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【心得帖SS】「MR」って何ですか?

「大住先輩、本日は宜しくお願いします」
「うむ、苦しゅうない。もっと近う寄れ」
大住有希が幾分おどけた口調で返したところ、藤阪綾音はカラカラと笑って言った。
「やっぱり大住先輩は面白いです。営業一課の配属になって本当に良かったと思っています」
綾音は本年度入社の新入社員。数ヶ月の営業実習を経てようやく自分の配属先に着任することが出来たのだ。

「さて、今日の予定は把握している?」
「はい、確かお店を回ると伺っています」
「そうそう、私たちの会社の商品を置いて貰っているお店を何軒か回る予定だよ」
スケジュールボード横に下げられた営業車の鍵を手にしたあと、有希はホワイトボード専用ペンのキャップを開けた。
「先輩…この【MR】って何ですか?」
ホワイトボードに大住・藤阪のネームラベルを並べた右側に【市内MR】と書いた有希に、綾音は不思議そうに尋ねた。
「確かにナゾの暗号みたいだね」
微笑んだ有希は、おどけた口調で続ける。
「綾音ちゃん、私たちは今から【マーケティング・リサーチ】に出発するのですよ」
「マーケティング、リサーチ?」

会社が契約している駐車場を左折した有希の営業車は、メイン通りに続く道を目指してトコトコ進んでいる。
「店舗巡回と店舗MRの違いはね」
十字路でしっかり左右を確認しながら、有希が説明する。
「お店で何が起こっているのか、どのような【機会】や【リスク】があるのか、自分の目でしっかりと確認することなの」
「漠然とお店の売場を見るのではなく、目的があるのですね」
「これ、私が新人の頃、課の先輩に貰ったの。綾音ちゃんにもあげるね」
店舗巡回の心得帖、と書かれた数枚の書類を綾音に手渡す。
「トヨタさんやホンダさんが大切にしている【三現主義】って言葉は知ってる?」
「はい、大学の講義で学びました。確か製造現場の品質管理で重要視されている考え方ですよね」
クルマ好きの教授がゼミの講義で毎回楽しく話していたので、綾音の記憶に深く残っていた。
「そうね。実際の現場に足を運んで、現物を直接目で確認して、現実をしっかり踏まえて問題解決に当たることが大切という考え方」
簡単にポイントを纏めた有希は、信号待ちのタイミングで綾音を見た。
「これって、私たちの会社にも当てはまると思わない?」
「あ…確かにそうですね」
漠然と思っていた考えが、いまの自分に繋がる感覚がした綾音は、有希に問い掛ける。
「私たちがお店を回るのは…商品に近い売場で何が起こっているのか、事実を正しく捉えること」
「うん、正解!」
バチンとウインクをして、有希が応える。
「実は私、将来は商品開発担当者になりたいと思っているんだ」
「あ、分かります。メーカーに就職したからにはやっぱり憧れますよね」
「私も実際この会社に入ってから、商品開発部の研修や、部で働いている人の話を聞く機会があってね。色々な制約条件のある中で、新しいニーズを開拓していくことの大変さが良く分かったの」
まさに猪突猛進状態だった新人時代の自分を思い返して、有希は「たはは」と苦笑する。
「御幣島さんっていう凄く優秀な先輩が居てね。今は開発部のチーフなんだけど。その人の言葉が忘れられないんだ…」

『美味しくて身体に良い、楽しくなる商品を生み出すことは勿論、生み出された商品がお客さまに可愛がって貰えるように育てていくことも大切なんだよ』
本社商品開発部の御幣島密はそう言って、新入社員が座っているテーブルを見渡した。
『こんなに良い商品を作ったのだから頑張って売って貰わないと困る、と考える人も居るけれど、僕はそれって【育児放棄】なんじゃないかなぁと考えてしまうタイプなんだ』
少しくたびれた白衣の袖を気にしながら、御幣島は言葉を続ける。
『同じ会社のメンバーとして、部署や立場がどうだからではなく、みんなで新しい商品を育てていきたい。そのために営業の皆さんには、現場で何が起こっているのか、正しい情報を速やかにフィードバックして貰えると、開発担当者としてはとても嬉しいですね』

