見出し画像

仙の道 1

『この物語はフィクションであり、登場する人物、団体は全て架空のものです』

第一章 『出』 (1)


20歳の誕生日の朝、礼司れいじは僅かな身の回りのものをリュックに詰め、家を出た。

丘の上の小さな木造アパートの敷地から駅に向う細い坂道に降りる。
4月の濃い青空の遥か向こうに今日は横浜港の海がくっきりと見える。不安定な天候が続いた後の久し振りの晴天だった。礼司は、この1年近く母親と2人で暮らした小さなアパートを一度ちらりと見上げると、坂道をゆっくり下り始めた。多分ここには、もう戻れないかも知れない…その覚悟は出来ていた。


それは、1年前…たった1年前のことだった。


その春から礼司は浪人生として予備校に通い始めていた。絶対の自信があった受験に失敗したものの、目指す国立大学の入試にはどうしてももう一度挑戦してみたかったからだ。

「おう、お早う!随分早いんだな、今日は」ワイシャツ姿で朝食を摂っていた父が二階から降りてきた礼司を見上げ、機嫌良さそうに声を掛けた。
「ああ、おはよう…早めに行って過去問のチェックしようと思ってさ…」
「そうか…あんまり最初から飛ばしすぎんなよ。実力的には充分合格ラインだったんだから、腰を落ち着けてじっくりやりゃあ、次は絶対大丈夫だよ。ま、俺も一浪だったしな」
「そうよ。勉強嫌いのお父さんだって一浪したら受かったんだから、礼くんなら大丈夫よ。気楽にやりなさい。無理して身体壊さないでよ。朝ご飯食べてくんでしょ?」キッチンから母の昌美まさみが声を掛けた。
「うん。軽くでいいや。あれ?姉ちゃんは?」
「今日は会社休むって。まだ寝てるわよ」
「大丈夫なのか?あいつ」
「なんだか、やっぱり会社辞めたいんだって…ま、あたしが言っても言うこと聞く子じゃないし…もう大人なんだし…ねえ」
「そうか……あいつ、会社で何かあったのか?」
「さあ…詳しいことは何も言わないけど、人間関係が疲れるって…こぼしてたけど…」
「俺から訊いてやろうか?」
「駄目よ。あたしにだって何も言わないんだから。そのうちゆっくり訊いとくわよ。それより、あなた今日は晩ご飯は?」
「ああ、今日はちょっと遅くなるな。外で済ませてくる」
「あら、今日も?」
「ああ…社内監査とか、いろいろあってな…」
「総務に移っても、ちっとも帰りが早くならないのね…」
「ああ…いろいろあってな……」

業界トップクラスの大手建設会社に務める父の隆司たかしは、長年営業の第一線で働き続けてきた。しかし3年ほど前の辞令で営業の現場を離れ総務部の部長に昇進した。
「昇進とは名ばかりの、体のいい左遷だな」と冷笑した父の寂しそうな表情を礼司は今でも忘れられない。

礼司たち姉弟が小さい頃から、父親は殆ど休日も取らずに働き詰めに働き続けてきた。帰宅はほぼ毎日深夜だった。しかし全く家庭を顧みない父親というわけではない。いつも家族のことは気に掛けていて、たまの一家団欒の機会には礼司たち家族の話をよく聞いてくれた。数えるほどの記憶しかないが、一家で行楽地に出掛けたり外食を楽しんだこともある。
10年前には都内に小さなマイホームを手に入れ、ローンの返済も予定よりずっと早くこの春には終えることが出来た。彼なりに家庭を大切に考えていることは明らかだった。礼司にとっても、親密とまではいかないものの、頼りになる父親だった。

