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『敗北を抱きしめて』 その2

梅毒患者が増えているのだそうだ。ネット上のニュースだけでも「初の1万人超」との見出しがずいぶんたくさん踊っている。

「梅毒“1万人超え” キスだけで感染の恐れも 特徴は「気がつきにくい」」日テレNEWS 2022年11月3日 1時24分

「梅毒感染、初の1万人超」朝日新聞 2022年11月2日 5時00分

「性感染症の梅毒 初の1万人超 症状は?感染経路は?」NHK 2022年11月1日 18時03分

「梅毒感染、初の1万人超え 不特定多数と性行為で拡大 マッチングアプリ要因か」産経新聞 2022年11月1日 11時42分

「梅毒が急増、感染者1万人超え 背景にマッチングアプリの影響指摘も」毎日新聞 2022年10月27日 16時20分(最終更新 10月28日8時42分)

いずれも各メディアのウエッブサイト

梅毒急増の原因としてはマッチングアプリの影響が多くの記事の中で指摘されている。多くの記事で使われている資料によれば、感染者の年齢分布は女性が20代に集中しているのに対し、男性は20代から40代に幅広く、分布曲線の形状がずいぶん違う。

国立感染症研究所のサイトには2022年第42週(10月17日〜10月23日)のデータが公開されている。第42週時点の梅毒の感染者は累計10,141人で地域別には東京都が2,880人で最も多く、大阪府1,366、愛知県573、北海道443、福岡県409、神奈川県406と続く。マッチングアプリが今年新登場というわけではない。感染機会の拡大に無関係ではないかもしれないが、それが原因ではないだろう。

『敗北を抱きしめて』には敗戦後の世情が様々に記述されている。「第4章 敗北の文化」にはRAAの顛末が記されている。RAAについてはたまたま最近noteでの投稿を見つけた。

敗戦で国土は文字通り焦土と化し、人々の生活など成り立とうはずがない。そこへ外地から引き揚げ者が続々と戻ってくる。生産設備が悉く破壊された直後で、ただでさえ暮らしが困窮しているところに人の数が増えたらどうなるか、語るまでもない。その当時は、金銭ではなく、握り飯でそういうことが広がり出したというのである。この時代、そもそも金銭に信用が無いのだから、物々交換というか物対行為交換となるのも不思議はない。

 二つの出来事によって、売春は占領下の日本で具体的な表情をもつものとなった。ひとつは、1946年9月29日付『毎日新聞』にのった21歳の娼婦の投書であった。この女性は満州から引き揚げてきたが、身寄りも財産もなく、けっきょく東京・上野駅の地下道に寝起きしはじめた。そして、

 ここを寝所にして勤口を捜しましたが、見つからず、何も食べない日が三日も続きました。すると三日目の夜、知らない男が握り飯を二つくれました。私はそれを貪り食べました。その方は翌日の夜もまたおにぎりを二つ持ってきてくれました。そして話があるから公園まで来てくれといいました。私はついてゆきました。その日はたしか六月十二日だったと思います。それ以来私は「闇の女」とさげすまれるような商売に落ちてゆきました。

上巻 137-138頁

8月15日の敗戦放送の直後から「敵は上陸したら女を片端から凌辱するだう」と言う噂が広がったそうだ。それはつまり、日本軍が占領地でそういうことをしたという経験の裏返しでもあった、らしい。隣の国の大統領が交代して、今は少し落ち着いたようだが、前の時は従軍慰安婦のことがずいぶん話題に上った。

慰安を求めた方の日本兵がどうなったか、ということを取り上げる日本の映画は少ないのだが、取り上げるとなるとかなり骨太になる。2010年公開の『キャタピラー』という映画を公開当時に映画館で観たが、なかなか強烈な作品だった。監督は若松孝二、主演は寺島しのぶ。同年のベルリン映画祭に出品され、寺島が最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した。

それでその「噂」に日本政府は迅速に対応した。

 日本政府はすぐにこの問題への答を出した。8月18日、内務省は全国の警察管区に秘密無線を送り、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう指示した。準備は最大限の慎重さをもって行い、施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、地元の買春業者や関係者を動員すべしとされた。この日、東京・警視庁の高官は、東京・横浜地域で商売をしている「業者」と面会して、五千万円の補助金を約束し、業者側もほぼ同額を拠出することで了解をとりつけた。
 翌日、副総理の近衛文麿は、この緊急案件の指揮を警視総監みずからとってほしいと要請した。公爵であり元首相でもある近衛は、「日本の娘を守ってくれ」と警視総監に嘆願したといわれている。しかし、それから数日後のあいだに、方針が変更されることになった。降伏使節としてマニラに飛び、マッカーサー元帥やその司令部と打ち合わせを終えた河辺虎四郎将軍が東京にもどってきて、この種の施設の運営には日本政府が直接関与すべきではないと、強く主張したのである。