「…素敵な人ですね」
有希の話を聞いて、綾音はほうとため息を吐いた。
「我が社の看板商品【アレ(凄く長い名前)】も、御幣島さんのチームが開発したんだ」
有希は、ぐっとハンドルを握り込んだ。
「いつか、私もあのチームの一員になりたい。そのために、今ここで出来ることを一生懸命頑張っているの」
そう言えば他の先輩社員から、大住有希の営業レポートは必ず目を通すように、と言われたのを思い出した綾音は、鞄から会社スマホを取り出して専用の営業日報アプリを立ち上げた。
「…凄い」
そこには、ひとつの訪問先に対して、今回の狙い・目的、確認した内容(定量・定性)、機会と脅威、仮説に基づく行動と結果、所感などがびっしりと記されていた。
(文章を読むだけで、現場のイメージが伝わってくる)
「いやぁ、何だか柄にもなく真面目に語り過ぎちゃったな。ごめんね、今日は楽しくお店を回りましょう」
照れたように頭を掻く有希を見て、綾音は本当にこの課に配属されて良かったと、改めて実感したのだった。

某食料品店に着いた2人は、納品口横の守衛室にて受付を行い、首からゲストプレートを掛ける。
「さっき渡した心得帖にも書いてあるけれど、自社の商品が置かれている売場以外にも、お店全体で見て欲しいポイントがあるの」
「はい」
普段は買い物客として歩いている売場にメーカーとして来ている違和感を覚えながら、綾音は有希の言葉に耳を傾ける。
「まずは生鮮3品(青果・鮮魚・精肉)はマストね。相場に左右されるので売価の移り変わりはこまめに見ておくといいわ」
「特に野菜は収穫量に左右されますよね」
「そうそう、あとは鮮魚売場で刺身や切身のトレイにドリップ(組織液)や血液が多く出ていると、処理してから時間が経過していることが分かるわ」
「普段のお買い物でも参考になります」
「話が前後してしまうけれど、お店に入る前には、入口近くのチラシや売り出しPOP、お客さまの声が貼られている掲示板、キャンペーン応募ハガキ等もチェックしておくことも大切ね」
いつの間にかお店のチラシを入手していた有希は、綾音に1枚手渡す。
「これは、取引先さまの本部販売促進担当の方が、お客さまの購買行動や市場の動き、季節性などを予見して組み上げた【作戦シート】だと私は思っているの」
「わっ、チラシにその発想はありませんでした。凄く面白いです」
今度は色々なお店のチラシを見比べてみようと決めた綾音は、色々な引き出しを持つ先輩に更なる質問を向けた。
「有希先輩は、お気に入りの売場とかありますか?」
「わたし?うーんそうだなあ…色々あるけれど、ドライ売場のエンド陳列は必ずチェックしているよ」
丁度通り掛かったドライ売場の陳列棚の端では、某カレーメーカーの商品が山積みとなっていた。よく見ると、全体が海賊船のような仕様となっている。
「これは…冒険がテーマなのかなぁ。とても面白い」
有希は近くにいた店員に声を掛けて許可を貰い、その陳列棚をスマホでパシャリと撮影した。
「いやー眼福眼福ぅ」
ほっこりした笑顔になる有希を見て、綾音は感じたことを素直に言葉にした。
「有希先輩は、商品が本当に好きなんですね」
「…うん、大好き」
綾音が思わずドキッとするほど憂いを帯びた表情を見せて、有希は言った。
「せっかくこの世に生まれてきたんだから、みんな幸せになって欲しい。でも現実は厳しくて自社・他社を含め毎日幾つもの商品が棚から消えていくの」
「…先輩」
「だから私は戦っている。1人でも多くのお客さまに、商品の素晴らしさを知って貰うために…」

「今日は、有難うございました」
その後数店舗を回ったところで良い時間になったため、2人は事務所に戻ることにした。車の中で、綾音は改めてお礼の言葉を述べた。
飲んでいた野菜ジュースのストローから口を離した有希はニコッと笑う。
「こちらこそ楽しかった。また同行しようね。今回ずっと真面目モードだったから、次回は恋バナ祭りとかどうかな?」
「ははは…お手柔らかに」
「何その反応、気になるぅ!」
目が輝き始めた有希の追求を躱わすため、綾音は別の話題を振った。
「そう言えば…私の同期がこの間、寝屋川課長と同行したのですが、お店の揚げ物コーナーで30分以上動かなかったらしいんです。もしかすると、あれもMRの一種なのでしょうか?」
「あ、それは単なる【トンカツ病】だよ」
「へっ…とんかつ?」
聞き慣れない言葉に戸惑っている綾音を他所に、有希は「はははっ」と笑いながら、大通りから側道に入るためウインカーを左に傾けていった。

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