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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第2章】ムーン・リヴァー

第2章 ムーン・リヴァー



1

 汚れた皿が並んだままのダイニングテーブルで、潤子は娘の真由子と向き合っている。中途半端に帰宅の遅い夫を待たず、母娘二人で先に夕飯を済ませたところだ。
 「だから悪いけど、お母さん一人で行ってきてよ」
「一人で、って。今さら何言ってるのよ。今からあなたの分だけキャンセルするの?」
 真由子は口を真一文字にして、俯いたまま答えない。
「今からだと、キャンセル料ずいぶんかかっちゃうわよ。それにお母さんだって、真由子と一緒に行くの楽しみにしてたのに……」
 潤子は自分で言って泣きそうになった。最後は微かに声が震えた。
「せめて理由くらい言ってくれなきゃ」
「……ごめんなさいっ」
 真由子は声を振り絞ってそう言って、両手で顔を覆ってしまった。
 【大自然と歴史を味わう感動のペルー紀行 八日間の旅】。
 潤子が長年憧れてきたマチュピチュの遺跡を訪ねようと、去年から楽しみにしていた初の母娘旅行は、すでに三週間後に迫っていた。それが今このタイミングで、真由子が突然行かないと言い出したのだ。
 「あらそう」と簡単に受け入れられる話ではない。潤子はこの旅に、自分の残りの人生のすべてを賭けていたといっても過言ではない。並々ならぬ意気込みで、すでに下着や靴下に至るまで、ほとんどの荷造りを終えていた。
 
 「真由子が旅行に行かないって言い出した」
 その晩、帰宅したばかりの耕平に、潤子は珍しくまとわりついた。
「何それ。何の話?」
 耕平は面倒臭そうに片眉を上げて、背広を脱いだ。いつもの加齢臭が鼻腔を刺激し、潤子は軽く息を止める。
「来月のペルー旅行よ。今日になって真由子、急に行かないって言い出して。いくら訊いても理由を言わないのよ。どうしよう、もう」
「頑固なとこあるからなぁ、アイツ。う~ん……、潤子一人で行ってくれば?」
 耕平はワイシャツのボタンをはずしながらそう言って、洗面所に消えていった。
 まあこんなところだろう。潤子は疾うに諦めている。いつだって耕平から、まともな返事が返ってくることはないのだ。「大丈夫、心配するな。俺から真由子に話をしてみるよ」とか、例えばドラマに出てくる優しい夫のような反応を、潤子が期待することは最早ない。
 耕平が風呂に入っている間に、潤子はチャチャッと夫一人分の夕飯の準備をする。一時は健康に気遣って食事に手間暇をかけるようになった潤子だが、いつしかそれにも飽きた。何を作ってもたいして反応のない男なのだ。作り甲斐もない。
 もともと潤子は、それほど料理好きなわけではない。今日は豚肉を焼いて市販の生姜焼きのタレをからませ、その脇にスーパーで買った袋入りの千切りキャベツを添えた。あとは総菜売り場のポテトサラダに、豆腐とネギと乾燥ワカメを投げ入れた味噌汁だ。沢庵三切れの豆皿を加えたら、立派に一汁三菜だ。充分だろう。
 料理は愛だと、潤子はつくづくと思う。料理にかける時間と手間が、それを食べさせる相手への愛情のバロメーターなのだ。バロメーターの針は、じわじわとゼロに傾きつつある。

 一人の寝室のベッドの中で、潤子は考える。
行くか、一人で。勇気を出して一人で、行っちゃうか、マチュピチュへ……。
 潤子は静かに興奮する。真由子の分のキャンセル料は癪だけれど、そうだ、いっそ一人旅のほうがいいかもしれない。異国の地で一人になって、自分を見つめ直し、人生をやり直すきっかけにするのだ。
 これは「決断の旅」だと、ツアーを申し込んだ瞬間、潤子はそうひらめいた。この旅から戻ったら、今度こそ本当に、耕平に離婚を切り出そう。潤子の心臓は高鳴っている。そういえば夜の血圧を測り忘れたなと思い出したが、気にせずに瞼を閉じた。

 翌朝真由子は、泣き腫らしたような眼をして二階の自室から下りてきた。冷蔵庫を開けて大きな溜息をつき、そのまま何も取らずに扉を閉めた。
 「大丈夫?」
 潤子はカエルのような瞼の真由子に声をかけた。返事はない。
「お母さんね、旅行一人で行くことにしたから」
 真由子は半分しか開いていない眼で二~三回瞬きしただけだった。もうこれ以上何も言うまい。潤子はそう決めて、洗濯物を干すべく二階への階段を上った。
 真由子のTシャツの皺を手ではたきながら、潤子はまた、自分の胸に降り積もった埃が舞い上がってくるのを感じていた。
 真由子を育て始めてから、とりわけこの十年近くは、潤子の心が完璧に晴れ渡ったことなどない。26歳にもなった娘を、どうしてここまで心配し続けなければいけないのか。自分の周りには、孫が生まれた友達だっているというのに。
 Tシャツのハンガーを、潤子は薄暗い表情で物干し竿に引っ掛ける。外は無駄に空が青い。


2

 真由子は高三の夏休み明けに、突如美大のデザイン科を受験すると言い出した。高校で漫研に所属し、漫画を描くことだけは好きだったもののお世辞にも絵が上手とは言えず、デッサンの経験すらない真由子に対して、今からの合格はあり得ないと周囲は反対した。しかし真由子は頑なに美大を三つ受験して、案の定すべてに落ちた。
 「今からでもまだ間に合うわよ。願書出してみない?」
 都内にいくつか存在するデザイン専門学校という選択肢もあると、潤子は必死に説得しようとした。美大の現役合格は無理だったにしても、真由子さえその気なら道はいくらでもあったはずなのだ。
 「もういいっ! 私なんかどうせ……」
 真由子の口癖「私なんかどうせ」を身体に巻きつけ、それきり心を閉ざしてしまった。運悪く、すでに流行の収まっていたインフルエンザに遅れて罹り、真由子は高校の卒業式も欠席することとなった。
 それからの真由子は、ほぼ家にこもって漫画やアニメばかり観ているようだった。本屋やコンビニ程度なら出かけていき、やがて潤子と一緒にファミレスで食事をしたりするまでに行動範囲は広がった。世間でいう完全な引きこもりとは違ったかもしれない。けれどいつまで経っても、真由子には社会と繋がろうという気配すらなかった。
 出来の良すぎる長男涼太と、幼い頃から何かにつけて比べてしまったことは否めない。文武両道で性格も明るい涼太を、潤子の両親も溺愛していた。常に周囲から兄と比較されてきた真由子が、劣等感を募らせるのは仕方のないことだったかもしれない。

 【ひきこもりの子供をもつ親の会 ともしびの家】に初めて潤子が参加したのは、真由子が20歳を迎えた頃だ。このままじゃいけない。何かきっかけを掴まなくちゃいけない。片っ端から集めた情報をもとに、縋るような気持ちで参加を申し込んだのだった。
 当日の会の参加者は十人ほどで、初参加の潤子のためにメンバー全員が自己紹介をした。潤子はその場で初めて、娘が引きこもりになった経緯を話し、現状の苦悩について他人に打ち明けることができた。
 「それはつらかったわね」
「うんうん、解るわ~。私もそうだった」
 頬を紅潮させ泪ぐむ潤子を、メンバー達は頷きながら温かく見つめた。潤子は生まれて初めて誰かに、自分の気持ちをきちんと受け止めてもらうという幸せを味わったのだ。
 メンバーの子供達の多くはすでに成人しており、最年長メンバーの80歳女性の息子はすでに50代だという。自分が暗く長いトンネルの、まだほんの入り口あたりにいるのだと知って、潤子は愕然とした。
 
