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私がわたしである理由 1

第一章 闇に運ばれる男


夜の8時40分台に新大阪駅を出発した新幹線...
通常なら関西方面への出張サラリーマンたちの帰路で7、8割がたの座席は埋まっている筈が、この日の7号車は京都を過ぎても僅かにパラパラと2、3割の席しか埋まっていなかった。

時刻は9時を10分ほど過ぎているので、多分列車は米原辺りを走っているのだろう…
黒い画面に何本もの白線を引くように流れる景色を暫く窓際から眺めていた潤治じゅんじは一つ大きくため息をつき、思い立ったように食べ終えた弁当の折と空になったビール缶を手早くプラスチックバッグに片付け、足元の鞄から企画資料とノートパソコンを取り出した。
資料に目を通しながら、昨日から進めた取材内容の要点を作成中のシナリオファイルに黙々と加筆し始める…

20分ほどの入力作業を終えた頃に列車は丁度名古屋に到着した。
半数ほどの乗客に入れ替わりがあったが、相変わらず通路側の隣席は空席のままだった。潤治は続けて関連スタッフに簡単なメールを配信し、最後に自宅オフィスを預けているマネージャーの志津子にメールを書き始める…

『シナリオ取材、思った以上に順調に進みました。今日は大阪に泊まらずに戻りますので明日は朝からオフィスにいます。午前中は予定はないので出社は遅くても大丈夫です。お疲れ様です。潤治』

資料とパソコンをカバンに仕舞うと、再び視線を窓に移して、少し前のことを振り返った…車窓に映し出された自分の顔はいつもの様に曖昧な微笑みを浮かべている。潤治はその表情に気が付き、慌てて口元を引き締め真顔を創り上げた。


3ヶ月程前のことだ...
編集スタジオでの立会いが深夜にまで及び、潤治がようやく自宅に車で戻ったのは、既に1時を回っていた。

一階の仕事部屋兼寝室に鞄を置くと、そっと足を忍ばせ二階のリビングに上がる。この2年程前から妻の逸美いつみとは寝室を分けている。

2人の夫婦仲は…お世辞にも良好とは言えない。
1人娘の麻衣まいを授かった頃、6、7年前辺りだろうか、潤治のライターとしての仕事がにわかに忙しくなってきた。PR映像のシナリオや企業系情報誌の記事を細々と書き下ろしていたそれまでとは打って変わり、一般誌のコラムやテレビ番組の構成、さらに深夜ドラマの脚本やCMの企画とコピーワーク、最近では作詞家というジャンルにまで職域が広がりつつある。何故そうなったのか、潤治本人にも全く分からない。子供の頃から引っ込み思案で、無口。自分を押し出し、売り込むというタイプでは決してない。依頼された仕事をコツコツと続けてきただけなのだ。

潤治は極めて自閉的で、まともに他人ひととコミュニケーションを取ることが出来ない子供だった。ライターという仕事に傾倒していったのも、文章という形でしか自分を表現することが出来ないからだったのだろう。

知り合った頃、逸美は駆け出しの若いイラストレーターだった。年齢も一回り近く離れている。社交的な逸美に比べ潤治は寡黙でいつも控えめ、周囲がどんなに騒いでいてもいつもその場の隅で微笑みを浮かべながら成り行きをじっと見つめる潤治の存在に彼女は強く惹かれたのだと言っていた。逸美は麻衣を産むとあっさり仕事を辞めてしまった。これは潤治の本意ではなかった。娘を育てる為に、自分も仕事をセーブして協力したい旨を伝えたが、逸見からは、あなたに子育ては向かないと却下されてしまった。

それが、潤治の仕事が広がりを見せ始め、一家の収入にも不安が無くなった頃から、逸美は不満を漏らし始めた。こんな筈ではなかった。このままでは子供を育てる為に人生を棒に振ってしまう。所詮あなたは私を利用しただけだった…逸美のやり場のない不満は急激に潤治への恨みへと姿を変えていった。夫婦の寝室を別々にしようと提案したのも逸美の方からだった。


リビング奥の台所脇に設置された冷蔵庫を開け、潤治はそっとビールを一缶取り出して、なるべく音が漏れないように缶の上部を両手で覆うように栓を開け、タバコを一本咥えて換気扇のスイッチを入れた。火を付けようとポケットのライターを探っていると、いきなりリビングの照明が点灯した。

