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私がわたしである理由9

[ 前回の話 ]


第六章 藤村家の人々(1)


翌日、潤治は甲一郎が調達してくれた国民服を身に着け、『山口屋』を徒歩で目指した。
桐谷から交差点を先に進み、国道一号線を越えると『百反ひゃくたん通り』と呼ばれる商店街となる。狭い舗装道路の両側にずらりと大小様々な木造の商店が並んでいる。
百メートル程先に進んだ右手に、間口三間、木造三階建の一際大きな金物雑貨店がある。それが正雄の店『山口屋』だった。商店街は物資不足の時勢もあって、閉められている店舗も少なくなかったが、山口屋はかろうじて疎らながら商品を並べて営業を続けている様子だった。

潤治が店頭に近づくと、店先で商品棚の整理をしていた従業員がそれに気付き顔を上げた。
「はい、らっしゃい。何かお探しで…あ、お客さん、えと…確か…川出さん…」
数日前に旅館に酒を届けてくれた功夫いさおと名乗った青年だった。

「ああ、先日はどうも有難うございました。えーと…功夫さんでしたよね」潤治がそう返すと彼は嬉しそうに顔をほころばせる。
「えへへ、どうも…あ、大将ですか?ちょっと商店会の方に顔出してますんで、いや、小1時間も経たねえで戻ると思いますけど…どうせちょいとアレですから…」功夫は右手の三本指で将棋の指し手の真似をする。
「そうですか…じゃあ、どこかで時間潰して、また出直してきます」
潤治がそう言うと、功夫は慌ててそれを制した。
「いやいや、そんなこと言わないで下さいよ。わざわざいらして下さったのに、追い返したってえと俺が怒られちまいますから。少しお待ちんなって下さい。俺、一っ走り呼んできますから…」
「え?だって、お仕事中でしょ?そんな…」

潤治が恐縮していると、その様子を聞きつけて奥から着物にモンペ姿の小柄な女性が店先に降りて来た。
「イサどん?どうしたの?お客さん?」控えめで目立たない装いだったが、大きな瞳で彫りの深いアイドル的な顔立ちの30代の利発そうな女性だった。

「あのお…大将を訪ねてらっしゃったお客さんで…あの…ええと…」恐らく功夫は正雄から何かを口止めされているのだろうか。しどもどと口を濁す。すかさず潤治は割って入った。
「あ、どうも突然お邪魔しまして申し訳在りません。先日藤村さんに大変お世話になりました川出と申しますけど…」
「あらあ、おたく様が川出さん。主人から伺ってますよ。本当に先日は災難でしたねえ。なんだか主人が随分良くして頂いたそうで…久々に気持ちいい方とお知り合いになれたって、帰って来て喜んでましたから。あ、失礼しました、初めまして、家内のきくと申します。主人が大変お世話になりました。まあまあ、こんな店先じゃあ何ですから、どうぞお上がりになって…むさっ苦しいところですけど、どうぞどうぞ…」
「い、いや…ご主人、お留守だと伺いましたんで、少し間を置いて、また出直します…」
「まあ、そんなこと仰らないで、どうぞどうぞ。ふふ…どうせその辺りで油売ってるだけですから。ほらイサどん、呆っとしてないで、一っ走り呼んで来て頂戴。どうせまた増田屋さんよ」
「あ、はい。じゃ俺…」功夫は身を踊らせるように店を走り出ていく。

「まあまあ、どうぞどうぞ、直ぐに戻りますから、こちらから上がって下さい」
潤治はきくに促されるまま、店を回り込んで奥の玄関口へと進んだ。


藤村家は店の間口だけでなく、思った以上に奥行きのある大きな木造家だった。
通された座敷奥には立派な仏壇が備えられ、続きに広い床の間、縁側に奥庭もある、この辺りの商店としては珍しく相当な敷地を有していた。

「ちょいとお、せきちゃん、積ちゃーんっ!あんたどうせ暇なんだから、降りて来て少しの間店番して頂だーいっ!」一時いっとき炊事場に下がったきくが大きく声を掛けている。