 「お嬢さんのお話を伺ってると、ちょっと発達障害っぽい印象も受けるけど、診察とか検査とか、受けたことありますか」
 その日の参加者の中で唯一の男性、山倉から訊ねられた。その当時潤子は発達障害についての知識もなかったので、「いいえ、ありません」としか答えることができなかった。
 しかし確かに真由子は乳幼児の頃から、とにかく育てにくい子供ではあった。幼稚園時代も小学校時代も、真由子は常に「ちょっと変わった子」として、時に潤子を笑わせ、時に落胆させ、哀しませ、苛立たせ、恥をかかせてきた。不器用で我儘で強情で、それでも真っ直ぐで純粋な真由子は、潤子にとって厄介ではあるが可愛い娘だ。 
 「うちの息子は32になったんですけどね。中学でいじめにあって、それからずっと家に居ます。でね、やっと医療につなげて、発達障害、うちの息子の場合はアスペルガー症候群ですけど、の診断が下ったのが三年前……」
 山倉はそう言って、半分以上白い顎鬚を撫でながら苦笑した。
 世に引きこもりとカウントされている人の中には、結構な割合で発達障害の人が含まれているらしい。発達障害という概念が日本で認知され始めたことから、医療と繋がって診断がつき、結果ようやくその事実が見えてきたのだと山倉は言った。

 「ねえ、真由子って、やっぱりちょっとおかしいのかな」
 その晩潤子は、昼間の興奮を耕平にぶつけてみた。
「何が?」
「何が、って……。真由子って小さい頃から色々大変だったじゃない」
「そうか?」
「そうよ! 私、ずっと大変だったもん。それでね、真由子が発達障害なんじゃないかって、今日親の会の人に言われて」
「何だよ、それ。誰だ、そんなこと言うヤツは」
「だから、親の会の仲間よ、『ともしびの家』の」
「だいたいネーミングからして怪しいな、それ。あんまり変なところに首突っ込まないほうがいいぞ。潤子はちょっと心配しすぎなんだよ。真由子だってもうちょっとしたら自然と変わるさ」
 真由子を育ててきた二十年という年月に、私が流した汗も泪も、吐息も嘆きも、この男はひとつも記憶にないというのか。潤子は言い返す気にもならなかった。

 それから三~四年待っても、真由子が「自然と変わる」ことなどなかった。更年期症状も相まって、潤子はどんよりとした灰色の日々を送っていた。
 一方で真由子の眼にはそれほどの絶望も、かといって少しの希望も、映っていないように見えた。潤子は発達障害関連の本やネットの情報を読み込んだが、部分的にはあてはまるものの、完全に真由子の状態にピタリと合致するわけではない。潤子は答えが欲しかった。真由子と向き合ってきた年月に相当するだけの、納得感が欲しかったのだ。
 なんとか真由子を説得し、予約から半年待ってようやく受診できた精神科クリニックの発達障害外来では、問診に加え、赤ん坊の時からの成育歴の聞き取りがあった。後日臨床心理士による、成人知能検査も受けた。

 次の受診日に真由子と二人で診察室に入ると、担当の精神科医がデスクトップのパソコン画面を見つめていた。前回は潤子も緊張していて印象に残っていなかったが、30代半ばくらいの、正義感に満ち溢れたように見える女性だった。
 「検査の結果が出ましたね~。先日伺ったお話の内容と照らし合わせて申し上げますと、ざっくり言って『グレーゾーン』です」
 若い医師は、唄うように滑らかなリズムでそう言った。
 「自閉症っていうのは、知的障害のある重度のものから普通とほとんど変わらないレベルまで、ここからが定型でここからが非定型、これはアスペルガー、っていうふうには線引きできないことが判ってきたんですね。なので最近ではすべてひっくるめて『自閉症スペクトラム』、『自閉スペクトラム症』と呼んでいます。白に近いグレーから濃いグレーまで、グレーゾーンには幅があって、症状も人それぞれです」
 医師はそう言いながら、手元の検査結果報告書の用紙を潤子に手渡した。
 「真由子さんの場合、知能レベルは平均です。ただ状況認知や出来事の因果関係を把握する能力の項目が、少しだけ点数が低く出ているようですね。でもこの程度じゃあ、それが生活上障害となるほどのレベルとは思えません。一番大事なことは、『困っているのは誰か』なんですよ」
 それから潤子の眼を見つめ、医師は言葉を重ねた。
 「最近、自分の子供が発達障害なんじゃないかって心配して、受診される親御さんが増えてます。でも大切なのはお子さんに障害があるかどうか、じゃなくって、お子さん自身が日々を生きていくうえで困っているかどうか、だと私は思ってるんですね。今の時点では真由子さんに『医療』は必要ないと思いますよ」
 潤子は明確な診断が得られなかったことに落胆した。おまけに、ひどく不愉快だった。親だけが情報に振り回されて過度に心配し、子供の「個性」として受け入れたくないのではないか、「障害」という免罪符を欲しがっているのではないかと、責められているような気さえした。
 今の生活を本人が困っていないという、親にとってはそのこと自体が問題なのだ。まだ若いアナタに、悩み続ける親の気持ちの、何がどこまで解るのよ。心の中で若い女性医師に反撃した。
 駅までの道をモヤモヤとした気持ちで歩いていると、
「なんか、感じの悪い医者だったね」
 真由子がぽつりと言った。潤子はそれだけで、少し救われたような気持ちになった。
「真由子、パンケーキ食べていこうか?」
「うん、食べる食べる!」
 母娘二人で向かい合って、甘いものを食べている時は幸せだった。パンケーキを頬張って子供のように笑う真由子を見ながら、もう自分が死ぬまで一生このままでもいいか、お金と命の尽き果てるまでずっとぬるま湯に浸かっていようかと、潤子は夢想する。無責任という川の流れに身を任せてみたくなる。

 結局真由子は今までどおりダラダラと暮らし、ひたすら脂肪を溜めこんでいった。潤子の心の中の黒いヘドロは粘度を増し、真由子と一緒に無駄な間食を続けては贅肉を増やしていった。
 潤子が尿路結石による激痛で救急搬送されたのは、すべてに行き詰っていた頃だ。ついでに高血圧まで指摘され、思えばあれがターニングポイントだったなと、潤子は時々思い出す。
 脂肪にまみれた不健康な自分と娘のために、潤子はまず食生活を変えた。そして昼間の時間の使い方を変えた。体重が減ったら元気になって、それは自ずと真由子の生活にも変化を与えた。
 痩せたら見違えるほど綺麗になった真由子は、昔の友人と逢ったり、短時間ではあるがバイトを始めたりした。一日中ジャージを着て、お菓子をむさぼりながら漫画を読んでいたあの真由子が、うっすらとメイクをしてバイトに向かう背中を見つめ、潤子は泪を拭ったものだ。自分の未来にも、一筋の光が見えたような気がした。
 しかし得てして幸せというものは長続きしない。真由子はある日突然バイトを辞めてしまった。衣料品メーカーUのバックヤードで、商品の袋出しやサイズ別にハンガーにかける作業を指示されるままに黙々とやるんだと、単純作業だけど気に入ってるんだと、真由子は嬉しそうに話していたのに。どんな理由で辞めたのか、「言いたくない」と真由子は口を閉ざしたきりだった。
 まあ仕方ないか。ここまでよく頑張ったほうだ。潤子はそう思ってそっと見守り続けていた。ところがそこへもってきて、今度はいきなり「お母さん一人で行ってきてよ」だ。そしてまた、その我儘の理由すら話そうとしない。