上巻 141頁

それでも政府は資金を用意し、警察の協力を与えた。しかしそれだけでは足りず民間からも投資を募った。結局、用意されたのは一億円ほどだったようだ。

当時大蔵官僚の若手ホープであった池田勇人は、このときの政府側の手配に活躍した人物であり、後に「一億円で純潔が守れるなら安いものだ」と言ったと伝えられている。このときの業者たちは、濡れ手に粟で国に奉仕できる好機に恵まれたことに感謝して、皇居前に集結し公然と「天皇陛下万歳」と叫んだ。

上巻 142頁

ところが、いわゆるプロの女性はこれに応じる者が少なかったという。日本人男性との体格の違いを見て危険を直感したのではないか、という説がある。本当のことはわからない。それで一般公募ということになり、Kazさんが紹介している広告が出たのである。

この広告を見て面接にやってきた女性たちは、ほとんどが貧しい身なりで、なかには裸足の女性もいたという。「水商売」をやった経験もない者が大部分で、仕事の本当の中身を聞かされると、大半が去っていった。こうして残った女性のなかには、食事と宿舎が保障されることよりも、「お国のために」自分の身体を捧げることに魅力を感じたという者もいた。

上巻 143頁

組織の正式名称は特殊慰安施設協会、英語名がRecreation and Amusement Association (RAA)で、発足の日(1945年8月28日)には皇居前広場で「宣誓」が行われたという。それで、RAAの内実がどうであったかということも書かれているが、それは心ある者ならある程度は想像できるだろう。男性経験が全くない人も少なくなかったらしいが、それが初日からいきなり数十名の米兵の相手をしたのである。逃亡する者が出るのは当然として、発狂したり自殺する者もあった。こうした施策の甲斐があったからなのかどうかわからないが、占領開始段階での強姦事件は皆無ではなかったものの、日本政府の想定内であったという。

ところが、RAAは1946年1月にGHQの命により廃止された。表向きの理由は「非民主的で婦人の人権を侵害する」ということだったが、実際は占領軍内部での性病患者の急増によるものだった。

RAAの女性は90%が性病検査で陽性となっていた。同じころ、占領軍第八軍のある部隊では、兵員の70%が梅毒、50%が淋病に感染していることが判明している。1946年4月、アメリカのペニシリンの製法特許が最初に日本の企業に売られたが、その最大の目的は、性病をなんとかするためであった。

上巻 147頁

RAAが廃止されたということは、占領軍の「慰安」が公的組織から私的組織あるいは私的関係に置き換えられたということに過ぎない。先述の「闇の女」の商売相手は殆どの場合、占領軍の兵士だった。結局、人間が生物で、しかも強固な社会性を持っているということは、生物としての行為と社会的関係とが絡みあうことなのである。

『拝啓天皇陛下様』に興味深いシーンがある。戦後、主人公の山田が戦友が暮らす長屋に出入りしていて、そこにいた未亡人に惚れるところだ。その戦友の妻が未亡人に山田を勧めるのだが、未亡人は「あんな人なんか」とつれない。それでも熱心に勧めると「やめてください。家柄が違いすぎます」と言い放つ。戦友妻はカチンときた。直前までの低姿勢から態度が変わって「わかりました。奥さんね、奥さんとあの人とのこと、ここのみんな知ってるんですからね」と返して未亡人のところから出て行く。未亡人は動揺を隠せない。「あの人」とはこのシーンの台詞限りのことで映像には登場していないのだが、今で言うところの「パパ」のような存在か斡旋業者だろう。「家柄」が良くても背に腹が変えられなければ売れるものは売ったということなのである。

『拝啓天皇陛下様』は戦後20年近く経ってから制作された映画なので、こうしたシーンは単に脚色上のことに過ぎないのかもしれない。しかし、荒唐無稽なことが脚色に使われるとは思えないし、マッカーサーに「私を抱いてください」と手紙を書いた人が少なからずいた世情であったのも事実だ。

