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くま読書&映画 急に具合が悪くなる/人生をしまう時間

死について書いたから、今度は生きることについて書きたいと私は以前のnoteで書きました。

しかし、すぐには書くことができませんでした。様々なタイミング的な物であったと記憶しています。しかし、忘れている訳ではありません。

死について考えるという問いは「どう死んでいくか」ということだけを取り上げているようですが、本質的には「どのように生きていくか」という投げかけではないかと思います。

そのように少しことばを変えるだけで「終活」や「人生会議」よりも、もう少しみなさんがなじみやすく、手に収まりやすく、取扱いやすくなるのではないかと個人的には思います。

どのように生きていくのか

ことばだけ見ると非常に哲学的ですね。

私は哲学のイロハも知らないので、そこを学術的に論じるつもりは今回もこれ以降もありません。(エッセンス的には混じっているとは思います)

「急に具合が悪くなる」という本があります。

私にとって「居るのはつらいよ」と同じ位大事にしている本です。

哲学者と人類学者の間で交わされる
「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか? もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を
築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの
人生を賭けて交わした20通の往復書簡。(amazon紹介文より)

この本は宮野さん(哲学者)と磯野さん(人類学者)の魂のやり取りが綴られています。宮野さんはご自身の病気を抱えながら、磯野さんと最期までキャッチボールを続け、伴走していきます。死を取り扱っていますし、作者が途中で亡くなってしまいますが、全編通じて固い内容ではなく、非常にライトで身近な話題もでてきます。感覚的には「居るのはつらいよ」と同じ位読みやすいです。

でも、私はこの本がうまく読めませんでした。そのまま読むことはできるのですが、1回読んだだけでは内容の理解が深まりませんでした。繰り返し何回も読んでいますが、まだまだ読み込みが必要だと感じています。あとからあとから自分の見てきたものや知ったことと紐づいてきて、輪郭が少しずつ見えてきているような感じがします。

さて、今回取り上げたい内容ですが

あなたに賭けたい

という話をしていきます。

私は最近、車椅子乗車問題の記事を書きましたが、冒頭の部分でこのように書かせて頂いたと思います。

この問題について書くことは一種の賭けでもあります。賭けられるのは読んで下さっている方たちを信頼しているからです。

この「賭ける」ということについて本の内容を交えて考えた事をお話します。

まず宮野さんの書簡から文章をご紹介します。

死は全ての人に等しく到来します。その到来が突然の場合もあります。死が迫っていない者などいないのです。みんなはいつかは死ぬと決まっているなかで「約束」とはいったい何なのでしょうか。
「約束」を「信頼」という観点から論じた哲学者に和辻哲郎がいます。
~中略~
和辻は、私たちが生きていくうえで最も重要な論理的基礎は「信頼」にあると言います。彼によれば、信頼とは何か特別な人との関係性に宿るものではなく、日常的な、私たちの社会を支える根本にあります。

この後、宮野さんはこの内容の例として電車の事を挙げています。

電車に乗ることをとっても信頼がなければ不可能です。
よく考えると電車というのは見知らぬ人とけっこうな時間を密室で一緒にいることで、隣の人が何を考えているのかも、この次の瞬間何をしようとしているのかもわかりません。ですが、私たちは電車を戦場だと思って乗り込みませんし、見知らぬ人がいるからと構えたりしません。
なぜなら、そこにいる人は自分も含め同じ「乗客」という役割を担い、「乗客」という関係に沿ってお互い関わるからです。
見知らぬ他者と流れる時間のなかで共に生きていくためには、人間関係を安定させるルールが必要で、人びとがそれを守ること。
~中略~  ともあれ私たちは人間関係のルールを頼りにして、怖い他者から自分を守り、また、他者に対して自分は怖くない存在だと提示し、共に社会を作ってゆくことが可能になっているわけです。

この先に和辻さんはルールへの信頼について「何をしているのか」と掘り下げていきます。そこで信頼とは
「わからないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」
と話しています。

未来はどうなるのか誰にもわかりません。ルールを破る人がいるかもしれないし、相手や自分がこの先、生きているかどうかもかもわかりません。未来に対して約束をするということは相手を信頼に値する人として扱っているということです。どうなるかわからない未来へ相手を信じて約束を結んでいるのは「冒険」でもあり「賭け」でもあると宮野さんは述べています。

そして以下のように続きます。

しかし、私たちは約束する。
それは死の可能性を隠蔽しているんでしょうか。そうではないと思います。約束とは、そうした死の可能性や無責任さを含んだうえで、本来取れるはずのない「決定的態度」を「それでも」取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前の相手に対して、「今」表明することに意味があるのだろう、と。
あなたがいるからこそ、いつ死ぬかわからない私は、約束という賭けをおこない、そのわからない実現に向けて冒険をしていく。あなたがいるからこそ決めたのだという、「今」の決断こそ「約束」の要点なのだろうと。だとしたら信頼は未来に向けてのものである以上に、今の目の前のあなたへの信であると言えそうです。

私は先ほども挙げましたが、このように書きました。

この問題について書くことは一種の賭けでもあります。賭けられるのは読んで下さっている方たちを信頼しているからです。

文章を書いている時に、この宮野さんの一連のことばを思い出していました。
私は目の前の人たちを信頼しているからこそ、賭けてみようと思いました。この車椅子乗車拒否問題については、賛否両論が巻き起こりそうな、私にとっては取り扱いが難しい問題だとあらかじめわかっていたのですが、読んで下さる方たちを思い浮かべて、自分の思いを素直に書いて記事に挙げることができました。どんな意見があっても受け止めて、書いた責任は取ろうと思っていました。

ここでちょっと話は変わりますが、「人生をしまう時間」という映画があります。

私は一昨年の秋、この映画をどうしても見たい衝動にかられ、誰にも言わずに1人で渋谷の劇場に観に行きました。そののち、夫も映画を観に行き、訪問看護ステーションを一緒に作ることを決意しました。

主人公?の小堀先生のキャラクターがとても好きなのですが(森鴎外のお孫さんだそうです)特に私の中で印象が強いエピソードがあります。全盲の娘さんとお父さんの物語。

お父さんは肺がんの末期で寝たきりです。同居の全盲の娘さんが介護をして暮らしています。

お家のお庭に柿の木があって、訪問診療の時に小堀先生が「柿なってるね」と時おりお父さんに話しかけるのです。お父さんは「百目柿でおいしいからもいでいきなよ」と先生に言います。小堀先生は「まだ柿は(時期が)はやいよ。」とか「私は高所恐怖症だから」とか「今もぐわけにはいかないよ」と、飄々といつもの調子でお父さんのすすめをはぐらかします。「柿は今は取れないけど、いずれ取る。だからあなたもその時までがんばりなさいよ」というエールをことばには出さないけれども、お互いに気持ちで交換しあっているのです。

私はこのシーンが非常に印象に残っていました。

未来への約束が人を生かします。

約束が守られたかどうかということ、よりも
今、あなたと向き合って、約束ができたこと。

新しくあなたと起こる出来事を楽しみにしたい。
どうなるかわからないけどあなたに賭けてみたい。

という約束が結ばれたその時に、人は生かされる。


だから、死を恐れて生きていくこと、今生の別れを恐れるよりも、今ある生にどう目を向けていくか、誰にもかえがたい私とあなたの約束を、お互いに今ここで交わせたかということが、何よりも大切にしたい経験なのではないかと思っています。

本日はここまでにします。長文を読んで頂きありがとうございました。

※「急に具合が悪くなる」は私が気になるところが他にもたくさんあるので、またいずれ記事に書くかもしれません。



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