3

 「ともしびの家」の集まりは二か月に一回程度、杉並区の住宅街にある小さな喫茶店を貸し切って行われる。会のメンバーが徐々に高齢化しているため、毎月開催するほどのエネルギーがないのだ。子供が引きこもりから脱した後も、仲間と繋がっていたい、困っている人の伴走者になりたいという思いから、参加を続けている人もいる。
 潤子がこの会に参加してから、すでに六年の年月が流れていた。その間に、50代の息子の世話を続けていた80代の女性が亡くなった。一人遺された息子はなんとか福祉と繋がって、今はグループホームで生活しているという。今でいう、まさに8050問題だが、最悪のシナリオだけは避けることができたようだった。
 会の数少ない男性メンバーである山倉は、前回「昨日で66になりました」と言っていた。髪も髭も、この六年の間にすっかり白くなった。当時アスペルガー症候群と診断されていた息子は38歳になり、障害者枠で就職したIT企業で能力を発揮して、障害年金を受給しながらどうにか自活できるまでに成長したという。どんな形であれ、誰の上にも確実に年月は流れたのだ。
 
 「お変わりありませんでしたか」
 山倉はいつも穏やかな笑みを浮かべて潤子を見つめる。会の中では各メンバーが近況を報告しあっているが、山倉は毎度改めて、帰り道にそう問いかけてくるのだ。正直なところ潤子は、この山倉の笑顔に逢いたくて参加しているといってもいい。駅までの道を、彼と肩を並べながら歩くひとときがたまらなく幸せだ。
 「ペルー旅行は来月でしたか。もっと早く知っていれば、色々お伝えできることもあったんだけど、残念だな」
 山倉は右手の人差し指を鼻筋に沿わせるようにして、ずれた眼鏡の位置を直す。薄茶のセルフレームが、白い髪と髭によく似合う。
 山倉はかつて大学の人文学科で准教授として教鞭を執っていたが、50代半ばに妻を病で亡くした。それからは引きこもりの息子のサポートのために職を辞し、自宅で翻訳や執筆の仕事をしたり、カルチャースクールの講師を引き受けたりして暮らしてきたという。
 「僕が初めてペルーに行ったのは、30代の頃だったかな。当時はペルーまで、今よりずいぶん時間がかかりましたよ。コルカ渓谷の断崖絶壁に立ったらね、自分のちっぽけさを思い知らされた。丁度絵にかいたようにコンドルが大空を飛んでいて、なんていうかほんとうに、言葉を失ったのを憶えています。若かったんだなあ……」
 そんなセンチメンタルな呟きも、山倉の口からこぼれれば少しも陳腐には聞こえなかった。潤子は肩を寄せ合ってマチュピチュの遺跡に佇む、山倉と自分の姿を想像してうっとりとした。真由子の分をキャンセルせず、山倉を誘うという選択肢もあったのではないかと、大胆な妄想が脳裏をかすめた。

 「潤子さん、今日はお急ぎですか。よかったらもう一杯お茶でもいかがです?」
「ありがとうございます。今日は夫の帰りが遅いので、ゆっくりできます」
 山倉は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに近くの喫茶店を指して「ここにしましょう」と潤子をエスコートした。
 席に着くなり山倉は、
「どうしてなんだろう。潤子さんは離婚されて独身だって、どういうわけか今の今まで、僕はずっと思い込んでいました。確かご主人の話は一度も出たことなかったし、なんだかずっと、潤子さんお一人で背負ってこられたような印象を持ってたから。う~ん、僕の勝手な願望だったのかな」
 そう言って、眉を八の字にして照れたように笑った。潤子は胸がキュンとした。これは恋だと、今更ながら潤子は、乙女のように胸を震わせた。
 「いえ、その……、夫とは、離婚しているも同然なんです。もう何年も前からお互いに、心も身体も冷えきっていて。だから私、来月ペルー旅行から戻ったら、夫に離婚を申し出ようって決めているんです」
 潤子は自分でも驚くほど、勢いこんでそう言った。心はともかく身体まで冷えきっているって、なんだかあまりに物欲しそうに響いたんじゃないか。すぐにそう気づいた潤子は、思わず頬を赤らめた。
「そうでしたか。でもそういうことは、結論を急がないほうがいいですよ」
 山倉の言葉に、乙女の潤子はこくりと頷いた。何故だか一瞬子供のように泣きたくなって、奥歯をぎゅっと噛みしめた。
 それから山倉は、マチュピチュの密林を開拓して村をつくったのが野内与吉という日本人男性であることや、クスコは朝晩の気温差が20度くらいあるから衣服の調整が大事であることなど、潤子の知らないことや知っていることを穏やかに語った。
 山倉は自然保護や自然遺産の学問を専門としているのだ。潤子は入学したての大学生のような初々しい心持ちで、山倉の言葉を抱きとめた。
 どうしてこういう人が自分の夫ではなかったんだろう。10歳も年下の自分にも敬語を使い、きちんと相手の話を受けとめるような男。知的で冷静で常に穏やかな笑みをたたえている、山倉のような上品な男こそが自分にふさわしかったのではないか。潤子は身勝手にそう自惚れてみる。
 「じゃあ、気をつけて旅行を楽しんできてくださいね。何か心配なことがあったら、いつでもメールください。お土産話を期待してますよ」
 山倉の視線に熱を感じた。これは勘違いではないと、潤子はますます胸が高鳴った。駅で潤子を見送る山倉は少年のように、いつまでも手を振り続けていた。


4

 「えぇーーっ! うそーーっ!」
 潤子の悲鳴にも近い声が、昼間のリビングに響き渡る。
 ペルー旅行を二日後に控えた日の午後、会社にいる耕平から電話がかかってきた。耕平の父、望月哲男が、くも膜下出血で急逝したというのだ。
 耕平の妹の弓子が言うには、今日の昼過ぎに義母がトイレで倒れている哲男を見つけ、救急車で運んだけれど間に合わなかった、とのことだった。潤子は目の前が真っ暗になった。実際目眩がして、二~三歩よろけたほどだ。
 どうしてこのタイミングで? よりによって、なんでどうしてこのタイミングで……!
 もう、すべてがお終いじゃないか。いくら何でも義父の死を無視して旅立つわけにはいかないし、早くても明後日あたりが告別式ってところだろう。どうやっても逃れるわけにはいかない。あんなに張り切って準備したのに。こんなに楽しみにして生きてきたのに。せめて、せめて私が出発してから死んでくれりゃあよかったのに……!
 そんな非情なことも考えた。いっそすべてを投げ出して、どこかへ逃亡したい気分だった。それでも頭の隅では、喪服に黴が生えてないかしら、香典はいくら包むものかしらと思いが巡る、そんな自分が情けなく、腹立たしく、潤子はできるものなら泣き叫びたかった。