ついでなので、少し長いが森繁久彌の自伝にある満州からの引き揚げのことも記しておく。上に引用したRAAへの志望動機と同じようなことを考えた人のことだ。

「奥さん、こんなことをお願いして、何とも言葉もありません」
「心に決していますのでご心配なく」
「あの…ご主人は、やはりソ連へ」
「ずっと前、ノモンハンの時、戦死しました。今は一階級上がりまして大尉になりました。ここに位牌を持っております」
 私はその人にカラダを提供してくださいとお願いする立場にある。このひとは団長の推薦で来られたのだ。
 話は葫蘆島に近い満洲・錦県(錦州)の収容所である。毎日五千人、一万人と難民列車が入り、満洲全土から引揚者たちのこれが最後の地。大連と並ぶ二つの集結地の一つである。
 実は私は家族と一緒にここまで来て一行と離れた。骨を埋める気持ちで来た満洲だ。せめて全満の人たちを送りつくして最後の船で帰ろう。年老いた病弱な母が何と言うか一番気がかりだったが「あなたの思う通りにやりなさい」この一言で元気を出して、母、妻と子供を入れて五人、それに若い連中も加わって錦県収容所の職員になったのである。
 ここは難問が山積していた。
 錦県まで満鉄は満洲国軍の支配下にあり、錦県からわずか三十分ほどの葫蘆島までは蒋介石軍の管轄、そして港から乗る船は米軍のLST船(上陸用舟艇)であった。いずれの一つにでもツムジを曲げられると、この錦県の収容所はパンクしてしまう。多い時には一万五千人ぐらいが一週間も滞留させられる。それを円滑にするために苦肉の策をとらざるを得ん。臨時編成の慰問団を鉄道司令所や蒋介石軍に回してご機嫌をとり結ぶ。すると汽車が動き、人ははけるのだ。益田隆舞踏団も来た。アルトの歌手斎田愛子さんも来た。色モノや流行歌手や役者たちをその時その時に組んで連れて行くのだが、慰問先の将校から「あの踊り子を今夜頼む」とこともなげに命令されると、私は全くうろたえるのだ。引揚団から特別無料で出てもらっている人たちによもやのことがあってはならない。
 どの列車にもまさかの時の用意に極秘に集めた数人の挺身隊がいた。彼女らが全体の秩序と命を守るために慰安婦となって無残な要求の犠牲となるのであるが、おおむね女郎さん上がりとか芸者、カフェの女たちで、時に特殊な素人や家庭の婦人がいたのである。
 ノモンハンで夫を亡くしたこの軍人の妻は、私の心の底深く血をにじませて感情が胸をふさいだ。
「心おきなく私をお使い下さい。主人も祖国のために命を捧げました。私も何かこの身で尽くせることがあればお役に立ちたいと願っておりました。さして命も惜しくはございません」
 あの我利我慾の鬼と化した引揚団の中にこんな美しい一輪の花もあるのかと、私は喉をつまらせて彼女を演芸隊とは別な馬車に乗せた。彼女は我が家で風呂に入り、小ざっぱりとした着物をあてがわれ、にぶい汽笛の音のする駅へ、私たちと行ったのである。

『全著作 森繁久彌コレクション 1自伝』藤原書店 360-361頁

森繁久彌は満洲の放送局の職員だった。彼の実体験に基づく敗戦から引き揚げに至ることに関する記述については記しておきたいことがたくさんある。引き揚げという切羽詰まった状況で人は「我利我慾の鬼」と化したとあるが、そのような特殊な状況にならなくても、公共交通機関の車内や施設構内、あるいは路上で、己の矮小な欲求のために他人の迷惑を顧みることなくスマホやタブレットに形相を変えて夢中になっている我利我慾の鬼は現代の巷にも溢れている。それが少しでも切羽詰まったらどうなるか、想像するまでもない。

自分が生まれるわずか17年前のことなのに、人々が焦土で何を思い何をしたのか知らない。飢えに苦しんだ人々がどのようにして日々を耐えのか実感としては何もわからない。今こうして生活が成り立っているのは、多くの人々の善良な志の賜物であるには違いない。しかし、それだけとは思えないのは自分が善良ではないからか。とりあえず、物質的には豊かである、と断言できると思う。「クソとカネは溜まるほど汚い」という言葉があるのだそうだ。

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