「帰って来たんなら、灯りくらい付けなさいよ」部屋のドア脇にパジャマ姿の逸美が立っていた。
「あ…ああ…た、ただいま…」
「何?お腹空いてるの?今日はなんにも残ってないわよ」
「いや…いいよ。ちょ、ちょっと…あ、あの…ビールでも飲もうかと思って…あの…起こしちゃった?ごめん…」
「ううん、あたしはまだ起きてた。あのね、ちょっとお話があるんだけど…もし疲れてるんなら、明日にしようか?…いや、駄目…やっぱり今聞いて欲しい…」逸美は真顔で潤治を見つめていた。
「あ、うん。何?大事な話なの?」潤治の問いかけに逸美は大きく息を吸って呼吸を整える。
「あのね…離婚してくれませんか?…ていうか、離婚してくださいっ」余程勇気を出して言葉にしたのだろう。最後のフレーズは声量が倍ほどに跳ね上がっていた。
「…え…離婚?…な、なんで?」流石に潤治は驚いて、聞き返した。
「だって…あなた、あたしのこともう愛してないでしょ?」
「え、そ、そんなことないよ。そりゃ、ここんとこ仕事は忙しいけど…僕は家族のこと…あの…大事だし…逸美のことだって…あの…だ、大事だし…愛情だって…愛情だって…ちゃんと…ちゃ、ちゃんと… あの…」口の重い潤治にとっては精一杯の言い訳だった。もっと微妙な自分の気持ちやここ暫くの2人の関係の変化についても意見を言いたかったが、既に胸の鼓動は高まり、これ以上の言葉は重いつかえが邪魔をして届けることは出来なかった。

「そんなことないわよっ!そんなことないじゃないっ!あなたあたしを見てないでしょっ?あたしと目を合わせないじゃないっ!ずっとそうよっ。ほら、また笑ってる!あたしって、そんなに…そんなに可笑しいっ?あたしのこと、バカにしてるんでしょ?そうでしょっ?どうせあたしはあなたみたいに頭良くないけど、笑われるほど馬鹿じゃないわよっ!」逸美は声を荒らげ始める…

潤治は決して笑っている訳ではない。それは子供の頃からの防衛本能によって培われたものなのだ。追い詰められたり、窮地を感じると、自分でも気が付かないうちに微笑みが顔に出てしまうのだ。それは母親に起因しているものだということを潤治自身自覚している。


母京子が潤治を産んだのは30代も終わりに近づいてからのこと。いわゆる晩産の一人息子だった。若くして企業役員に昇進した父親の誠治せいじは息子の誕生を喜び溺愛したが、京子は何故か潤治に対して極端に厳しかった。表向きには子供を大切にする優しい母親を演じてはいたが、2人きりになる日常の空間では決して手を緩めることなく、幼い頃から潤治の行動を厳しく制限した。

家事の手伝いをすることは義務であり、勉強を嫌がることは許されず、外出や友人との遊びは制限され、テレビや漫画は勿論のこと、好きだった絵を描くことやプラモデルなどの工作行為も極く限られたタイミングのみでしか許されなかった。規則を守れない時には容赦無く体罰が待っていた。言い訳や口答えにはさらなる逆上と痛みが加えられる。逆上時の母親は手がつけられなかった。怒りで唇は震え、怒号と暴力の塊となってしまうのだ。それはまるで、潤治が自分の人生に楽しみを見出すことは犯罪であるかの様な子供時代で、思春期を過ぎ、世の中の常識を知って初めて自分の母親が異常であることを知ることになるが、その時にはもう手遅れだった。

自分の意見を他人に伝えること、他人の意見に異論を唱えることを試みようとすると、動悸が激しくなり、苦しい胸のつかえの為に言葉を発することが出来なくなってしまう。そして、いつの頃からか、潤治はそんな時には微笑みを浮かべることを止められなくなってしまっていたのだ。

潤治の子供時代の記憶は多分他の子供より少ない...
辛い記憶から身を守るためなのだろうか。逃げ場のないひどく追い詰められた状態になると、金属的な耳鳴りを覚えることがあり、そんな時には直後の記憶を失うのだ。

何故自分の母親はああなのだろう…勿論疑問に思ったこともある。母親としての愛情は感じるものの、自分に対して何か恨みのようなものも感じてしまう。
潤治は母親の生い立ちや過去を殆ど知らなかった。京子本人からも何故か父親からも、彼女の過去の話は聞いたことがなかったのだ。彼女の子供時代の写真すら見たことがない。ただし、幾度か自分の家族の戸籍謄本を見る機会はあったので、母親の旧姓は『岩崎』であり、実家は北品川であることだけは覚えている。母親とは折り合いの悪かった祖母が母親のことをよく『商家の娘のくせに…』と見下した様に陰口していたことから、多分実家は商店なのだろうと推測していた。