 翌日が通夜だった。そして本来なら潤子が成田空港で胸を躍らせていたはずの、翌々日が告別式だった。潤子はツアー代金の半額を、キャンセル料として支払う羽目になった。
 父親を突然亡くした耕平は、さすがに疲労の見える顔で言った。
「ま、仕方ないな。またいつか行きゃあいいさ」
 他人の金だと思って……。潤子は苦々しく思ったが、まあいつも通りの耕平の言葉だ。
 昨日も今日も、真由子は冴えない顔色をしている。痩せたから、一張羅の黒いスーツがぶかぶかだ。涼太はいつのまにか自分で、上等な礼服を用意していた。30手前とはいえ一流商社の高給取りはさすがだなと、潤子は久しぶりに息子を惚れ惚れと見上げた。
 哲男は存在感のない男であった。思い返してみても潤子は、哲男とまともな会話をかわした記憶がない。耕平の実家を訪ねた際にも、簡単な挨拶やお天気のこと、子供の様子などを、二言三言話したくらいだと思う。それでも悪い人ではなかった。周りを煩わせることなくあっさりと逝くところなど、タイミングが最悪という以外では見習いたいところだ。
 潤子は義母の和江が苦手だ。嫌いといってもいい。
「あなた、お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいねぇ」と大勢の親族がいる前で声に出し、冷たくなった哲男の頬を撫でたりしている。すべてにおいて芝居くさい女なのだ。
 和江には今までも、できる限り余計な情報を与えまいとしてきた。ペルー旅行を計画していたことなど、むろん内緒だ。
 母娘がデブのピークの時も、「あらあら、真由子ちゃんは身体つきも雰囲気も、お母さんそっくりになってきたわね」などと、今までに感じの悪い厭味をさんざん言われてきたのだ。心を開くまい。
 花入れの儀で、耕平はしきりにハンカチで泪を拭っている。
「あなた、私ももうすぐ逝きますからね。向こうで待っててくださいねぇ」
 弔事の際は、ベタな台詞であるほど参列者の泪を誘う。俯き加減に佇み目頭を押さえる潤子の両親の姿も視界に入った。和江は顔をくしゃくしゃにして泣きながらも、潤子が哲男の顔の脇に手向けたばかりの花の位置を、わずかに直す。和江に心は許すまい。

 火葬の間、待合室前の廊下で一人、潤子はガラス窓の外を見つめる。ここから飛行機が見えることはないが、自分が今日飛ぶはずだった、同じ空が見える。潤子は腕時計を確認し、「もうすぐ出発だな」と心の中で呟く。
 あと三十年、残りの人生を耕平と生きることなど、潤子は想像したくなかった。いつの日か自分が和江のように、夫の冷たい頬をこの掌で撫でられるだろうかと自問すると、それは難しいような気がした。
 「決断の旅」が流れた以上、今ここで、自分が立っているこの場所で、しっかりと心を固めなくてはいけない。そして逃げずに、面倒くさがらずに、自分の言葉で、耕平に伝えるのだ。解ってもらえるまで何度でも。
 「私、来月ペルー旅行から戻ったら、夫に離婚を申し出ようって決めているんです」
 自分は力強くそう言ったのだ。嘘になってはいけない。そう思ったら急に、潤子は山倉に逢いたくてたまらなくなった。そして火葬炉に滑り込んだ柩の中にいるのが、もし山倉だったとしたら……と想像して、泪がこぼれた。
 「どうした? 疲れたか」
 トイレから戻ってきたらしい耕平が、潤子の隣に立って声をかけた。潤子の泪に気づいた耕平は、いつになく優しい眼をして微笑んだ。
「オヤジも85だったからな。まあ、いい人生だったんじゃないかなと思うよ。人は誰でも、いつかは死ぬんだしな」
 そう言って、潤子の背中を軽く擦った。両腕が粟立った。
 そうじゃない。全然ちがう。そうじゃない。
 耕平の言葉が潤子の心の中心を射ることなど、結婚生活三十一年の間にただの一度もない。

 ペルー旅行には行けなかったと、山倉にメールをするのは躊躇われた。何と書いたらいいのか分からなかったのだ。高齢の母親に代わり長男として、父親の死後の手続きに追われている耕平に対しても、さすがにこのタイミングで離婚を切り出すのは良心が咎めた。そしてあっという間に四十九日の法要の日となった。
 和江は一回り小さくなったように見える。「やっぱり一人は淋しいものねぇ」と言いながら、心持ちわざとらしく眼をしばたたかせる。今は大宮の自宅に一人で住んでいるが、哲男の死後、実家の隣町に住む弓子が、夜になると和江の元に泊まりに行っているらしい。
 弓子は耕平の4歳下だが、夫の両親と同居しているうえに夫婦でパン屋を営んでいるためか、日々の苦労が顔に滲み出ていて耕平よりも年上に見える。
 「ねぇ、兄さんのところで預かれない?」
 和江が席を立った隙に、弓子が耕平に囁く。
「お母さんすっかりしょげちゃって、一人にしておけない感じなのよ。うちはホラ、旦那の両親がいるし、私ももう毎日クタクタで通いきれないわよ。兄さんの家広かったじゃない。一間くらい空いてるんじゃない?」
「おぅ、ウチか。そうだなぁ……」
 耕平はそう言って潤子の方を振り返った。
 やっぱりそう来たか! そんなこともあり得るかと、潤子は昨晩練っておいた台詞を口にする。できる限りのシンパシーと哀感をこめた表情で。
「そうよねぇ、弓子さんもお疲れよね。でも困ったことに、実は私も両親の世話で、最近実家に通い詰めなの。うちの親はもっと高齢だから」
「え、そうなのか?」と耕平は驚き、「あら、この間はお元気そうだったけど」と弓子は疑惑の色を滲ませた。やはり女は手強い。

 その晩耕平は、思い出したように義理の両親の具合を伺った。潤子は心を決めた。
「この間母が骨折しちゃってね、入院するほどじゃないんだけど、家で寝込んじゃってるのよ。父ももう90だし、さすがに放っておけないでしょ」
 一抹の罪悪感を抱きながら、潤子は嘘を重ねた。
「う~ん、そうか。……やっぱりうちのオフクロ引き取るのは難しいか」
「難しいっていうより、無理です。ここに来てもらうんじゃなくって、あなたがあっちに移ればいいんじゃない?」
 耕平はギョッとしたふうに両眼を見開く。
「どういう意味、それ」
「だからあなたが大宮の実家に引っ越して、お母さんと暮らしたらいいんじゃないかなって。昼間はデイケア行ってもらったり、ヘルパーさん利用したりして、あなたが仕事から戻るまでの間、時々弓子さんに寄ってもらったりすれば安心でしょう?」
「潤子、それ本気で言ってるのか」
 潤子は精一杯大きく頷いた。途端に泪が溢れた。
「離婚してください」