やがて、ドタドタと急いで階段を降りる足音…
「イサどんやおばあちゃんは?あたし、今本読んでんだけどなあ。すごくいいとこなのよお。あのね田舎のね、師範学校を卒業したばっかりの若い女の子がね、東京の有名女学校に赴任してくるの。1人で2日間も汽車に乗って…ねえ、とっても勇気があると思わない?若い女の子が一人でよ。あたしなら、とっても無理だわあ。そりゃあ、あたしだって度胸がないわけじゃないけど、一人ぽっちなんてとっても寂しくて、きっと涙が止まらないと思うの。お喋りできる友達もいないんだからさ。初めて見る大都会で、初めて見る大勢の人混みで、下宿先の親戚の叔母さんの家を探すの。でもね、その叔母さんがね、なんと、芸者さんの置屋の女将さんなの。すごく厳しいぶっきらぼうな人でね。でも本当はすごくあったかくっていい人なのよ。そういう人っているわよね。ぶすっとしておべっか言わない人が物凄く親切だったりして。それでね…」綿々と続きそうな少女の言葉をきくが遮る。
「ああ、はいはい、その話は後でゆっくり聞いてあげるから。おばあちゃんはかよ子たち遊ばせに公園、イサどんはお父さん呼びに行ったのよ。お父さんにお客さん来たからね。あんたもご挨拶くらいしなさいよ」
「だあれ?お客さん…」
「あんたの知らない人よ。ほら、さっさと行って!」
「はーい、お店で本の続き読んでていい?」
「いいよ。どうせお客さんも少ないし」

やがて半分開かれた襖からおかっぱ頭の少女が顔を出した。紺色のセーターに明るい暖色のモンペ姿だ。
「初めまして。いらっしゃいまし。長女の積子と申します。へへ…」
小学生高学年だろうか、その場に座りぺこりと頭を下げる。いかにも活発を絵に描いたように日に焼けた屈託のない笑顔で微笑んだ。

時代から見れば、潤治の母親京子と同じ年回りの少女だ…同じ時代を生きている。潤治は母親がこの娘の様に明朗で屈託のない人格だったら…自分の人生はもっと違ったものになっていたかも知れない…と、思いを巡らせた。

「ああ、どうも…初めまして。川出と言います。お父様の友人です。積子さんは小学生ですか?」
「はいっ、5年生です。今は…ちょっと、お休みだけど…」
「本が好きなんだね。さっきのお話、もしかして、獅子しし文六ぶんろくの『信子』じゃない?」

潤治の家には子供の頃から獅子文六の単行本がずらりと揃っていた。中学生の頃に夢中になって読んだ経験がある。
「そう、そうよっ。信子…おじさん、獅子文六好きなのっ?」積子は初対面の中年の男性が、今や流行はやり、若いスタイルの流行作家のことを知っていたのが余程嬉しかったのか、驚くと共に満面の笑顔を見せた。

「でも、まだ小学生なのに、大人の小説を読んでるなんて、すごいね」
「ふふ…あたしね、本は何でも好きなの。夏目漱石とか芥川龍之介とか川端康成とか…ほら、ちゃんとした小説家って、とっても文章が綺麗でしょ?小僧さんたちが貸してくれる挿絵のついた赤本もいいんだけど、いっぱい読んだら飽きちゃって、でもね最近、お隣のお姉さんが獅子文六の本を貸してくれたの。あたしみたいな子供でも読みやすいし、何ていうのかしら、物語の風景がとっても良く見えるの。まるでそこに居るみたいに…行ったことのない街の風景や森の景色や、風や匂いやそこに居る人達の様子とかね、まるで映画を見てるみたいに。映画も好きなのよ。でも子供が一人で観に行けるもんじゃないでしょ?お金も掛かるし。それにせいぜい1時間半とか長くても2時間で終わっちゃって、あーあ、もっと観てたかったなって…でも、本はね、それが何時間でも何日でも続くの。それって素敵なことだと思わない?すごく贅沢だと思わない?それに獅子文六はね、そこに何ていうのかなあ…えーとお…あ、エスプリ、っていうの?クスクスって笑えるところが沢山散りばめてあるの。いい景色を眺めて物語に夢中になってると、時々クスクス笑えちゃったりするのよねえ。どんなに辛いことがあっても、あたし、本があったらきっと存分に人生を楽しめると思うの。おじさんもそう思わない?おばあちゃんは無理だっていうんだけど、あたしね、大人になったら小説家になってやろうと思うの。自分が読みたい本を自分で書くの。どお?素敵だと思わない?だってそうでしょ。あたしみたいな子はいくらお金が稼げるようになってもきっと全部本に遣っちゃうんだから。だったら何度読み返しても飽きない小説を自分で書けばいいと思わない?どお?いいことに気が付いたでしょ?それで、おじさんは他にどんな本を読むの?…」
「あんたいい加減にしなさいっ!いつまでもお客様のお邪魔してないで、さっさと店番に出なさいっ!どうもすみませんねえしつけが悪くて。まあ、こんなご時世ですから何にもありませんけど…」
きくは暖かいお茶と紙の敷かれた菓子鉢に盛った芋けんぴを潤治の前に置いた。

