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秋の夜長に見聞きして 第599話・9.13

「おお、虫の鳴き声が聞こえる。さすが竹林が目の前にある山の中だ」久しぶりに会う同期、吉岡の驚きに、智也は思わず口元が緩んだ。
「吉岡、山の中と言うか、まあ里山だな」ここは岡本智也の家。都会から離れた郊外の一軒家に住んでいる。同期で都内の別の事業所で働いている吉岡が、智也の家に遊びに来た。
 智也は元々は都会のマンションに住んでいたが、自然が好きだからという理由で、1年前に郊外に引っ越した。通勤時間は1時間以上伸び、またマイホームではなく賃貸である。それでも都会生活の雑然としている場所とは真逆的な、この静かな場所が大好き。とにかく季節をより強く感じるようになったのだ。

「ここは、町中と違って本当に季節が楽しめるんです」智也の妻、結衣が部屋に入ってきた。持ってきたのは酒の肴。といっても手作りではなくスーパーの出来合い物をそれなりに盛り付けただけであったが。
「あ、どうも奥様」吉岡が頭を下げる。
「ここは家賃がそもそも安いのに、多くの部屋がある。都会じゃいきなり吉岡が遊びに来ても泊めてやる場所すらない。今日は普段使っていない空いている客間があるから、安心してそこで泊まっていけるぞ」
 智也はそういうと、吉岡の目の前にある陶器でできたぐい呑みの盃に酒を注ぐ。「あ、どうも。いや来てよかった。岡本が郊外に引っ越したと聞いて気になったけど、ようやく来れたわ」
 智也と吉岡の会社は、夏休みを7月から9月にかけて交代で取るようになっていた。そのため有給休暇を付け加えて長期で取ることが多い。この夏は偶然にふたりとも9月に入ってからの取得となり、微妙に日程が重なっていた。だから吉岡は智也の家に泊りがけで遊びに行こうと思ったのだ。

「あ、岡本も、それから奥様は」「私も少しだけなら」ということで吉岡はふたりに日本酒を注ぐ。「その酒だって、近くの酒蔵のものなんだ。あまり見ないだろう」
「あ、そう、そうかな。ま、俺、日本酒は好きだけど銘柄とか興味ない。確かにこれ聞いたことないわ」吉岡は目の前の日本酒の4合瓶を見る。醸造所の銘柄が書いてあるが確かに見聞きしたことがない。そして『純米吟醸』と書いてあった。
「でも、これ美味いわ。明日お土産に買って帰ろうかな」「そうか、じゃあ明日酒蔵まで案内しよう」智也は嬉しそうに呟くと、自らのぐい呑み盃に入っていた酒を、一気に口の中に放り込んだ。

「でも、通勤は大丈夫なのか? 俺、来た時に1時間以上かかったよ」念のために質問する吉岡。だが智也は笑った。
「ハッハハハハ! それはわかって引っ越ししているからな。確かに早朝7時台の電車に乗らないと会社に間に合わないから、早起きになった。けどここは始発だから座れるんだ。いいぞ、毎朝座って移動できるのって」

「ここは町中のようにコンビニとかあまりないんです。けど、スーパーとかホームセンターは普通にあるから、生活には困らないんですよ」
 結衣もふたりの話に加わり、舐めるように盃に口をつけると、自分が用意した酒の肴をつまむ。
「それはちょっと憧れるな。俺のところは20分で近いけど、絶対座れんしな」羨ましそうに愚痴を吐きながら吉岡も酒を飲む。「うん、美味いわ」と再度呟いくと今度は手酌で酒を入れる。

「そうそう、吉岡、ここに来てから夜が早くなった気がするな」「え、なんで」「多分都会のようなネオンとかそういう明かりがほとんどない。それに山が多いから太陽が隠れるのが早いかな」
「そっか、でも岡本、それって寂しくないのか?」
「ないよ、ほら、こんなに多くの秋の虫が鳴いているじゃないか」智也は立ち上がって部屋の窓を全開した。
 すると風が入り込みカーテンが揺れる。だが同時に複数種類の虫の鳴き声がはっきりと聞こえた。
「おおっ! これってコオロギ、鈴虫だっけ?」吉岡のテンションが自然に上がる。
「え、いや虫の名前はわからん。だけどつい先月まで昼間と言えば、とにかくセミがうるさかった。あいつらわざと暑くなるように鳴いてるんじゃないかとさえ思ったよ。だけど」
「今は代わりに秋の虫が鳴き始めたと」後を取るような吉岡に智也は大きく頷いた。そしてやはり手酌で酒を注ぐ。

「そう、セミの死骸とかも結構落ちているんですよ。でも9月なのにもう紅葉している木なんかあって」結衣も笑顔を見せながら窓の外に耳を傾けている。「だから1年前に決断して良かったってね」「ああ、そうだ」
 酒のせいか若干顔を赤くしながら嬉しそうに智也を見る結衣。智也も結衣に笑顔を絶やさない。吉岡はそれを見ると智也夫婦のことが本当に羨ましくなる。

「あの、岡本、ちょっと散歩しないか」「え、飲んでいるのに?」
「なんとなくあの竹林のあたり散歩したくなった。まだほろ酔い状態だから夜風と虫の音を聞きながら秋の夜長を楽しもうぜ」吉岡はそう言って立ち上がった。
「そうだな。いいな。よしちょっと夜道を散歩しよう」智也も同調し、3人は立ち上がる。そして外に出た。

ーーーーーー

 外に出ると家の中とは違い、耳から入る虫の音は、はるかに大きい。3人はリラックスした表情で、秋の虫たちが奏でる演奏会を心地よく聞いていた。目の前の竹林には、アスファルトで舗装された小さな道が続いている。これは行き止まりでも何でもなく100メートル先に行けば国道に通じていた。唯その道中、両端にそびえる夜の竹林の幻想的な雰囲気は何とも言えない。ただ暗すぎることだけが難点。それを知っているためか智也は懐中電灯を持参していて、ライトをつけた。
「俺のところは、まだ残暑とか気になっているのに、ここは感じない。肌寒いくらいだ」吉岡が思わず愚痴る。
「だったら、どうだ。お前も郊外の山里に住んでみろよ」と勧める智也。だが吉岡は、それには答えない。

「あ、月が見えるよ!」突然声を出した結衣が指さす。すると竹林の陰から本当に月が映し出されていた。しかし満月ではなく、ちょうど半月くらいである。
「半分か、十五夜にはまだ早いな」と、吉岡。
「いいよ、ここは月が無くても十分秋の夜長を感じられる空間さ。さ、そろそろ家に戻って、飲みなおそうぜ」と、智也は満面の笑みを浮かべながら、ふたりよりよりも早足で家に戻るのだった。


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