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妄想短編小説 『渡せ橋』

何の目的もないまま、ここまで来てしまった…

どこか遠くに…兎に角、現状を離れたい一心で街を出た。
ふと、全てが疎ましくなってしまったのだ。


人生は淡々と続く…希望通りではないが、運もあったのかも知れない。まあまあそこそこの生活を手に入れた。
不幸なのかと訊かれれば、そういうことではないと答えるのだろう。
第一『幸』『不幸』の測り方など私には分からない。悲嘆に暮れたこともあったが、極々数えるほどでしかない。概ね笑顔で人生を送ってきた。

『美食』の条件は『空腹』だ。『満腹』であれば『美食』には何の意味もない。

家庭を持った。家族がいた。仕事があり、友人や仲間がいて、意欲があり、目的や夢があった。足りないものを充足させていくことに満足していた時もあった。


「あなた、どこにいくの?」家を出る時に妻に訊かれた。
「暫く、遠くに…」
「そう…帰って来る?」
「さあ、どうだろう…分からないな…」
妻は微笑んでいた。多分、いつもの冗談だと思っているのだろう。


乗り慣れた通勤列車で中央東駅に出る。そこから北行きの特急列車に乗り換え、まずは北部の山脈を超えてみようと思う。

何時間走ったのだろうか…いくつもの長いトンネルを抜け、南北を切り裂く広大な山脈を抜けると、やがて列車は広い盆地の南端をさらに北へと突き進んでゆく。
標高が少し高くなったせいかも知れない、ここまで来ると風景の色彩…そのグラデーションの濃淡が淡くモノトーン化してくる。

途中、多分もうすぐ午後になる頃なのだろう、車内販売員が訪れたが、何故か空腹感がない。少し喉が渇いていたので、暖かいお茶を購入して喉を潤おした。


疎らな古い地方集落をいくつか通り抜けると、盆地の北端にある終着駅・東野中央駅に到着した。

私はさらにそこからバスに乗り換え、北端の深い山を目指す。

駅から出発したバスには座席の三分の一ほど乗客がいたが、途中山道に差し掛かる手前辺りから停車場ごとに1人、また1人…と数を減らしてゆく。

バスは疎らになった住宅地を抜け、どんどん山道を登り、やがて深い渓谷沿いの東側をさらに登ってゆき、遂に乗客は私1人だけとなってしまった。


車窓から渓谷を見下ろすと、気温の変化が著しいのだろうか、霧が立ち込め、その深さ険しさを目視することは出来なくなってしまっていた。


「本日はご乗車ありがとうございました。間もなく終点・東操車場です。終点・東操車場です…」私1人のための車内アナウンスが流された。

バスは操車場手前の停留所で停車する…
「どうも、ありがとうございました」私が声をかけると、中年の運転手はにっこり振り返り「お気をつけて」と言葉を返した。

既に夕刻に差し掛かり、気温が変化し始めているのだろう。渓谷の霧はどんどん広がり、周囲は霞に包まれ始めていた…

操車場の先にもまだ山道は続いていた。私は躊躇なくその緩やかな坂道を先に進んだ…

山道はどこまでも続いていた…どこまで歩いてもその先は霧に包まれていて行く手を見ることはできなかったが、いつまでも周囲に夜は訪れなかった。


やがて前方右手渓谷側、薄曇る霧の中に吊り橋の渡り口が見えてきた…
しかし、広がる霞に遮られ、その橋がどこまで伸びているのかは確認できない。渡り口に近づくと太い右の支柱に『渡せ橋』と記されている。

この橋を渡るべきなのだろうか…それともこのまま山道を先に進むべきなのか…私は暫くそこに足を止め、思案した。

ふと反対の山側の斜面を振り返ると、霧に包まれた淡く深い林の中に古い石段が見えた。
その石段の行く手もまた霧の中に姿を隠していた。
石段の端に立つ石柱には『東寺』の文字が彫られている。

まずはこの寺に立ち寄ってみることにした…


石段はほんの4、50段で、上り切ると小さな境内がある。奥には小振りの本堂のシルエットがぼんやりと浮かび上がっているが、立ち込める霧のせいでその姿をはっきり見ることは出来ない。
先ほどから境内には竹箒の音が聞こえる…よく目を凝らして見ると、ぼんやりとした人影が窺える。