 翌日曜日、潤子は自宅最寄りの練馬駅前からバスに乗り、実家のマンションがある中野へ向かった。耕平と顔を合わせないよう「実家に行ってきます。夕方戻ります」とだけメモを残し、黙って家を出た。真由子もどこかへ出かけたようだった。
 バスの最後部座席の端に座った潤子は、昨晩の耕平とのやりとりを反芻していた。
 「ちょっと待て。突然すぎるだろ。急にそんなこと言われても、全然意味がわかんないよ」
 耕平は明らかに狼狽して、「今夜はここまで。一旦ストップだ!」と一方的に話を打ち切り、リビングから逃げてしまった。
 潤子にしても、耕平を追いかけてまで離婚話を詰めるエネルギーはなかった。夫が不貞を働いているわけでもなく、妻の自分が暴力を受けているわけでもない。酒やギャンブルに依存していることもなく、家計費を入れないわけでもない。まして自分は苦手な義母の世話をするのがイヤだからという理由で、離婚を切り出したわけでもないのだ。だからこそ、その理由を言葉で説明するのは難しい。
 
 九月も下旬にさしかかるというのに、相変わらず残暑が厳しい。潤子はバス停から徒歩七分、汗だくになってマンションの前に辿り着いた。入口脇の花壇には、芙蓉が白い花を咲かせている。
 潤子の両親は自己所有の四階建て賃貸マンションの最上階に、オーナーとして居住していた。気づけばだいぶ老朽化して見えるマンションは、築三十年以上は経ったろうか。残念なことにエレベーターがない。
 久しぶりに訪れた両親の部屋のドアを開けると、独特のにおいが鼻を衝いた。黴臭いような、どこか懐かしい押し入れの奥のような、これがいわゆる老人臭なのだろうか。
 「今年の猛暑は身体にこたえたわ」と言う母の典子は、今年の三月に米寿を迎えた。先日葬儀の日には矍鑠として見えた父も、礼服を脱いだ半袖姿はひどく貧相で、浜辺に打ち上げられた流木のようだった。父の稔は、もう90歳なのだ。
 「お葬式に出るたびにね、この次はいよいよ自分の番かなって思うのよ」
 潤子の手土産の麩まんじゅうを器に並べながら、典子は言った。
「お父さんとね、介護付きの有料老人ホームをいくつか検討してるところ」
「ここを建てた時はな、四階まで階段上るのも良い運動になるさ、なんて思ってたんだね。若い時ってのは傲慢なもんだよ」
 エレベーターのない生活が限界にきているのだと、稔は苦笑した。
「ホームを見学するんだったら私も一緒に行くから、声かけてね」
 典子の淹れてくれた煎茶を飲みながらそう言った。
 金のある老人は選択肢が多くていいなと、潤子は他人事のように考える。そしてどうやら自分は親のオムツを替えることはしなくて済みそうだと、ひっそりと胸を撫で下ろした。
 「いつお迎えが来ても慌てないように」と、稔は潤子に貴重品の在処などを伝えた。「自分達がホームに入居してからも、毎月の生活費はマンションの家賃収入で充分賄える。そして自分が死んだ後、完全に老朽化する前にここは早めに売却したほうがいい。その際には少なくとも三社から見積もりを取るように」といった話を、稔は元会社の経営者らしく、鈍色の眼で淡々と話した。

 帰りのバスの中、潤子は心に沈む大小様々な石ころを、ひとつずつ掬い上げて溜息をついた。歳をとるということは、石ころを上手に粉砕する機械が備わることなのだろうか。あるいは石ころの重みそのものに、鈍感になるということだろうか。
 澱んだ気持ちでバスを降り、駅前のロータリーから進んでいくと、都営大江戸線のエスカレータを降りて歩いていく、真由子の姿を偶然見つけた。久しぶりに遠く離れたところから娘を見据えた潤子は、咄嗟に大きな違和感を抱いた。
 早足で真由子に近づき、斜め後ろの位置から、その身体に見入った。真由子はまた太り出したのか。単なるリバウンドか。いや、違う。
 「真由子、あなたもしかして……」
 急に声をかけられた真由子は、飛び上がるほど驚いて振り返る。
「もしかして、妊娠してる?」
 真由子の顔が一瞬凍りついた。泣く、と潤子が思った次の瞬間、真由子は凄むように顎を引いて唇を噛みしめた。
「してる。子供ができた。私、産むから」
 潤子は膝の力が抜け、その場にへたりこみそうになった。

 帰る道すがら話を聴いた。真由子の決意は固く、開き直っているように見えた。家に着くと、耕平が夕飯の支度をしていた。初めてのことだ。きっと耕平なりに考えて、夫婦間に何か新しい風を吹かしてみようと考えたのだろう。
 「お好み焼きつくってるところだ。二人とも食うだろ。豚玉と海鮮ミックスだぞ」
 耕平は両手に持ったフライ返しで、まさに巨大なお好み焼きを裏返そうとしていた。無理! と潤子が思った瞬間、お好み焼きは空中でばらけてホットプレートの上に散った。
 「ボロボロだけど、味は美味しいよ」
 真由子がそう言ってお好み焼きを口にする。耕平は満足気に頷いている。潤子はつい、真由子の腹を見つめてしまう。
 夕食が終わると、真由子はすぐに自室に引き上げてしまった。自分の口から父親に報告をするほどの余裕はないようだ。仕方ない、私の口から伝えるかと、潤子は大きく息を吐いた。
 「あのね」と潤子が声をかけると、耕平はびくりと肩を上げ、「昨日の話か?」と大きく身構えた。
「そうじゃないの。真由子がね、妊娠してるの。もうすぐ五ヶ月に入るって」
「え~っ! 何だよ、それ。相手は誰だよ」
 潤子はさっき聞いたばかりの内容を、耕平に説明した。
 
 真由子はバイト先で、小泉優也という同い年の男と知り合った。優也は三重県から漫画家を目指して上京し、バイトをしながら極貧生活を送っているという。
「マジか、それ。真由子とソイツじゃ、子供なんて育てられないじゃないか」
「そうなのよ。言えば反対されるだろうと思って、内緒にしてたみたい。あの子、『産むから』って勝手に覚悟だけ決めてて、とっくに母子手帳とかも貰ってるし。もう、どうするつもりなんだか……」
 耕平と潤子は、互いに唸るような溜息をついた。次の瞬間、
「あ、そうだ、忘れてた! さっき涼太から電話があってさ、アイツ、結婚決めたって。来年あたり海外駐在になりそうだから、その前に式挙げたいって。どこだったか外資系の高級ホテル、一年待ちの予約だったけどキャンセル出たから二月の末に決まったって。アイツだけはほんと、とんとん拍子だな」
 真由子の問題を打ち消す吉報とばかりに、耕平が明るい声で言う。潤子は耐え難い疲労感に襲われた。言葉が出ない。どうしてこのタイミングで、次から次へといろんなことが降りかかってくるのか。

 その晩、潤子はいつまでも寝つけなかった。心の中にあったはずの石ころが、ベッドに入ると頭の中に移動した。身体は疲れているのに、ゴロゴロぐるぐる、石ころが転がり続けて、潤子の脳を休ませようとしない。
 とにかく真由子だ。真由子をどうする? まずは小泉君とやらに逢わなくては。真由子同様きっと社会性も低いんだろう。彼のバイト代だけで子供を養えるわけがない。
 そうだ、この家に住まわせるか。耕平に実家に帰ってもらって、私と真由子達と孫で暮らすのだ。離婚するなら財産分与で、この家の権利も二分の一ずつになるのだろうか。でも真由子達が住むなら売却もできないし……。
 そもそも離婚はできるのか。涼太の結婚式には、新郎の両親として揃って参列すべきだろう。
 ああ、近い未来に私のお父さんも死んじゃうんだな。マチュピチュなんて遠い、夢のまた夢だ。山倉の姿が、濃い霧に包まれて遠ざかっていく。
 あまりに寝つけないので起き上がり、もしかして自分は今天中殺なのかなと思いついた潤子は、スマホのサイトで生年月日を入力してみる。違ったか。とりあえず胸を撫で下ろす。
 それより真由子だ。中学生じゃあるまいし、隠し通せるわけもないのに。妊娠に気づいたのは、ペルー旅行に行かないと言い出して泣いた、あの日だという。ずっとつらかったんだろう。どうして今まで気づいてやれなかったのか。
 「だってお母さん、この頃ずっと魂抜けたような顔してたよ」なんて言われてしまった。まるで母親失格ではないかと、潤子は自分を責めた。泪ぐみながら、さっき耕平の言った「とんとん拍子」の対語ってあるのかなと、そんなどうでもいいことまで頭を巡った。

