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解析度をあげる ▶︎泉ハナ

横浜読書会KURIBOOKS - 知的好奇心を解き放とう~参加者募集中~

トンネルを抜けると雪国だった。
が、わからない人がいるという話を聞いて驚いた。
玄関を出ると、雨粒が木の葉に残っていた。
で、雨がやんだことがわからない人もいると聞いて、これまた驚いた。
雨が降ったって書いてないじゃないか!という理由だそうで。
説明がないとわからない。しかもその説明が、丁寧かつすべて書いていないと認識できない、という人が増えているのだそうです。

最近のラノベに長いタイトルが多いのもそれの一環だそうで。
異世界に転生したらXXになっていた、とか、悪役令嬢に生まれ変わったら超イケメンの王子がラブラブでした、とか、そこまで書かないとどういう内容のものかわからないので売れないというお話。

さらに、この ”わからない” は嫌だから、”わかる” ものしか読みたくないという人もいるそうで。
好みのキャラが、思った通りの展開に沿って、思った通りの結末にならないと嫌。
こういう方は、「思った通りの話じゃなかったから、この小説はクソ、だめ」「つまんなかった」という感想をよく書いておられます。

そういう読書の形があると知った時はびっくりしましたが、楽しみ方は人それぞれだし、読書に良い悪いもないので、今はそーですかーって感じで認識していますが、正直、自分の知らないもの、理解できないものはつまんない、クソ判定、できれば排除というのは、そもそも読書の原点を思いっきりスルーしているような気がします。

本を読む事って、一番手軽に ”知らないことを知る” 機会だと思っています。
さらに言えば、多角的な視野を培い、見知らぬ国の文化習慣、歴史や地理を知る機会で、まったく縁もゆかりもない専門分野の知見に触れるものでもあったりします。
中学生の時、図書館にあった「十一人のファーストレディ」という本を読みました。
アメリカ大統領夫人、十一人をとりあげて、彼女たちがどういう人物であったか、夫が大統領であった時、どのような活動をしていたかを書いたノンフィクションです。
とても面白い心に残る本でしたが、最もインパクトがあったのがトルーマン大統領夫人に関する話でした。
アメリカでは、原爆投下を指示し、第二次大戦終結に大きく貢献した人物として今も人気が高いという事を知りました。
日本人にとってはネガティブな印象の方が大きい人です。当時の私にとって、かなり大きな衝撃でした。
その後、ボブ・グリーンの「Duty わが父、そして原爆を落とした男の物語」
を読み、原爆を投下したエノラ・ゲイの乗組員たちはアメリカでは英雄として尊敬され賞賛されていることを知りました。
そこで、はたと気が付いた。
私は、エノラ・ゲイの乗組員の名前を知りませんでした。その本を読んで初めて知った、その事に自分で驚きました。
さらに、エノラ・ゲイの乗組員たちが原爆投下についてどう思っているのか、その後どういう人生を歩んだのかを知る事となり、そこで初めて、彼らも一兵士であり、上からの指示によって、ひいては国の決定で原爆を投下したのだという認識を持つに至りました。
そこには彼ら個人の良識や正義、良心は介在しません。
その後、アメリカ滞在中、退役軍人の方を交えて戦争について語るというグループセッションに参加する機会を得ました。
私のグループには、語学学校に通う日本人が5名、メキシコ人が2名いました。
私のグループにはいった退役軍人の方は、恐らく70代。ベトナム戦争を経験されていた方だと思われます。
その方が「原爆投下は大戦を落とすためにやった事で、正義の決断だ」と言いました。するとそこにいたその5人の日本人、「そうなんですか」「やっぱり正義の決断だったんですね」「日本はやっぱり悪い事しかしてなかったって事ですか」と納得し、えらく感動しておりました。(ちなみに年齢は二十代三十代の方たちでした)
私、激怒でした。「お前ら、何言ってるんだ」と本気で激怒でした。
「確かにアメリカにとって正しいとされている事は知っている。でもあそこは戦場ではなかった。広島と長崎で亡くなった人たちは一般市民だ。彼らは何も知らないまま、一瞬で死体も残らずに死んだ。焼かれて、苦しんで死んだ。多くの人が長い間後遺症に苦しんだ。今も苦しんでいる。国がそれを正しい事と言うのは仕方がない。でも、あなた個人がそれを正義と言うのなら、私は絶対にそれを許す事はできない」
退役軍人の方が、「あなたの身内に、犠牲になった方がいるのか?」と尋ねました。私が首を横に振ると、彼はしばらく沈黙しました。
横にいたメキシコ人のひとりがそこで口を開きました。
「つまり、戦争っていうのはそういうものだって事なんだと思う。正義は勝った方が語る。でも、そこには山ほど犠牲になった人たちがいるわけで、だったらそこにある ”正義” ってのは正しいってわけじゃないんだよね」
グループセッションが終わった後、退役軍人のおじいさんが私の所にやってきて、「私はあなたを深く傷つけた。謝りたい」と言いました。
私も謝罪しました。
「私もあなたを傷つけたと思います。軍人であったあなたを否定する気持ちはありません。アメリカが原爆を正しい事としているのは知っています」
すると彼は首を横に振り、「もし今日、あなたの言葉を聞かなければ、私は原爆投下をずっと正しい事だと信じて一生を終わっていたでしょう」と言い、「今日帰ったら、広島と長崎でいったいどういう事が起きたのか、調べてみようと思います」と続けました。
この体験は、先に書いた2冊の本、さらにはその他、原爆に関する書籍や映画、資料によって得たものだと思っています。
そのバトンは、あの退役軍人のおじいさんに渡されました。

読書は脳内の旅だと思います。
過去から未来へと、見知らぬ国へと誘われる旅。
16世紀、見知らぬ異国で生きた人の人生をたどったり、まったく知らない業種で働く人の仕事を知る事になったり、市井で生きる人々の喜怒哀楽を体感したり。
本を読む事で、知識は増え、想像力をふくらませる事ができるようになり、そういう時人はどうするのか、どうなるのかというのを端的ながらも知る事ができます。
私は幸田真音さんの金融小説を通じて、金融業界の仕事がどういうものかを知りました。片岡義男さんの小説を読んで、バイクに乗る人たちの快感を知り、その旅の奥深さを知ったし、一時流行したアメリカのチックフリック小説(女性向けの軽快なロマンス小説のこと)でアメリカの女性の考え方や生き方に触れる事ができました。
読書は、心の解析度を上げる行為のひとつと考えています。
自分の解析度数が初期型のファミコンか、PS5かって考えるとわかりやすい。
何かを見た時、考えた時、その解析度が高ければ高いほど、画像もアクションもマップも格段変わってきます。
知らない事を知る。
読書はもっとも手軽で最適のツールではないかと思います。
そしてそれは、とてもすごい冒険だとも思っています。








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