近付いてみると、この寺の住職だろうか、頭を丸めた小柄な初老の男性が作務衣姿でゆっくりとした所作で地面を黙々と掃いている。

「こんにちわ、ちょっとお尋ねしてもいいですか?」声を掛けてみた。
「はいはい、こんにちわ。なんでしょう?」静かな優しい声だった。
「この下にある釣り橋はどこに続いているんですか?」
「それは、谷の西側でしょうな」
「向こうには何があるんですか?」
「さあ…儂のお勤めは東側ですから、西に渡ったことはないんですわ。お役に立てず、申し訳ないねえ」そう言って微笑む…
「いえ、すいません。お邪魔しました」
「いえいえ…」再び地面を掃き始める。


私は思い切って釣り橋を渡ってみることにした。

あまり風もないので、橋は揺れることもなかった。

渡った先は同じような山道が渓谷沿いに続いている…

橋の渡り口の向こう側、山側の斜面には同じような石段があった。石段の端に立つ石柱には『西寺』と彫られている。
石段の上から同じように竹箒の音が微かに聞こえる…
私は試しに登ってみた。

同じような境内に同じような姿の男性がゆっくりと地面を掃き清めている…

今度は声を掛けずに、そっと石段を下り、私は西側の山道に戻る。


西側の山道を下ってみることにする…


下るにつれ、濃霧は次第に薄らいでゆく…

おかしい…流石にもう陽は暮れ切っていてもいい頃なのだが、周囲はまるで朝の空気の様に清々しく明るい。


どの位歩き続けただろうか…
やがて、道の左側に山の斜面を削り、広いスペースが確保されたバスの操車場が見えた。その先には停車場もあり、1台のバスがエンジンをかけた状態で停まっている。
停車場のパネルには『西操車場 西野中央駅行き』と記されている。

乗車してみると、乗客は私1人しかいなかった。

やがて中年の運転手が運転席に着き、車内スピーカーから音声が流れる…
「本日はご利用ありがとうございます。このバスは西野中央駅行きです。間もなく発車いたします。途中停車する停留所は……」


バスは渓谷沿いに下ってゆく…途中立ち寄る停留所からは、制服を着た学生やカバンを抱えた勤め人など、次第に乗客を増やし、終点の西野中央駅に到着した頃には座席は半分ほど埋まっていた。


東野中央駅によく似た造りの西野中央駅…構内は明らかに朝の混雑を迎えている。

私は迷うことなく、聞き慣れない『中央西駅』行きの特急列車に乗り込んだ。


列車は広い盆地を抜け、幾つものトンネルを抜け、数時間かけて中央西駅に到着した。

中央西駅…日頃利用し慣れている中央東駅とあまり変わりのない駅舎の様に思えるが、どこか違うような気もする…

私はなるべく違和感を無視するように心がけ、身体の赴くままいつもと同じような通勤列車に乗り換えて、いつもの帰宅の通りに駅を降り、似たような丘の斜面の住宅地の我が家に似た家に帰宅した。

空は夕暮れを迎えようとしていた。

同じである筈のない家では…どこか少し印象の違う妻が迎えた…

「あら、お帰りなさい…ふふ…ほらね、ちゃんと帰ってきたじゃないの」妻は悪戯っぽく微笑みかける。
「ただいま…俺、ちゃんと帰ってきたんだよな?」
「なに?もしかして、ここには帰ってきたくなかったの?」
「いや…そういうことじゃなくって…俺、違う道を辿った筈なのに…」
「なにをどう選んだってあなたはあなた、私は私、我が家は我が家なのよ。それで私は充分幸せなの。さあ、そろそろ夕ご飯にするわよ。先にさっとシャワー浴びてきちゃえば?お腹すいたでしょ?」
「あ、ああ…じゃあ…」
「ねえ」
「ん?」
「また明日も、お出掛けするの?」
「…いや…当分、このままでいいかな…」
「良かった…」

妻はそう言って安心したように満面の笑みを浮かべた…

                                    了

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