「あ、おばあちゃんの芋けんぴだ。いいなあ…あたしの分はないの?…」菓子鉢を見た積子が羨ましそうにねだる。
「これはお客さん用。あんた達はこの間たっぷり頂いたでしょう」きくが苦笑する。
「はは…積子さんは芋けんぴが好きなの?」潤治が尋ねると、積子はこっくりと頷いた。
「ここのところは、甘いもんなんて滅多にないんで、義母ははが先日麦芽糖こさえて芋けんぴにしたんですよ。まあ、そりゃあお砂糖ほどは甘かありませんけど、ちょいとね、おつに甘くて、なかなかいい具合に出来ましたんで、お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞ上がって下さい」
「それはそれは…そんな貴重なもの…じゃあ僕の分、半分積子さんにあげましょう」潤治はそう言うと敷き紙に目の前の芋けんぴを半分包んで、積子に手渡した。

「まあ、いいんですか?ほら、積ちゃん、じゃあそれ頂いてちゃんと店番するのよ」
「はあい。おじさん、ありがとう…ふふ…積子さんかあ…」積子は本を抱え紙包みを持って嬉しそうに店番に向かった。

「ふふ…主人の言った通りだわ。川出さんてお優しいのねえ…ふふ…」きくはさも可笑しそうに口に手を当てる。
「いえいえ…お嬢さんがあんまり明るくて溌剌とされてるから…ついつい…でも、今日は土曜日ですよね。積子さん、学校はお休みなんですか?」
「嫌ですよ。何言ってんですか、今日日きょうび小学校なんて、この辺じゃどこもやってやしませんよ。学童はみんな集団疎開なんですから」

そういえば、確かに潤治がこの時代に来てから、都心部では子供の姿をあまり見ていない。
「あ、そ、そうか…でも、積子さんは?」
「行ってましたよお、去年から。それがねえ…松が開けた頃にうちのがね、主人がね、様子見に行ったんですよ。それでですね、あんなとこに預けといたら、栄養失調で死んじまう、うちの方で縁故疎開させるって、無理やり連れて帰って来ちまったんですよ。まあ、本人は喜んでますから、いいんですけど、体裁が悪いやらなにやらで、正直困ってるんですよ」
「そうなんですか…で、どっかに疎開はさせるんですか?」
「それがね。うちはほら、下に小さいのが3人もいますから、3人も4人も変わらねえ、この辺りにゃ軍事施設は何もないから大丈夫だろうって…でも、この間、戸越の方が随分やられましたでしょ?さすがにねえ、うちもそろそろ一旦お店閉めて、一家で暫く郊外にって言ってはいるんですけど、姑がねえ、首を縦に振らないんですよ。店はあたしが守るなんて、啖呵たんか切っちゃって」
「でも…この辺りも危ないんじゃないですかね?正雄さん、説得出来ないんですか…」
「ああ、駄目駄目。うちの人は母親の前じゃ、からきしですから…」

それからきくは藤村家の話をし始めた。頑固で強権的な姑の久邇くにを筆頭に正雄、きく、長女の積子、6歳になったばかりの次女のかよ子、4歳の正子まさこ、そして末っ子でまだ一歳の長男・崇史たかし。それにいわゆる『小僧さん』と呼ばれる従業員が3人いたらしいが、戦局悪化で商売も先細りとなってしまった今は、唯一きくの遠縁でもある功夫一人を残し、あとは郷里や実家に帰したそうだ。それでも総勢8人の賑やかな家族だ。

「川出さん、ご家族は?確か中学生の方と会ったってうちのが言ってましたけど」一通り自分の家族の話を終えたきくが尋ねた。
「あ、あの…彼はその、親戚でして…僕の方は…妻と4歳の娘がいるんですけど、今はちょっと…別居中でして、離れています」
「あら、それはお寂しいですねえ…お仕事のご都合か何かですか?」
「いえ…あの、そういう訳ではないんですけど…」
「まあ、夫婦には色々ありますもんねえ。うちなんか年がら年中喧嘩ばっかしですよ。あたしと主人、姑とあたし、主人と姑、三つ巴ですから…ふふ…結局いつも勝ちを取るのは姑ですけど…」