姉の佳奈かなは礼司ほど優等生ではなかったが、子供の頃から大らかで明るくくったくのない性格で周囲の誰からも愛される子供だった。学歴重視の両親の気質が原因してか、思春期には多少の確執があったものの、非行に走ることもなかったし、激しく反抗するということもなく、ごく普通に短大を卒業した。
両親は出来が悪いと頭を抱えていたが、礼司からみれば、佳奈は優しく家族思いの頼れる姉である。両親の夫婦仲も問題がないように見えたし、姉弟差別なく愛情を注いでくれているように思える。
贅沢な暮らしこそしていないが、経済的にも問題はない。父がエリートコースから弾かれ、姉が就職先に馴染めず、自分が大学受験に失敗したところで、この我が家の日常が大きく変わることはなく、平和な一家の日々は続いてゆく…礼司は、正直なところその安心感が好きだった。

その日も、礼司はいつものように予備校に向かい、午前中は自習室に篭り、いつものように友人と一緒にコンビニで昼食を買い、午後2コマ分の講義を受けて、いつものように夕刻には帰宅した。


そろそろ日も暮れかかっていたのに、珍しく玄関灯が点灯していなかった。
ドアには鍵が掛かっていた。

「ただいま…」声を掛けたが、家の中からは何の応答もなかった。いつものこの時間なら、テレビの音やキッチンから響く夕食の支度の音で活気づいている筈の家の中は薄暗く静まり返っていた。

リビングルームへのドアは開け放たれていた。
「なんだよ…誰もいないの?」礼司は呟きながらリビングルームに入り、部屋の照明のスイッチを入れた。
「お母さん…いたんだ…」

ソファに浅く腰掛け、自分の足元をじっと見つめていた母親が、うつろな表情でゆっくりと顔を上げた。
「あら…礼くん…お帰り…」
「どしたの?何かあったの?電気もつけないで」
「お父さんがね…捕まっちゃったんだって…」母親は消え入りそうな声で呟いた。
「は?なにそれ?つかまったって…お父さんが?…」
「…警察に…逮捕されたって…礼くん…大変なの……」
「なんだよ、それ…お父さん、今朝、会社に行ったんじゃないの?」
「大丈夫…きっと、何かの間違いよね…きっと…」

必死に冷静を取り繕おうとする母親の様子に、礼司はようやく事の重大さを感じ取った。
「マジかよ…嘘だろ…ねえ、姉ちゃんは?」
「さっき、お部屋に上がっていったけど…あ、もうこんな時間…お夕食の支度しなきゃね…お腹空いたでしょ?」
「いいよ、そんなの。俺、ちょっと姉ちゃんの部屋に行ってくる…」

急いで二階への階段を上がると、佳奈の部屋から話し声が聞こえた。
「分かりました。すいません。宜しくお願いします。で、これから、どうしたら……はい……はい……」

そっとドアを開けて、礼司は佳奈の部屋を覗き込んだ。佳奈は携帯電話で誰かと話をしながら顔を覗かせた礼司にちらりと視線を送った。
「あ、弟が…弟の礼司が帰ってきたみたいなんで、ちょっと、いったん、お電話切らせて頂いていいですか?すいません……はい……明日ですね……はい、分かりました……明日、御連絡待ってます。宜しくお願いします……はい、それじゃ」佳奈は電話を切ると、礼司を部屋に入れてドアを閉めた。

「お母さん、どお?」
「どうって…一体、何があったの?」
「お父さんがね…警察に捕まったの」
「お母さんもそう言ってたけど…お父さん、どしたの?」
「背任横領だって…」
「背任横領?…って、会社の金、使い込んだってこと?」
「そうらしいの…昼過ぎにお昼食べようと思って下に降りてったらさ、お母さんが電話のとこでぼうっとしてるから、どうしたの?って聞いたら、警察から電話があって、お父さんが業務上横領の疑いで拘留されてるって…びっくりしたわよ」
「嘘だろ…どういうことなの?」

佳奈の話ではこうだった…
母親の昌美は警察からの電話の後、放心状態だった。事情がよく分からない佳奈は、取り敢えず父が営業部にいた頃の部下で、よく我が家にも訪れていた人物に連絡を入れてみた。
社内で大きな横領事件が発覚し、どうやらその中核に父の隆司が関与していたらしいという事だったが、詳しいことは社員たちにもまだ知らされていないようだった。父親が間違いなく大きな事件の渦中にいる事だけは確かだった。