 火曜の晩、真由子は小泉優也を連れて自宅に戻ってきた。とにかく一度会って話をしようと、耕平に諭されたのだ。
 優也は想像どおり気の弱そうな、のび太似の眼鏡男だった。何を言うにもまず、「すみません、あの……」で始まる。
 「早く、ちゃんと籍を入れたほうがいい。それから住まいはどうするんだい。君が今住んでる部屋で、親子三人暮らせるのかな」
「すみません、あの、それはちょっと……。四畳半の一間なんで」
 優也は消え入りそうな声で言う。
「籍は入れるけど、今のままでいいよ、とりあえず今のまま。私がここに住んで子供育てて、小泉君が時々こっちに逢いに来る感じで」
 真由子が妙に堂々と意見を放つ。
「いや、そういうわけには……」
「おままごとじゃないんだから……」
 耕平と潤子の困惑の声が重なった。
 早々に入籍し、今後についてはこちらもサポートをするから、きちんとけじめをつけて一緒に暮らした方がいいと伝え、その晩の話し合いはそこで終わった。

 
 それから一週間は怒涛の日々だった。
 優也の母、美佐代が三重から上京してきた。優也が10歳の時に夫が病死し、それから美佐代は実家に戻って製茶業を継いでいる。優也の4歳上の姉は、すでに結婚して子供が二人いるという。
 美佐代は玉露入りの自家製高級煎茶詰め合わせを差し出して、申し訳ないとしきりに頭を下げ恐縮して見せた。見るからに実直そうな人だ。
 潤子と同い年だという美佐代の浅黒い肌は乾いていて、額や目尻には薄い皺が刻まれている。すでに二人の孫がいるせいもあってか、美佐代は潤子よりもずっと年上に見えた。苦労を重ねてきた分の差なのだろうと、潤子は暢気に暮らしてきた自分を恥じ入るような気持ちになった。
 その次は涼太だ。玲奈とは今までに、短時間ではあるが三回顔を合わせた。涼太はすでに何度も、彼女の実家に顔を出しているようだ。そしてこの度耕平と潤子は、玲奈の両親から、横浜市青葉台の自宅に招かれた。親同士の初顔合わせだ。
 
 当日青葉台駅に着くと、真っ白いメルセデスから涼太が降りてきて手を振った。
「ご両親を迎えに行ってらっしゃいって、お義父さんが車貸してくれたんだよ」
 潤子が初めて乗る高級車の到着先には、瀟洒という表現がぴったりな家が建っていた。同じ戸建てといっても、潤子の自宅とは次元が違う。庭先の植栽はうっとりするほど繊細で上品だ。白壁に影を落としてオリーブの葉が揺れている。
 緩やかな石段の先の玄関扉が開き、陽に焼けた肌に白シャツを腕まくりした男が笑顔で現れた。アパレル関連事業の代表を務めるという、玲奈の父親だ。
 通されたリビングは、インテリアもテーブルコーディネートも完璧だった。天井まである大きな窓から降り注ぐ陽射し。ゆったりとしたダイニングテーブルの端から端を、テーブルランナーが横断している。
 テーブル中央と左右の三カ所に、白とブルーを基調としたフラワーアレンジメント。皿の上にセットされた水色の布ナプキンが薔薇の形に折りたたまれているのを見て、潤子は一瞬目眩を覚えた。美容室でしか手に取ることのないズッシリと重たい高級婦人雑誌の中に、時々こんな感じの写真が載っている。
 玲奈の母はテーブルコーディネーターとして、雑誌や広告の仕事に参加しているという。玲奈はそのアシスタントを務めているらしい。要するにプロの手による技を今、潤子達は見せつけられているわけだ。
 今さっき焼きあがったばかりだというフルーツタルトを、玲奈は器用な手つきで切り分け、手元のケーキ皿に載せる。その皿を、すでに置かれた各人の皿の上に重ねていく。皿の上に皿。それもどこか遠い異国のブランド食器に違いない。
 潤子はすこぶる居心地が悪かった。どこに視線を定めていいか分からない。隣に座る耕平は、脂の浮き出た顔に引き攣った笑みを貼りつけている。アウェイ感が強すぎる。
 「涼太さんはほんとにしっかりしてるから、私達も安心して全部お任せできるわね」
 玲奈の母は、無造作にまとめたように見せかけて実は計算されつくしたようなアップヘアで、優雅に微笑む。
 涼太は照れ笑いを浮かべながら玲奈の隣で「これもすごく美味しいよ」とタルトを口に運んでいる。息子はもう、完全にアチラ側の人間だなと、潤子は冷ややかな気持ちでつくり笑いをした。


6

 「兄さんの会社、新橋だったよね。大宮からだったら四十分で着くのよ。練馬からとほとんど通勤時間変わらないわよ」
 このところ和江の我儘に辟易している様子の弓子は、電話で耕平をせっつく。
「お母さん、自分はどこへも動きたがらないくせに、『一人は淋しい』って。『お兄ちゃんが来てくれたらいいのに』って、最近そればっかりよ。兄さん、単身赴任のつもりで、しばらくお母さんの所に住んであげてよ」
 受話器から大きく漏れる弓子の声は、確実に怒りのヴォルテージが上がっている。
 電話を切った耕平は、大きく溜息をつきながら脇腹を掻いた。
「ちょっとしばらく、アッチに行ってくるかな」
 耕平はそう言って、遠慮がちに潤子の顔を覗き見る。潤子が離婚を切り出してからというもの、耕平はずっと妻の顔色を窺いつつも、自分からその話題に触れようとしない。
「それがいいんじゃない? お義母さん、きっとそれが一番嬉しいんだと思うわよ」
「そうかな。まあ弓子も気の毒だから、しばらくアッチの方に泊まってくるよ」
 潤子から離婚の話を持ち出さないのは、燃えあがりかけた炎がくすぶってしまったからだ。母親という役割、それを全うしようとする責任感が、潤子の我欲の少し上を飛び越えた。耕平を愛しているとは言えない。積もり積もった恨みもある。しかし、心底憎んでいるというほどではない。
 翌日耕平は、何日か分のワイシャツや下着、靴下などをボストンバッグにまとめて家を出た。耕平の長期滞在を可能にするため、秋冬物の上着や普段着、スーツやネクタイなどもまとめて宅配便で送ろうかと潤子は考えついたが、和江にとやかく言われるのも面倒なのでやめておいた。