その時功夫の威勢のいい声が店側から響いた。
「大将戻りましたよーっ!」
「ほらほら、噂をすれば何とやらだわ…」

急いで帰宅した様子でどかどかと正雄が座敷に入って来た。
「何だ何だ、潤さんの方から出向いてくれるなんて思ってなかったぜ。諸々上手くいってんのかい?明日辺り顔だしてみようと思ってたんだぜ」正雄は潤治の突然の訪問に驚きながらも嬉しそうだ。
「はい、お陰様で何とか少し落ち着きましたんで、ご報告に伺いました。すいません、突然で…でも、お電話がもう無いということでしたから…」
「いや、いいんだいいんだ。俺あどうせ毎日暇なんだからよ。それより、潤さんは大丈夫なのかい?ふらふら出歩いて」
「え?川出さん、何か外出歩いちゃまずいことでもあるんですか?」きくが怪訝そうに尋ねる。
「いえ、あの…その…ちょっとその…体調の方が…」潤治は咄嗟に繕う。
「そ、そう、そうなんだよ。この間な、具合悪そうだったからよ…心配してたんだぜ」正雄も慌てて話を合わせる。
「まあ、それは良くないですねえ。大丈夫なんですか?」
「ええ…はい。色々あったんで、少し疲れが出ただけですから。今はすっかり…はは…」
「そうですか。まあ大変な目にお合いになったんですもんねえ。こんなご時世で栄養状態も悪いんですから、お気を付けて下さいましよ」
「あ、はい、どうも…あ、そうだ。あの、これ…先日お世話になったお礼に…ほんの少しばかりですけど…」潤治はハトロン紙の小さな包みをきくに差し出す。
「まあまあ、何ですか?…」
「あの、身内が軍部にいるもんで…コーヒーと角砂糖です。少しで申し訳ありませんが…」勿論それは、甲一郎から託されたものだったが、正雄以外の家族には決して自分の名前を出さぬ様に口止めされていた。

「あらあら、そんな貴重なもの、いいんですか?…角砂糖なんて、久しぶりだわあ…」
そこに会話を聞きつけた積子が飛び込んできた。
「角砂糖っ?ねえっ、角砂糖頂いたの?…いいないいな、ねえ、あたし一つ頂いちゃ駄目え?」
「何言ってんの。さっき芋けんぴ食べたばっかりでしょ?駄目よ。これはお客さん用に大事にとっとかなきゃ」きくが窘める。
「えーっ、ちぇっ…甲おじちゃんが来てた時は、いっつも持ってきてくれたのになあ」
「甲兄さんはもう来ないよ。あんな非国民…うちにはもう出入り禁止だから…それより積ちゃん、あんたお婆ちゃんの前であの人の話は絶対にしないでおくれよ。名前が出ただけで一日機嫌が悪くなっちまうんだから…全く…」
「ま、それだけお袋も気に掛けてるってことさ。なあに、どうせ戦争さえ終わればまた元に戻るんだから、ほっとけばいいさ。はは…」
正雄が笑顔で話を流そうとするときくが睨み返す。
「何言ってんですか。お婆ちゃんのご機嫌とるのはあたしなんですからね。軽はずみなこと言わないで下さいよ!」

「あーあ、甲おじちゃんと会いたいなあ…あたしいくら非国民でも、甲おじちゃん好きだもん」積子が角砂糖を見つめながら呟く。
「まあ、そのうち俺がこっそり会わせてやるよ」
「あたしの目の届かないとこでやってくださいよ。あたしゃこれ以上背負しょい込むのは御免ですからねっ」
「分かった分かった。おい、それより潤さん、ちょいとその辺に出ねえか?今日は急ぐ用事もねえんだろ?」
「あ、ええ、はい…」
「あら、お急ぎじゃないんでしたら、うちで夕飯ご一緒しませんか?」きくが勧める。
「いやあ、そんな…こんなご時世にご迷惑でしょうから…」
「そんな大したことはしませんよ。それこそこんなご時世ですからね。うちは大所帯ですし、商店ですからそれなりに食べもん位はあるんですよ。ほら、折角いらっしゃったんだから他の家族にも会ってやってくださいましな。みんな喜びますから」
「やったあ!おじさん、一緒にご飯食べてってよ!」
「おう、そうしなそうしな。客がいてくれた方がうちも和むしよ。な?」正雄がきくに笑顔を投げ掛ける。
「そうですか?…じゃ…お言葉に甘えて、ご馳走になります…」
「おう、遠慮すんな。折角訪ねてくれたんだからよ。じゃ、ちょいと出ようか」
「ああ、あなた、折角頂いたんだからこのコーヒー少し持って行ったら?どうせスワンでしょ?あそこで入れて貰った方がいいわよ。いつも世話んなってるんだから」
「ああ、そうだな…じゃちょっと多めに分けてやるか…」