佳奈が暫く母親と一緒にいると、父の高校生時代からの友人で、荒木と名乗る人物から電話が掛かってきた。父親とは数年前の同窓会で久し振りに再会して以来、交友が続いているという。荒木は刑事訴訟を専門とする弁護士だった。警察署での取り調べの際、父親が呼んで欲しいと伝えたらしい。彼がすぐに署に赴き接見すると、父親は彼に全ての事情を話したようだった。

父親は総務部の部長になってからのこの3年の間に、以前から親しくしていた下請け工務店の経営者と謀り、幾度となく社内関連の偽装発注を繰り返していた。もちろんその度に工務店側から多額の金銭を受け取っていたということだった。かねてから調査を進めていた会社が、今朝隆司の出社を待って問いただしたところ、背任行為を認めた為、警察に通報したというのが経緯のようだった。

「じゃあ…何か事件に巻き込まれちゃったとか、そんな話じゃねえんだ」
「そうなのよ…取り調べでも、自供してるみたいだし…」
「お父さん、会社の金、どのくらいパクったのかな?」
「パクったとか言わないでよ!親でしょ!」
「俺だって、信じたくないけど…でも、そうなんだろ?」
「弁護士の荒木さんの話だと、詳しくはまだ分からないけど、相当大きな額らしいって。多分お父さん一人の犯行じゃないだろうけど…間違いなく主犯だって…」
「そうか…マジか…参ったな…」
「お母さん、どうしてた?」
「ぼうっとしてる…何かあったのって聞いても、よく分かんないからさ…で、姉ちゃんに聞こうと思って…」
「警察から電話があってからずっとああなのよね。荒木さんからの電話にも出てもらったんだけど、事情がよく飲み込めてないみたいだから、落ち着いたらよく話しといてくれって言われたわ」
「さっきの電話は?」
「あ、あれも荒木さん。携帯の番号教えて貰っておいたから、これからどうしたらいいか相談しようと思って…」
「何だって?」
「とにかく詳しいことがまだ分かってないから、明日荒木さん、会社の方に行って話をしてくるって言ってた。そのあとで連絡くれるって。たぶんうちの方にも顔を出すってさ」
「お父さんはどうしてるって?」
「当分取り調べが続くらしいよ。今は家族が行っても面会できないし、必要なものは留置所の売店で買えるから大丈夫だってさ。弁護士はいつでも会えるから、まめに顔出して、必要なものは差し入れてくれるって。お父さん、捕まって逆にほっとしてるみたいよ。落ち着いてるから、大丈夫だろうってさ。何だか凄くいい人よ、荒木さん」
「じゃあ、取り敢えず今日は俺たちはどうしようもないんだよね」
「そうね。あ、それから…明日、家宅捜索が入るかも知れないから、家にはいた方がいいって」
「家宅捜索か…何かドラマ見てるみたいだな…」
「ほんと…あたし、まだ信じられない…」
「とにかく、お母さんと一緒にいた方がいいんじゃねえか?俺たち」
「そうね…礼くんが帰ってきてくれて、何だかあたし、少しほっとしたわ…」


2人で階下したに降りると、母の昌美は台所で夕食の支度をしていた。
「とにかく、何か食べなきゃね。ごめんね2人とも。お夕食、遅くなっちゃうわね。今、ご飯のスイッチ入れたから…エビチリと中華スープ…冷凍だけど…2人とも好きでしょ?…冷凍だけど…ごめんね…」
「いいよ、お母さん。あとはあたしがやるから」佳奈が昌美の傍に歩み寄り、フライパンとレードルを引き継いだ。
「…佳奈ちゃん…あたし…」
「いいからいいから…ほら、礼くん、テーブルの用意手伝ってよ」
「うん、分かった…」

この日、3人で囲んだ夕食のテーブル…これが礼司がこの家で迎えた最後の日常だった。3人は、翌日から自分たちに振りかかる急激な転落をまだまだイメージできていなかった。

第2話につづく…


今回の連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。
カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?