 耕平が不在だと、家の中は妙に広々と感じられる。空気が爽やかだ。
 「今日、小泉君に泊まりに来てもらってもいい?」
 真由子が潤子に訊ねる。戸籍上はすでに夫婦だというのに、真由子にはその自覚がないのか、小学生のお泊り会のような雰囲気である。安定期に入った真由子は、このところ食欲も戻ってきて元気そうだ。出産予定日は来年3月5日だという。
 その日典子からの頼まれごとで池袋の百貨店まで出かけ、用事を済ませた潤子が夕方自宅に戻ると、優也がキッチンに立って料理をしていた。
 「あ、すみません、あの、勝手に台所お借りしてます」
 優也は鶏のように小刻みに頭を下げながら、器用な手つきで揚げ物をしている。
「お母さんも一緒に食べよう。小泉君、料理上手なんだよ。私が油淋鶏食べたいって言って、作ってもらってるの」
 優也は揚げたての鶏肉をサクサクと小気味よい音を立てて切り分け、葱ソースをたっぷりとかけてテーブルに置く。食欲をそそる香ばしい香りが広がった。
「すみません、お皿も勝手に使わせてもらいました。あの、よかったらどうぞ」
 優也はそう言って、取り皿と箸をスッと差し出した。
「あらやだ、美味しいっ!」
 潤子は思わず声をあげた。出来立ての油淋鶏は想像以上に美味かったのだ。はにかんだ笑顔を見せる優也の腕は細いながらに筋肉質で、ライオンから逃げ回るサバンナの草食動物を想わせた。優也は食べ方も綺麗だった。美佐代が作法に厳しかったのかもしれない。
 「あ、片付けも僕やります。油はどうすればいいですか」
 スッと席を立つ優也の腰の軽さ、身のこなしに、潤子は希望の光を見たような気がした。
 「ねえ、優也君、この家に引っ越してくれば? 部屋ならなんとかなるから」
 潤子は思いきって切り出した。実際のところそうする以外、今のこの二人に未来図を描く術はないような気がしたのだ。
 一階の元夫婦の寝室、今は潤子が一人で寝ている八畳の洋室を二人に明け渡せばいい。二階には三部屋ある。真由子の部屋と、涼太が置いていった古い机や本、想い出の品がいくらか残っているだけの空室。その隣は耕平の名ばかりの書斎、兼寝室。現実逃避する彼の小さな城だ。その気になれば、なんとでもなる。
 「あ、ついでに私の部屋、小泉君の仕事部屋にすればいいじゃん。漫画描くときの」
「いや、そんなのって……、あまりに図々しいよ」
 優也は嬉しいのか気まずいのかそれを隠したいのか、半分怒ったような顔になる。

 大宮の実家から一週間で戻ってきた耕平は、心なしか顔の色艶が良かった。
「弓子がさんざん脅かすからさ、どんなに落ち込んでるのかと思ったら、オフクロやたら元気だったよ。朝からしっかりご飯の支度とかしちゃってさ。俺に食え食えって大変よ」
 潤子はなるほどと思った。可愛い息子のためなら母親はいくつになっても元気に動けるのだ。それに和江はまだ80歳になったばかりだ。あと二十年生きる可能性だって充分にある。
 「お義母さんを元気にできるのは、あなたしかいないのね。実家の居心地も良さそうだし、これからちょくちょく泊まりにいってあげると、お義母さんも喜ぶわね」
 軽く耕平を持ち上げておいてから、いきなりの事後報告をした。
 「今度の土曜日にね、優也君がこっちに引っ越してくるから」
「え、何それ。聞いてないよ。もう決まったの?」
「もう決まったの。決めさせたの。だってどう考えたって今のままじゃマズイでしょう。あと五ヶ月もしたら子供が生まれちゃうのよ。真由子にだってもうちょっと自覚を持たせなくちゃ。でも自覚が芽生えたところで、二人にお金はないんだし。とりあえずしばらくはサポートしてやらないと」
「まあ、そうだな。先のことは分からないけど、とりあえずはそうだな」
「あなたの部屋はそのままでいいけど、涼太の部屋を片付けて、私のベッドをそこに移すから。悪いけど荷物の搬入と移動と、優也君を手伝ってあげてくれる?」
「おう! わかった」
 耕平は久々に気合いの入った返事をした。もう潤子が離婚の話を蒸し返すこともなさそうだと確信し、安堵したに違いない。単純な男なのだ。悪い人間ではない。


7

 山倉からメールが来た。先日の「ともしびの家」の集まりに、潤子が欠席したためだ。このところ毎日が恐ろしいほどの密度で過ぎていき、正直それどころではなかったのだ。潤子はこの二月半ほどの間に起ったあれこれをどう伝えるか迷ったが、結局二人で逢うことに決まった。七月の親の会の後に、初めて二人でお茶をした喫茶店だ。
 「ペルー旅行はいかがでしたか」
 カフェテーブル越しの山倉は、気のせいか一気に老け込んで見えた。セピア色の店内の、薄暗い照明のせいかもしれない。今日は落ち着いて話そうと自分に言い聞かせ、潤子は七月末以降の事の顛末をゆっくりと語った。
「そうでしたか。それはずいぶん大変でしたね。残念だったけど、よく頑張りましたね」
 山倉はそう言って眼を細める。山倉の笑顔が妙に乾いて見えた。
 「実は僕もね、先月母を亡くしました。認知症で長いこと施設に入っていて、94歳でした。もう僕の顔も、すっかり忘れてしまっていましたけど。それでも母親を亡くすというのは、男にとっては格別に哀しいものですよ」
 短期間に山倉の全身から、水分が抜けきってしまったように潤子は感じた。
 「ところで、旅行に行けなかった潤子さんは、ご主人に離婚の申し出はしたの?」
 山倉はいつになく悪戯っぽい口調で潤子の顔を覗き込む。
「言いました、一度だけ。でもその後に、あれこれいろんなことが一度に押し寄せて。結局曖昧にしたまま、決断できないでいます」
 潤子は正直に言った。
「そうでしたか。でもそれは潤子さんが、『とりあえず今のままでいよう、っていう決断をした』ってことじゃないかな。離婚することだけが決断ってわけじゃあない」
 潤子は何と言えばいいか言葉に詰まり、頷きながら下を向いた。気詰まりな沈黙が続く。

 店のどこかにあるスピーカーから、小さな音で流れているBGMに気づいた。「ムーン・リヴァー」だ。
 「明後日は、妻の命日なんです。今年は十三回忌だ。今日まで長かったような、あっという間だったような……。時々、自分が今何処を歩いているのか分からなくなる瞬間がある。時の流れというのは不思議なものですね」
 山倉は半分独り言のようにそう言って、とっくに空になったコーヒーカップを口に持っていき、すぐに気づいて皿に戻した。
 歳をとると、哀しみは人を潤さない。哀しみに濡れるたび、干乾びていく。潤子は何となく、そんな気がした。
 「娘の出産前後はきっとバタバタして、しばらく会のほうには出席できなくなるかもしれません。皆さんにもよろしくお伝えくださいね」
 帰り際、山倉に笑顔でそう言った。
「赤ちゃんが生まれたらメールでもください。会の皆に知らせますよ。皆きっと喜ぶでしょう。お嬢さんは『ともしびの家』の希望の星ですから。潤子さんも身体に気をつけて。あ、それから。いつか、マチュピチュを訪ねる日が来ることを祈ってますよ」
 最後のワンフレーズを、眼鏡の位置を直しながら山倉は言った。
「ありがとうございます。山倉さんもどうぞお元気で。マチュピチュは、私も諦めていません。いつか必ずこの眼で……」
 潤子は、自分がいちばん綺麗に見えると思う表情筋の動かし方で微笑んで、山倉を見つめた。もう、二度と逢うことはないかもしれないなと思った。