潤治が小学生の頃の数少ない記憶の一つ、一度だけ、母親の縁戚の誰かを見舞いに病院に連れて行かれたことがあった。相当な歳の男性老人で、もう満足に話すこともできない状態だったが、母親に促され病床の傍に押し出されると、老人は嬉しそうに目を細め、枝の様にやせ細った片手を震えながら差し出し、消え入る様な声で囁いた。
「ああ…潤さん…君が…潤さんだね…」
潤治には以前にその老人と会った記憶は全く無かった。どう接して良いのか分からず、その場で表情を硬くしていると、母親から暫く病室の外で待つ様に指示された。

京子と老人は2人きりで暫く何かを話している様子だったが、その間に廊下で待っていた潤治は、付き添いをしている縁戚を名乗る初老の女性に声を掛けられた。
「坊やは小学生?」
「はい…」
「もうこんなに大きな坊やがいるのね…苦労したけど、ちゃんとやってるのねえ…よかったわ…」女性は感慨深そうに微笑んでいた。

やがて、京子は再び病室に潤治を呼び込み、2人で老人に別れの挨拶をした。京子は老人を『おじさん』と呼んでいた。その時京子の目元にうっすら涙が浮かんでいたのを潤治は覚えている。この病床の老人と母親との間に何があったのか、付き添いの女性が言っていた母の苦労とは一体どんなことなのか、潤治は知りたかったが、母親自身が語りたくないことに触れる勇気は沸き起こらず、そのまま確かめることはしなかった。潤治が母親の親族と会ったのは記憶では後にも先にもその一度きりだった。

その後暫く経ってのことだ。潤治は父親の誠治に尋ねたことがあった。
「お母さんて、東京で育ったんでしょ?なんで自分の親戚とは付き合わないの?」
「戦争の頃にな、色々あったんだ。お母さんはもう、思い出したくないんだよ。人にはそんなこともあるもんだ。親戚なら俺の方に沢山いるからいいだろう?なんだ、もっと親戚が欲しいのか?」
「いや…そういう訳じゃないけど…」
「まあ、お母さんには訊かないでおいてあげろよ」
「うん…分かった…」

誠治が大動脈の出血で急逝したのは10年前のこと。それから2、3年経った頃だろうか、京子に認知症の症状が現れ始めた。記憶の欠落や勘違い、被害意識も強くなり、とても日中一人で放っておくことが出来なくなった。潤治は都心部のオフィスを引き払い、実家を改築し、二階の一部にオフィスを移し母親を見守ることにした。見守るとは言え、京子と潤治の関係は絶対的な主従関係だ。潤治の仕事の都合など御構い無しに我儘を押し通す京子に振り回されながら暫くは耐え続けていた潤治だったが、いよいよ母親の自立生活もままならなくなり、止む無く介護施設に入所させることとなった。丁度潤治と逸美が結婚した頃の話だ。

京子の入所後も潤治は時間が許す限り頻繁に面会を続けた。1、2時間の面会の間中、京子は潤治にあらゆる因縁を投げ掛け、理不尽な小言を浴びせ続ける。潤治はそれをただ黙って子供の時と同じ様に微笑みを浮かべて受け止め続けるのだ。


「あの…で、でも… 麻衣のことは…どうするの?」逸美からの突然の離婚の申し出に、潤治は精一杯の抵抗を試みた。娘の麻衣は潤治のことを慕っている。
潤治が家にいるときには「お父さん、お父さん」と纏わり付いてくる。2人で散歩に出掛け、近所の公園で遊ばせ、好きな本を読み聞かせ、時間があれば買い物や映画に連れて行ったり、精一杯愛情を注いできたつもりだ。自分の子供時代の様な思いは麻衣にはさせたくなかったからだった。

「麻衣はあたしが責任持って育てる。あなたはもう麻衣にもあまり関わって欲しくないの。あたしは麻衣がいなきゃ駄目なの。あなたは1人でも大丈夫でしょっ。あ、養育費と生活費はきちんと払って貰いますから」
「い、いや…あの…」潤治はあまりにも一方的で理不尽だと思ったが、それを口に出すことが出来ず、ただ曖昧な笑みを浮かべるだけだった。


潤治が2人を置いて家を出たのはそれから僅かに数日後のことだった。もちろん全てを受け入れた訳ではなかったが、麻衣を説得するために暫くの間2人きりにして欲しいとの強い要求があったからだった。取り敢えず、身の回りのものを抱え、オフィスのある実家に暫く身を置くことにしたのだ。

