生後悔する」

この一週間後、上司に南アフリカ行きの希望を告げ、社内で承認されることとなりました。

マネージャーではなかった私が赴任者として承認されたワケは、誰もが躊躇する環境に飛び込む意思を見せたことで、会社全体の利益を考えて行動を起こしたように感じられたからだったのではないかと思います。

2年半を過ごしたケープタウン

私の今後

南アフリカに渡航したのは2021年3月。コロナ禍の2年半の間、ビジネス面でも生活面でも東京にいては得られなかったであろう経験をさせてもらいました。
(現地での経験を書き始めるとキリがなくなってしまうため、また今度!)

そして、海外駐在を終えた今年の秋、私は5社目の勤務先を卒業しました。
会社の経営環境や自分の能力を踏まえると、ここでできることはやり切った、と思えるようになったからです。これまでとは違い、自らの力で組織に貢献できたと実感できたことから、非常にポジティブな気持ちで会社を辞めることができました。

現在は、ライターとして独立すべく、活動の幅を広げている途中です。これまで情報を整理して伝える業務に携わることが多かったことから、自分のスキルを活かしつつ、新たな知識や経験に出会える仕事をしたいと思ったためです。

20代の時に「どん底」にいた私は、ADHDと診断されてからこんなふうに人生が変化しました。ここに記した失敗の数々は、今思い返しても恥ずかしくて顔から火が出るほどです。

それでも、私と似た特性を抱えている方が元気づけられたり新たな見方で困りごとにアプローチしたりするきっかけになればと思い、この記事を書きました。これを読んで少しでも自分自身に希望を持つことができるようになった方が増えれば、この上なくうれしいです。

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