 優也の荷物は、呆れるほどに少なかった。引越し業者も頼まず、友達のワゴン車を借りて自分で荷物を積み込み運転してきた。「引越し屋のバイトしてたこともあるんで」というだけあって、優也は要領良く潤子のベッドを解体し、耕平をリードして二階に運び、それから自分の少しばかりの荷物を運び入れた。
 「意外と使えるな、アイツ」
 優也の仕事ぶりに感心して耕平がそう呟くと、真由子がすかさず釘を刺す。
「使えるとか使えないとか、人に対してそういう言い方するのやめて、お父さん」
「あ、そうか。すまん」
 夕飯は鮨の出前を頼んだ。優也はしきりに恐縮し、真由子はすっかり調子にのって、「小泉君の玉子焼き、も~らった~」などと無邪気な子供そのものだ。
 「真由子、これからはあなたもちゃんと家事をするのよ。お母さんは今後、中野のおばあちゃんの家に通うことも増えてくるし、お父さんだって大宮のおばあちゃんのところに泊まり込むことが出てくるの。まずは洗濯くらいね、自分達の分はあなたがやりなさいよ」
 小学生に言い含めるようだと、自分で話しながら潤子は思う。
「え~、そうっかぁ。そりゃそうだよねぇ」
「真由ちゃんがしんどかったら、僕がやるよ」
「あ、でもそしたら小泉君が漫画描く時間なくなっちゃうね。私が頑張るよ」
「まあ、どっちでもいいから、二人で協力して上手くやっていってくれよな」
 飲み干したビールグラスを置いて耕平が笑う。
 この感じ、何だか悪くないなと潤子は思う。涼太が家に居た頃の食卓より、空気が緩んでいて無理がない。決して理想ではないし健全とは言えないかもしれないが、まあとりあえず、こんなカタチがあってもいいんじゃないか。左の掌で湯呑みの底を包みながら、潤子はぼんやりと三人を眺めた。

 真由子と優也は片付けをすべく、自分達の新居となる八畳のスペースに戻った。耕平と潤子は斜め向かいの席から、惰性でついたままのテレビ画面を眺めている。
 「おい」と唐突に、耕平が潤子を呼ぶ。
「俺は絶対に離婚する気なんてないからなっ」
 いつか言おうと、待ち構えすぎていたのだろう。妙にドスの効いた野太い声だった。眉間に力の入った耕平の顔を見つめた瞬間、潤子は思わず吹き出した。見たこともないような太く猛々しい鼻毛が、それも両穴から一本ずつ、叫び出さんばかりの勢いで飛び出していたのだ。


8

 新しい年が明けて早ひと月、潤子は今、両親が去ったマンションの中途半端な空室を眺めている。
 稔と典子は先週、終の住処となる有料老人ホームの二人用居室へ引っ越した。持ち込む荷物を限定し、ほんとうに必要な物だけを搬入した。二人が長く使っていた家具も、不要な衣類も台所用品も、多くがこの部屋にそのまま残された。
 既に90歳前後となった両親の老い支度ともなれば、一人娘の潤子がそのほとんどを担わなくてはならない。貴重品だけはしっかり預かり受けたものの、これら多くの不用品は業者を呼んで処分するしかなさそうだ。そして部屋が空っぽになったら、次はどうしよう。リフォームして賃貸に出すか。管理してもらっている不動産屋に相談しよう。今の潤子には、考えることが山ほどある。
 今月末には、涼太の挙式と披露宴が控えていた。高給取りの涼太は親に費用の負担を求めることなく、すべて自分達で事を進めていた。とことん気の利く涼太はホテル内の美容室に、当日の潤子の着物の着付け、ヘアセットの予約まで手配しておいてくれた。

 結婚式当日、シェラトンMホテルの控室に現れたウェディングドレスの玲奈は、輝くほどに美しかった。涼太と玲奈、彼女の両親が並んでいると、まるでドラマ撮影のワンシーンのようだ。
 そこに太鼓腹の目立ってきたモーニング姿の耕平と、レンタルした黒留袖の潤子、何とか見つけることのできたマタニティドレスを纏う、ダルマのような臨月の真由子、さらに礼服がまったく様にならない優也が加わると、一気に景色はリアリティを増した。
 「正式にはまだ喪中の私が、おめでたい席に出させてもらってもいいのかしらね」と、もったいつけた言いぶりだった和江は、完璧に髪をセットし黒留袖でやってきた。弓子は洋装だ。潤子の両親はホームから、タクシーでホテルに乗りつけた。典子は古いけれど上等なフォーマルドレスを身に着けている。
 芸能人のようなオーラを放つ新郎新婦にまずは皆が感嘆の声をあげ、その次は間違いなく全員が、今にも弾けそうな真由子のお腹について触れざるを得なかった。予定日まではあと一週間もないのだ。
 披露宴は、新郎新婦の大勢の友達で大いに盛り上がった。涼太の高校時代のサッカー部の仲間、W大時代のサークル仲間、M商事の同僚、上司など、ほとんどが皆エリートコースまっしぐら、社会の真ん中、世界の真ん中を、それが当たり前だと思って生きてきたように見える人達だった。玲奈の友達はまた、揃いも揃ってスラリとした美女揃いだった。類は友を呼ぶというのは本当らしい。
 お色直しした玲奈が眼の覚めるような鮮やかなピンクのドレスで登場すると、
「うわぁ、きれい……。まるでモデルだね。あり得ないほど美しい」
 腹に巨大な西瓜を隠し持っているような真由子が、溜息まじりに言う。
「そして隣に、出木杉君……」
 優也が蚊の鳴くように小さく呟いたのが可笑しくて、潤子は必死に笑いを堪えた。
 少し離れた向いの円卓に、玲奈の両親が並んで微笑んでいる。まるでそこだけスポットライトが当たっているかのように、輝いて見える。
 だけどそう見えるだけで、地球の真ん中を堂々と歩いているように見える人達の現実は、皆が皆そんなふうではあり得ない。
 たとえばドラマの俳優のように見えるあの夫婦にだってきっと、外からは見えない傷がいくつもあるに違いないだろうことくらい、潤子は疾うに知っている。

 その十日後、予定日を五日過ぎて真由子の陣痛が始まった。
「痛いよ~、怖いよ~」と繰り返す真由子に、
「真由ちゃん、僕、ほんとに立ち会ってもいいんだよ?」
 と、優也が真由子の腰を擦りながら繰り返す。
「大丈夫。恥ずかしいから絶対にイヤ。一人で頑張るっ」
 真由子はすでに脂汗を滲ませながら、頑なに拒んだ。
 
 そしてついに子宮口全開。真由子は顔を強張らせ、小股で分娩室に歩いて行った。途中、振り返って優也に向かい、真由子は力強く頷いて見せた。

 オギャーーーッ。
 甲高い声が、待合室の空気を震わせたように感じた。潤子は隣に座る優也の拳を思わず握りしめる。
 オギャーオギャーと、威勢のいい声が響き渡る。
ああ、これは希望の産声だと、潤子は思った。



                       

                       …… 第3章につづく ……


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