百反通りの外れにある古風な喫茶店『スワン』に着くと、正雄は慣れた様子で店主にコーヒーの包みを渡す。
「おい、やっちゃん、これあ本物のコーヒーだぜ。さっきこちらから頂いたんだ。ちょいと淹れてくれねえか。残りは店で使って貰っていいからよ」
「本当か?いやあ、そらあ有り難いや。本物のコーヒーは久しぶりだ。どうも、有り難く使わせて頂きます」店主は包みを手に嬉しそうに潤治に頭を下げる。
「いえ、ほんの少しですけど…」
「こいつは俺のガキの頃からのダチで康男やすおっていうんだ。こちらは俺の知り合いで川出さん。海軍さんでちょいと仕事してる方だ」
「へえ…そうですか。そらどうも、お見知り置きを。どうぞどうぞ、むさ苦しい店ですが。へへ…」
小柄でいかにも人の良さそうな店主の康男は店内の一番奥のテーブルを指し示す。いつもの正雄の定位置なのだろう。

正雄は奥のテーブルに陣を取ると、待ち兼ねたように声を落として尋ね始める。
「で?潤さんがこうやってのこのこやって来たってえことは、身元の方は問題なく準備出来たってえことかい?」
「ええ、はい…名前はそのままで、ちゃんとした戸籍が登記されました。こんな感じです…」潤治は上着のポケットから自分の新しい履歴が書かれた四つ折りのメモ用紙を渡した。

暫くの間、正夫は黙ってその用紙に丁寧に目を通していたが、やがて顔を上げ再び口を開く。
「なあるほど…東京生まれの東京育ちってえことだな…じゃあ誠治くんとこの川出家とはもう縁がねえってことかい?」
「いえ、遠縁ということでいいんじゃないかなって…あっちの本籍は神戸ですけど、苗字は同じな訳ですから。あ、これは甲一郎さんの意見ですけど…」
「まあ、そこまで調べる奴あいねえだろうからな。それより、その報告にわざわざ来てくれたのかい?他に何か用事があるんじゃねえのかい?」
「ええ、その通りです。ちょっとなるべく早く相談したいことがあって、実は…」

潤治は昨夜甲一郎と話をしたここ百反がいずれ被るであろう戦災について、その概要を簡単に説明した。正雄は暫く言葉を失い、沈黙の中で必死に考えを纏めようとしている様子だったが、やがて周囲を気遣い声をひそめる様に囁いた。
「この百反が、焼けて無くなっちまうってことかよ…本当まじでそうなっちまうのか?…」
「僕の持ってる記録を調べると、この辺は焼け野原になるんですけど…あの…僕もこの時代に居たことがある訳じゃないので…だけど、去年の11月の荏原の空襲も12月の品川の空襲も記録通りなんです。だから…」 
「で?そりゃ一体いつ頃なんだ?その、潤さんの記録とやらによると…」正雄が潤治の説明を遮る。
「あの…記録は大まかですから詳しくは分かりません。何度か空襲はある様ですけど、品川荏原で一番被害が大きかった爆撃は、5月の24日と25日の2日間、あとその前の4月15日にも比較的規模の大きい空襲があった様です」
「そうか…どうやら覚悟した方が良さそうだな…」正雄はそう呟くと、気を取り直した様に潤治を直視して続けた。
「おい、東京は一体どうなっちまうんだ?深川とか飯倉とか愛宕の方とかよ、そうだ、誠治くんとこの目黒はどうなんだよ。危ねえとこは親戚連中にも知らせてやんなきゃじゃねえか」
「下町方面の被害はもっとずっとずっと深刻なんです。それも間近に迫ってますんで…」
「そうなのか?…」
「ええ、で、甲一郎さんが明日の日曜、家の方に来て欲しいそうです。正雄さんと今後のこと、なるべく早く相談したいって…」
「おう、そうか…丁度明日潤さんの様子見に行こうと思ってたところなんだ。誠治くんも一緒に行きたいって言うからよ、午前中に待ち合わせる事になってんだ。その足で向かうから、甲兄さんにもそう伝えといてくれ」
「分かりました」

つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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