潤治から事情を聞いたマネージャーの志津子は驚きと共に怒りを露わにした。
「ちょっとそれ、酷いんじゃないですか?いくら潤さんが大人しいからって、そんなの今に始まったことじゃないじゃないですか。大体いきなり一方的に離婚迫って麻衣ちゃんにも関わるななんて…なんかそれ、奥さんちょっと変ですよ。潤さんが大人しいのをいいことにして…あの、潤さん交渉ごとには向いてないんですから、それ、石橋さんに預けてみたらどうですか?麻衣ちゃんとのこともあるんだから言いなりになっちゃ駄目ですよ」
「石橋さんって…前に取材した、あの弁護士さん?」
「そう、あの方離婚の調停や裁判のプロですよ。ほら、ここにもご挨拶にいらっしゃったじゃないですか。あの時私も言われましたよ。もし旦那さんと別れる様なことになったら是非相談してくれって。ね、そうしましょう。私、早速アポ取ってここに来て頂きますから。任せて下さい。いいですね」
「あ、ああ…やっぱり、その方がいいのかなあ…」


弁護士の石橋は事情を聞くと、快く引き受けてくれた。以前の取材の付合いに余程感謝しているのか、実費以外の報酬は受け取るつもりはないと申し出てくれた。


つい先週のことだった。石橋から報告が入った。果たして逸美には1年以上前から深い付き合いの男性がいることが分かった。石橋の言い分では確かな証拠も掴んでいるので、先方の要求は全て取り下げさせた上で有利に調停を進めることが出来るとのことだったが、潤治にとっては、自分なりに大切に築いてきた家庭が崩壊することに変わりはない。逸美と娘の麻衣を無理やり引き離すつもりも全くなかった。逸美が自分を離れて他の男性に走ったのも、人との絆をしっかり築くことの出来ない、言わば半壊したこの性格に原因してるのだと思うと、誰を責めることも出来なかった。強いて言えば、母親が自分に与えたもの、その母親が運命の中で抱えてきた深い闇を責めるべきなのかも知れない。


出口のない箱だ…潤治は車窓を流れる暗闇を見つめながら想う…
子供の頃から自分の性格が引き起こしてしまう数々の軋轢や別離…窮地が訪れる度にそれが一条の光となって、自分のいる場所が出口も窓もない閉ざされた箱の中であることに気付かされるのだ。抜け出すことはできない…そこはまさに箱だ。中には自分以外誰もいない、何もないのだ…ふと見ると車窓に映った自分の顔に再び微笑みが浮かんでいた。
頭の奥で微かに高い金属的な耳鳴りが聞こえ始める...
これは警告音だ。子供の頃からこの音を聴いた時には、気持ちを落ち着けて、それ以上考えない様に努める。すると音も次第に減衰しながら消えていくのだ。

潤治は窓から目を離し、一つ大きく溜息をつくと、ゴミの入ったプラスティックバッグを掴んで座席を立った。足元に置いた大切な書類とパソコンの入った鞄に目を移し、そこに放置したままにすることを少し躊躇し、それを掴んで車両の後方へと移動する。
ゴミ箱にプラスティックバッグを押し込み、すぐ脇にある喫煙ルームに目をやり、足を止めた。

いつもならこうして気を紛らわせれば、あの警告音は治っていくはずなのだが…今日は何故か一向に治る気配がない。それどころか、音はどんどん頭の中で増幅し続けていく…

まずは喫煙の前に用を足しておこう…と、通路のさらに奥にあるトイレのドアを目指した。

幸いトイレは空いていた。ドアをスライドさせ、狭く窓も何もない個室に邪魔な鞄を抱えて身を滑り込ませると、手早く用を済ませる。
その間にも頭の中の金属音はどんどん増幅し続け、もはや車両ののノイズをかき消してしまいそうだ。

なんとか手を洗い、足元に置いた鞄を再び抱えてドアを開錠しようとしたその時だった。
頭の中で鳴り続けていた金属音がその頂点を迎えた様にピタリと鳴り止むと同時に『ゴゴゴゴゴゴゴ…』という低い重低音が響き渡り、個室全体が激しく振動し始めた。潤治は体を支える為に素早く鞄を肩に掛け、左右の壁に両手を突っ張った。そのほんの1、2秒後のことだ。いきなり室内の照明が消え、全くの暗闇になってしまった。
『ゴッゴッゴッゴゴガガガ…』暗闇の中での振動は激しい揺れとなり、もはや両手で身体を支えていられる様な状況ではなかった。何か車両が事故にでも見舞われたのか…潤治はパソコンの入った鞄を抱えてしゃがみこみ、片手で頭部を守るのが精一杯となった。それでも暗闇の中で身体は左右上下に叩きつけられ、もはや何処がドアでどちらが上下かも分からない状態が続く…身体のあちこちに打撲を感じた直後、車両ごとが中空に投げ出されたのかも知れないと思える浮遊感を感じた。

次の瞬間、さらに大きな衝撃が…
潤治の記憶はここまでだった…

つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを描き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
https://i.fileweb.jp/taizodelasmith/







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